「北の山・じろう」時事問題などの日記

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報酬や寄付金、最高2714万円 規制委の4人、直近3〜4年間に<西日本新聞>

西日本新聞
トップ >http://www.nishinippon.co.jp/
報酬や寄付金、最高2714万円 規制委の4人、直近3〜4年間に
2012年11月2日 23:46 
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/332242
▼全文引用

 原子力規制委員会(田中俊一委員長)は2日、原発の新たな安全基準検討チームの専門家6人について、電力会社などからの報酬や寄付金などの受け取り状況を公表した。4人が直近3〜4年間にそれぞれ300万〜2714万円を得ていた。

 事務局の原子力規制庁は「ルールに従って選定しており、問題ない」としているが、こうした専門家の判断には電力会社などの意向が働きかねず安全規制の骨抜きにつながる恐れがある。

 4人のうち名古屋大の山本章夫教授は関西電力関連会社の原子力エンジニアリングなどから年間50万円以上、原発メーカーの三菱重工業などから少なくとも計2714万円を得ていた。



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活断層「否定できず」 規制委調査 大飯、関電の主張揺らぐ<東京新聞>

東京新聞 TOKYO WEB
トップ >http://www.tokyo-np.co.jp/
活断層「否定できず」 規制委調査 大飯、関電の主張揺らぐ
2012年11月3日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012110302000108.html
▼全文引用

 関西電力大飯原発福井県おおい町)の敷地内を走る「F−6断層(破砕帯)」が活断層かどうかを判断する原子力規制委員会の調査チームが二日、現 地調査を終えた。北側の海に近い試掘溝(トレンチ)では、関電がないとしていた断層を確認、原子炉に近い山頂の溝では、過去に断層が動いたことを示す粘土 を確認した。関電は再調査の中間報告で活断層を否定したが、根拠が揺らいだ形だ。 

 調査チームは四日に都内で開く会合で、調査結果について議論する。活断層かどうかを確認するには、断層が動いた年代を特定しなければならず、鉱物の詳しい分析や再調査が必要になり、結論が延びる可能性がある。

 調査チームは、関電が掘った試掘溝の壁面や掘削調査(ボーリング)で出た土などを調べた。関電は先月末に示した中間報告で、海近くの溝ではF−6断層が見つからないとしていたが、同じ断層の延長とみられる断面を発見した。

 チームの一人で、活断層の可能性を指摘してきた渡辺満久・東洋大教授(変動地形学)は「活動性は否定できない。活断層があるという疑いのレベルは、今までより上がった」と述べた。

 山頂の溝では、断層が動いた際に岩と岩がこすれてできる粘土を確認。粘土が四十万年前より新しい年代にできたと確認されれば、活断層の疑いが濃厚 となる。鉱物が専門の重松紀生・産業技術総合研究所主任研究員は「どのような粘土かを見て、活断層かどうか総合的に判断していくべきだ」と語った。

 規制委の島崎邦彦委員長代理は「必要なら再調査という可能性もある。今後の方針は四日の議論で決まる」と述べ、慎重に判断する考えを示した。

 F−6断層上には、冷却に使う海水を引き込むための重要な取水路がある。活断層と判断されれば、原発の耐震設計審査指針に反し、規制委は運転停止を求める見通し。



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日比谷公園、都がデモ制限 市民「集会の自由に反する」<朝日新聞>

朝日新聞
ホーム>http://www.asahi.com/
日比谷公園、都がデモ制限 市民「集会の自由に反する」
2012年11月4日6時0分
http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY201211030594.html
▼全文引用

 【西本秀】東京都が、官庁街に隣接する日比谷公園をデモ行進に利用することに制限を加え始めた。反発する市民団体が、これまで通りの利用を認めるよう裁判に訴えている。

 都が、対応を変えたのは今年8月から。従来、デモ隊は公園の一角に集まり、出発してきたが、都はこれを禁止し、集まる会場として園内の日比谷公会堂や大音楽堂を有料で借りるよう求めるようになった。

 突然の変更に、市民団体側は「集会の自由を侵害する」と反発する。首相官邸前で抗議行動を続ける市民団体「首都圏反原発連合」(反原連)のメンバーは先 月30日、都が公園内の一時使用を認めるよう、東京地裁に行政訴訟の一環である「仮の義務付け」を申し立てた。仮の義務付けは、時間が迫り、早急な判断が 必要な時などに用いる、行政事件訴訟法の制度だ。

「脱原発の都知事を」市民ら擁立模索 住民投票実現目指す<東京新聞>

東京新聞 TOKYO WEB
トップ >http://www.tokyo-np.co.jp/
脱原発の都知事を」市民ら擁立模索 住民投票実現目指す
2012年11月5日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012110502000106.html
▼引用ブログ

 東京都の石原慎太郎前知事の辞職に伴う都知事選に、脱原発のグループが候補者を擁立する動きを水面下で進めている。参加者の多くは、昨年三月の東 京電力福島第一原発事故をきっかけに、政治にかかわろうと活動する人たち。千代田区内で四日、会合を開き、参加した約五十人が候補者擁立に向けて話し合っ た。 (都政取材班)

 「原発についてわれわれ都民の意見を聞いてくれる人を選びたい。恥ずかしい話ですが、前回の都知事選はだれに投票したか覚えていない。今回は当事者として候補者選びにも取り組む」。会合に参加した目黒区の会社員遠藤淳一さん(48)はこう話す。

 遠藤さんは、原発の是非を問う都民投票条例の制定のため今年一月から署名集めに参加。「署名が集まっていないと聞き、何かしなくちゃと飛び込んだ」。目黒区内の全駅前にある商店街を回り、協力を求めた。

 三十二万筆の有効署名が集まったが、六月の都議会で否決された。遠藤さんは、その後立ち上がった市民グループ「『原発』都民投票の会」に参加。政治的中立を掲げる会とは別に、個人として候補者選びにかかわる。

 前回の都知事選は、原発事故の約一カ月後に行われ、石原氏が四選。遠藤さんは「あの時は、強いリーダーシップのある石原さんでいいという雰囲気で、原発をどうこうする思いはなかった」と後悔する。それが、突然の辞職で「再びチャンスが回ってきた」という。

 脱原発のグループが都知事選にかかわるのは、東京電力の主要株主の都が東電に脱原発を迫ったり、原発の是非を問う住民投票の実現を目指したりするほか、衆院選の前哨戦として世論の流れを変えたいという考えから。

 四日の会合では、貧困問題に携わる団体の幹部や、市民派の弁護士らの名前が挙がった。会の名称を「私が東京を変える」とし、週内にも候補者を絞り込む方針だ。

 呼び掛け人の市民団体「みんなで決めよう『原発国民投票」事務局長の今井一氏(58)は「これまで一部の知識人や政治家が候補者を選んできたが、われわれ市民の手で決めるべきだ」と意義を語った。



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東日本大震災:福島第1原発事故 汚染水被ばく、別の作業員も−−昨年3月<毎日新聞>

毎日新聞
ホーム>http://mainichi.jp/
東日本大震災:福島第1原発事故 汚染水被ばく、別の作業員も−−昨年3月
毎日新聞 2012年11月03日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20121103ddm012040081000c.html
▼全文引用

 東京電力福島第1原発3号機で昨年3月24日、作業員3人が高濃度の汚染水につかって170ミリシーベ ルト以上被ばくした問題で、東電は2日、3人と同じ班にいた別の男性作業員も同じ日に水につかり56ミリシーベルト被ばくしていたことを明らかにした。こ の線量になるまでの時間は不明という。東電はこれまