「北の山・じろう」時事問題などの日記

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シベリア抑留と開拓団の悲惨【我が家のホームページ】

【我が家のホームページ】
第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
(シベリア抑留と開拓団の悲惨)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

上 記ページから引用。沢山の資料が掲載されています。よく丹念に集められたと感謝いたします。この記事では、その中から、「シベリア抑留」を抜粋・引用しま す。一般に、シベリア抑留者は約60万人と言われており、うち死亡者は約6万人と言われています。しかし、資料を見るならそれは、作られた数字である可能 性が、高いと思います。一番、実情に近い表現をするなら6万人以上、総数不明では、ないかと思います。ドイツの数字を見るなら、「ソ連兵に捕まえられたの は約三百五十万人、うち百十万人が死亡した。《北海道新聞「はるかなシベリア」平成七年から》」となっています。これとの比較から考えても、抑留者の数 も、死亡者の数も少なく言っている可能性があります。

以下、【我が家のホームページ】から抜粋・引用。

 シベリア抑留と開拓団の悲惨

 八月十五日、終戦の詔勅が放送され、十六日夜半には関東軍総司令官は全軍に停戦命令を発した。前線の隅々まで命令が届くまでは十日以上もかかったが、いずれの部隊もおおむねこれを受け入れ、現地ソ連軍の武装解除に応じた。

 ソ連軍は関東軍の武装解除をすすめると同時に、一千名単位の作業大隊を組織して、列車で続々とソ連領内に送り込んだ。関東軍の将兵に限らず、北緯三十八度以北の朝鮮にあった日本軍将兵はもとより、満州の民間人男子、樺太・千島の将兵・民間人男子を含めてその数は五十七万名以上(六十四万名ともいわれる)にのぼった。彼らはシベリアを中心に、何年にもわたって鉄道・道路建設、森林伐採、鉱山労働などに従事されられたのである。

 一方、二十七万名ともいわれる満州開拓団は、ソ連侵攻と同時に着の身着のままで南をめざして逃避行を余儀なくされた。その中には、例えば東安省鶏寧県哈達河開拓団一千三百名が逃げる途中、麻山というところでソ連軍と中国人ゲリラの挟み打ちにあい、進退きわまって集団自決した(「麻山事件」)というケースも少なくなかった。こうして十万名が逃避行の途中で犠牲となった。国策に従って中国人の耕地を奪い、入植した開拓団ではあったが、敗戦によるその末路は悲惨であった。現在、中国残留孤児と呼ばれる人々は、その逃避行の中で中国人に預けられたり拾われたり、あるいは買われたりした人々である。

 平成四年六月、シベリア強制連行はスターリン首相(当時)の直接指令に基づくものだったという文書が公開された。翌五年十月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は…謝罪し、六万一千八百五名の死亡者名簿フロッピーが引き渡された。
                 
《「図説 太平洋戦争」(1995 池田清編 河出書房新社)から》





 軍人・軍属及び一般邦人の強制抑留者の合計

  軍人・軍属強制抑留者  536,243人
  一般邦人強制抑留者    38,991人
    
(行政官・司法官等の官吏、警察官(国境警察、鉄道警察)、教員、協和会幹部・新聞記者、満鉄・電電等の大企業社員など)
    合    計    575,234人
                     
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

  ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された強制抑留者の総数 575,000人
  日本本土への直接帰還者数               473,000人
  逆送者数                        47,000人
  未帰還者(死亡認定者)数                 55,000人
               
〈『引揚げと援護三十年の歩み』(1978 厚生省援護局編 ぎょうせい)〉

 ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された一般邦人の地域別内訳
    満州         28,152
    関東州        1,500
    北支          500
    北朝鮮        4,112
    南樺太        1,240
    千島(北方領土を含む)  464
    満州・関東州     1,870
    満州・北朝鮮      669
    満州・関東州・北朝鮮  484
     計         38,991
       
(注:二つ以上の地域が記載されている項目は、満州からの移動後拘束されたことを示す)
                      
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

  
《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》




 ソ連の資料による抑留者数
 ソ連内務省軍事捕虜・抑留担当総局の(ソ連内務省次官に対する)報告によると、日本人捕虜の総数

六〇万九四四八人(日本軍人、軍属だった中国人、朝鮮人、モンゴル人、満州人、ロシア人などを含めると六三万九七七六人)、本国へ送還した者五四万六七五二人、死亡した者六万一八五五人となっている。        
《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》





 日本人強制抑留者数

 ソ連に抑留された日本人は約60万人、死亡したのは約6万人と云われていますが、シベリアに強制抑留された日本人は、ソ連内務省文書には、105万2467人、アメリカのマッカーサー元帥の記念文書館には、1111650人となっています。

 また、死亡者は、37万4041人とも伝えられています。
(新潮社『プリンス近衛殺人事件』)

 抑留者、死亡者の実数は不明であるというのが実態です。

 一九四六年夏、ソ連にいた日本人捕虜は百十一万千六百五十人であった。
                    
(米ヴァージニア州、マッカーサー元帥記念文書館)

 内務省のラーゲリには百五万二千四百六十七人の日本人が収容されている。
                    
(ソ連〈現ロシア〉クレムリンの内部文書)
                         
V・Aアルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
                         
『プリンス近衛殺人事件』新潮社発行より

 ソ連地区の引揚状況を顧みまするに、これは滞留すること一カ年半の後、即ち昭和二十一年の末から漸く引揚が開始され、翌二十二年十二月までに六十二万五千名、昨二十三年五月から十二月までに二十八万九千名という引揚状況でありまして、誠に遅々たるの感なきを得ないのであります。

 而も尚、取残された四十万の人々は、遂に四度の冬をあの厳寒の地に送り迎えしなければならない状況に置かれ、―略―
 又中立地区に残された六万の同胞は戦塵なお収まらざる中にあって、昨二十三年八月以降、帰還の途も全く途絶え、帰国の希望も失われんとするかの中に労苦を重ねておられるのであります。
                   『海外残留同胞引揚促進に関する決議案』提案理由より
   昭和二十四年四月二十六日 第五国会・参議院・本会議

                         
《シベリア抑留関係展示会の展示資料から》





 モスクワのロシア国立軍事公文書館に、第2次大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本人約76万人分の資料が収蔵されていることが23日、分かった。同館では日本政府に写しを提供する方向で話し合いを進めているという。

 …厚生労働省は23日、ロシア国立軍事公文書館で発見された新資料に含まれるシベリア抑留者の人数について「(公文書館側が推定する76万人分でなく)70万人程度ではないか」との見方を示し、ロシア側との新資料提供に関する交渉については「まだ新資料の入手に向け調整をしている段階で、両国間で合意ができているわけではない」と話している。
                                
《産経新聞2009/07/24から》





 ドイツ人捕虜も、シベリア送りとなった。第二次世界大戦で、捕虜になったドイツ兵は約一千百万人で、ソ連兵に捕まえられたのは約三百五十万人、うち百十万人が死亡した。日本兵捕虜六十万人のうち、一割に当たる六万人の死亡数からみると、ドイツ人の死亡率はかなり高い。
                      
北海道新聞「はるかなシベリア」平成七年から》




 ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
                                  (1941年6月〜45年9月)
 ド  イ  ツ 2,389,560   日     本  639,635   ハ ン ガ リ ー  513,767
 ル ー マ ニ ア  187,370   オーストリア   156,682   チェコスロバキア   69,977
 ポ ー ラ ン ド   60,280   イ タ リ ア   48,957   フ ラ ン ス   23,136
 ユーゴスラビア   21,822   モ ル ダ ビ ア   14,129   中     国   12,928
 ユ  ダ  ヤ   10,173   朝     鮮   7,785   オ ラ ン ダ   4,785
 モ ン ゴ ル   3,608   フィンランド    2,377   ベ ル ギ ー   2,010
 ルクセンブルグ   1,652   オランダ・ダッチ    457   ス ペ イ ン    452
 ジ プ シ ー    393   ノ ル ウ ェ ー    101   スウェーデン      72
                                24ヶ国合計 4,172,042人
 〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉
           《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》

「第二次世界大戦の死亡者数」をご存知ですか?

★「第二次世界大戦の死亡者数」は、4000万人から5000万人と言われており、総数不明です。どうしてそうなるかと言うと、戸籍(住民台帳)制度が整備されていた国と、それがまだ無かった国が、あるからです。人口把握が、ほぼ正確に出来ていた国では、死亡者数が大体、正確にカウントできます。無かった国では、概算するしか方法が無いのであろうと思います。

★そのため、概算の仕方によって、1000万人もの差が出来てしまうのであろうと思います。資料によっては、更に数字が多い場合もあります。
Wikipedia の記述
「軍人だけでなく約3000万人の一般市民が命を落とした。
民間人の死者は大戦での死者総数約5500万人の半分を超えることとなった。」

※追記
第二次世界大戦の犠牲者 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85
一部引用>
第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされる[1]。8500万人とする統計もある。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった。また、これらには飢饉や病気の被害者数も含まれる。

民間人の被害者数:3800万〜5500万(飢饉病気によるものは1300万〜2000万)。
軍人の被害者数:2200万〜2500万。捕虜としての死者数も含む。
(つまり、合計6000万人~8000万人。これが2014年のWikipediaの記述です)
<引用終わり


★参考資料
【我が家のホームページ】
第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

社会実情データ図表
図録第2次世界大戦各国戦没者
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5227.html

第二次世界大戦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6



★日本は、軍人、民間人合わせて約310万人の方々が犠牲となられました。日本人にとって、第二次世界大戦は大きな悲劇でした。

【我が家のホームページ】から引用
★一方、旧ソ連の死亡者総数は、軍人・民間人合わせて1800万人と言う数字があります。
《『ブリタニカ国際大百科事典』から》

中国は、軍人約1300万人となっています。民間人については、表記がありません。不明です。
《『ブリタニカ国際大百科事典』から》
資料によっては、民間人が1千万人以上になっているのもあります。中国政府の見解については、下に追記しました。


ポーランド 約580万人

ドイツは、約430万人となっています。
《『ブリタニカ国際大百科事典』から》

この資料では、日本人の犠牲は、197万人となっています。
《『ブリタニカ国際大百科事典』から》

上記の数字は、【我が家のホームページ】に掲載されている、《『ブリタニカ国際大百科事典』から》の項目から抜粋しました。この数字が正しいと言うことでは無く、どの時点かでの仮集計であろうと思います。それは、日本の数字を見ると、そう推測できます。中国政府は、起点を日中戦争にして、数回上方修正しています。


★世界を見るなら、また中国を見るなら、ロシアを見るなら
「ものすごい」としか、言いようの無い人々が戦争の犠牲になっています。

★戦争には、勝者も敗者も無く、あるのは「一般庶民の死者だけだ」と言うことが分かります。

★上記全ての人々に、黙祷をささげます。




※追記
【我が家のホームページ】から引用
日中戦争における中国人の戦争犠牲者数】
1946年8月、東京裁判で、中華民国の軍政部長 何応欽 が提出した戦死者数は、130万人。(死亡が確認された軍人だけの数…131万9千人)。

1978年、中華民国(台湾)政府発表、軍人の死亡132万人、行方不明13万人、民間の死者578万人。(軍民の死者 723万人)。

1989年、中華人民共和国政府発表、死亡932万。(これに行方不明289万人、負傷者947万人を合わせて、死傷者2168万人というのが、江沢民発言前の中国政府公式発表)

1995年、江沢民主席がモスクワで、軍民の死傷者の数は、3500万人と述べた。

                                       ≪掲示板への書き込みから≫


★2014年4月・追記
その後、調べて見るともっと大きな数字がありました。
世間話>最近、一番うけた記事。そして第二次世界大戦 2014-04-07
http://kitanoyamajirou.hatenablog.com/entry/2014/04/07/034338

李大統領発言( 天皇謝罪要求)について

★記事は、URL からお読みください。

天皇謝罪要求、安倍元首相「常軌を逸している」
(2012年8月14日23時48分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120814-OYT1T01002.htm?from=top


韓国大統領:発言の要旨
毎日新聞 2012年08月14日 21時56分
http://mainichi.jp/select/news/20120815k0000m030070000c.html


朝日新聞
李大統領発言に安倍氏「非礼だ」 外務省は「唐突感」
2012年8月14日21時4分
http://www.asahi.com/politics/update/0814/TKY201208140437.html


MSN Japan 産経ニュース
松原担当相「礼失した発言」 陛下に謝罪要求の韓国大統領を批判
2012.8.15 09:35 [歴史認識]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120815/plc12081509360007-n1.htm

社説:終戦記念日に考える 体験をどう語り継ぐか<毎日新聞

毎日新聞
ホームhttp://mainichi.jp/index.html
社説:終戦記念日に考える 体験をどう語り継ぐか
毎日新聞 2012年08月15日 02時30分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120815k0000m070099000c.html
(全文引用)

(1)

 67年前に終戦を迎えたこの日、まずは、手元にある戦争体験記録集を紹介する。新潟県十日町市の婦人学 級グループ「ゆずり葉」がこの夏にまとめた「戦争の記録 語り継ぐあの日あの時」という冊子である。戦中の食糧難から空襲、引き揚げ、抑留、戦闘体験ま で、人々と戦争との関わりが346ページの大部にあますところなくつづられている。

 例えば、終戦の日をどう受けとめたのか。大津直枝さんの場合はこうだ。正午からの玉音放送を聞くため分校に約30人の住民が集まり、村で1台しかないラジオを囲んだ。
 ◇等身大の戦争伝える

 先生の「天皇陛下のお言葉だから皆緊張して聞くように」との指導の下、耳をすませるのだが、ガーガー雑 音ばかりで内容がつかめない。隣のおばあさんに「何を言われたんだべか」と問われ、返答に困った大津さんが「国民も我慢して戦争のため頑張ってほしい、 だって」と答えた。先生も含め30人の中で大津さんの説に異を唱えるものはなかった。

 さすがに夕刻になると、終戦という事実が伝わってきた。「今夜から電気に毛布をかぶせることも窓にむしろを下げることもいらんし、よかったでねえか」「それにしても今夜必勝祈願の盆踊りが学校であるが、それをやめなきゃ……」といった人々の会話も細かく再現している。

(2)

 佐藤末子さんはこの玉音放送を、朝鮮半島の小さな村で聞いた。数日前のソ連参戦の一報を受け、軍人軍属 の家族の一員として中国大陸から日本に向け避難する途中のことだった。ここでも放送は聞き取りにくかったが、軍人が「日本は負けました。無条件降伏であり ます」と解説したのを機に皆が大声で泣き伏した。

 帰国するまでの1年間の逃避行は、地獄のような日々の連続だった。飢えと病気で毎日のように人が死んで いく。佐藤さんも2人の子供を失った。山の墓地に土まんじゅうを作って泣きながら埋葬し「帰国したら必ずお墓を建ててあげるからね」と誓い、戦後60年 たってようやく約束を果たすことができた、という。

 一地方の人々の体験談ではあるが、あの戦争が国民すべてに対しどれだけの犠牲を強い運命を狂わせたのか。人々がどうたくましく生き抜いたのか。一つ一つの記録が戦争というものを等身大に伝えてくる。

 残念なことに、「ゆずり葉」の活動はこの冊子発行が最後になる。25年間地道に記録を拾ってきたものの、語るべき人が鬼籍に入り、事務局自体も高齢化したため、という。

 やむをえないことである。これまでのご苦労に敬意を表したい。と同時に、私たちは、戦争体験の風化とい う新しい敵と対峙(たいじ)する覚悟を固めなくてはならない。戦争を知らない世代が率先して、記録を集め、かつ保管し、孫子に語り継いでいく役回りを果た したいものである。

(3)

 さて、過去を振り返るだけではなく、今に目を転じなければならない。幸運にも戦後の日本は一度も戦争を経験することなくアジア一の経済立国として生きることができた。憲法9条日米安保体制の組み合わせがそれを可能にした、といえる。

 だが、ここにきて日本の安全保障環境に変化が起きている。まずは、中国の台頭である。経済は国内総生産 (GDP)ベースで日本を抜き去り、資源、領土をめぐる海洋進出は東アジア地域での軍事的緊張を従来になく高めている。一方で、唯一の超大国であった米国 は戦争疲れと経済不振により相対的にパワーを低下させている。日本の平和戦略の源だった潤沢な対外援助資金も財政赤字と低成長から縮小気味である。
 ◇安保論戦の活性化必要

 これに加え、北方領土竹島尖閣諸島、という領土をめぐる三つの難題が一気に顕在化した。いずれも歴 史的、国際法的には日本固有の領土であるというものの、前二つに対しては、それぞれ実効支配しているロシア、韓国の大統領が上陸を断行、政治的攻勢をかけ てきた。日本が実効支配する尖閣も中国との間で「係争化」の様相を深めている。

(4)

 困難な課題である。まずは、この間の政治空白を反省しなければならない。地政学的な力関係が変化するき わめて重要な時期に、日本は1年交代の首相を6年間も続けてきた。政権の対外的信任、政策の継続性の面でとてもまともな外交ができるような状態ではなく、 そこにつけ込まれた公算が大きい。安定的な政権を作り、日米安保体制を基軸にした当面の対応策を早急に練り直さなければならない。中長期的には、安保環境 の変化に応じた総合的外交・安保政策の構築が必要になろう。政党間の論戦の活性化を望みたい。

 ここで、戦争体験の風化防止というテーマに戻りたい。あの戦争が私たち国民を存亡の機に陥れたことは、 戦争体験記録で見てきたとおりだ。他方で、アジア諸国に多大な損害と苦痛を与えた歴史も風化させてはならない。私たちが忘れても相手は語り継いでいくだろ う。領土をめぐる緊張関係の底流には、その歴史認識問題が大きく横たわっている。自虐史観ではない、バランスある成熟した議論を作り上げたい。

 戦争体験を愚直に語り継ぐこと。私たちにも可能な平和作りである。

戦争するもんじゃない 元兵士が体験談 抑留の苦難伝える<河北新報

河北新報
ホーム http://www.kahoku.co.jp/
戦争するもんじゃない 元兵士が体験談 抑留の苦難伝える
2012年08月15日水曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/08/20120815t14026.htm
(全文引用)

 戦中派が高齢化する中で戦争体験を語り継ごうと、「戦争と平和を考える」講演会が15日の終戦記念日を前に、宮城県大崎市吉野作造記念館で開かれた。
 大崎市の市民団体「ふるかわ平和のつどい」と「ふるかわ九条の会」が主催し、約30人が参加した。講師は市内の元兵士3人の予定だったが、1人は体調不良で欠席。自営業清水東七さん(88)は手記を書いたが「涙で読めない」と欠席し、代読された。
  清水さんは1945年1月に満州へ出征。同4月に母親の危篤を知らせる電報を受けたが戻れず、終戦後はシベリアに抑留された。帰国できたのは4年後。引き 揚げ船が着いた舞鶴港(京都)近くの郵便局に母の死を知らせる3年前の姉の手紙を偶然見つけたことから「母もまた『岸壁の母』だった」と、しのんだ。
 唯一出席した元兵士は、元古川市議会議長の佐藤達雄さん(88)。シベリア抑留の際、旧ソ連兵に「重労働させるのは日露戦争の仕返しだ」と言われた逸話を紹介。「以前の日本の残虐行為を忘れていなかった。戦争なんかするもんじゃない」と訴えた。
 ピアニスト吉村由佳さん(同市古川出身)の演奏もあり、竹田の子守歌などが披露された。

2012年08月15日水曜日

沖縄戦被害者ら、国に謝罪・賠償求め提訴<沖縄タイムス

沖縄タイムス
ホーム http://www.okinawatimes.co.jp/top/
沖縄戦被害者ら、国に謝罪・賠償求め提訴
2012年8月15日 11時13分
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-08-15_37781
(全文引用)

提訴後、ガンバロー三唱で気勢を上げる原告ら=15日午前、那覇市楚辺
[画像を拡大]
http://www.okinawatimes.co.jp/article_photo/60061/

 沖縄戦での民間人被害者ら40人が15日、国に対し謝罪と1人当たり1100万円の損害賠償を求めて 那覇地裁に訴えを起こした。原告は「集団自決(強制集団死)」や旧日本軍の壕追い出し、十・十空襲などの被害者や遺族で、60〜90歳代の男女。同訴訟弁 護団によると、戦争での旧日本軍などの行為について国の責任を問う初の集団訴訟となる。

[8・15とアジア]信頼構築に力を入れよ<沖縄タイムス

沖縄タイムス
ホーム http://www.okinawatimes.co.jp/top/
[8・15とアジア]信頼構築に力を入れよ
2012年8月15日 09時21分
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-08-15_37759
(全文引用)

 6日広島、9日長崎と続く原爆の日。きょう15日の終戦記念日。日本のメディアは戦後、8月を「鎮魂の夏」と位置付け、毎年この時期、戦争を振り返り、掘り起こす企画に取り組んできた。

 旧厚生省のまとめによると、日中戦争から敗戦までの日本人犠牲者は軍人・軍属約230万人、外地で死 亡した民間人約30万人、空襲などによる国内の戦災死亡者約50万人の合計約310万人。広島・長崎の被爆体験や沖縄戦、東京大空襲などの実相の掘り起こ しは、戦後67年たった今でも精力的に続いている。

 ここで取り上げるのは、そのような戦争の実相、銃後の生活ではない。「アジアからみた8・15」と「東アジアの戦後秩序」である。

 日中関係も日韓関係も、領土問題や歴史問題をめぐって、とげとげしい空気が漂っている。日中国交正常化が実現して今年で40年になるが、慶祝ムードはない。尖閣諸島の領有権問題をめぐって両国の緊張関係は高まるばかりだ。

 日韓関係も李明博(イ・ミョンバク)大統領の竹島上陸でいっぺんに冷え込んだ。竹島の領有権だけでなく、日韓の間には「従軍慰安婦」問題も再浮上している。

 戦争、サンフランシスコ講和、冷戦がもたらした「未解決の問題」が、東アジアでは、今なおホットな問題として日中、日韓の二国関係を強く拘束しているのである。

 特に尖閣をめぐる日中関係は、ハンドルさばきを誤ると、偶発的衝突を招く恐れがある。感情的反発をエスカレートさせてはいけない。

 韓国の全国紙・東亜日報は、戦後50年にあたる1995年8月15日の社説で、「8・15」の意味を簡潔に書き記している。「1945年8月15日は、わが民族が日本帝国主義の屈辱的な植民地支配の鎖から解放された日である」

 中国にとっては抗日戦争に勝利した日であり、日本に占領されたフィリピンやマレーシア、インドネシアなどの国々にとっても「8・15」は日本帝国主義からの解放を意味した。

 日本の植民地であった朝鮮半島は戦後、南北に分断され、朝鮮戦争によってそれが固定化された。韓国軍を支援するため、嘉手納基地や横田基地から頻繁に米軍機が飛び立ったが、多くの国民にとって「よそごと」であった。

 日韓基本条約によって日本と韓国の国交が正常化したのは65年。日中国交正常化はさらに遅れ、72年まで待たなければならなかった。

 だが、それですべての問題が解決したわけではない。尖閣竹島の帰属は、サンフランシスコ講和条約の条文には明記されていない。国交正常化の段階でも明確な解決策が示されなかった。

 日本は戦後、米国主導の「寛大な講和」の結果、「冷戦の受益者」であり続けた。そのことが、アジアの人びとの声に謙虚に耳を傾ける機会を失わせたのではないか。

 新たな地域秩序の形成は、歴史問題に向き合うことを通して、信頼関係を築くことが前提となる。相互の信頼をおろそかにしてはいけない。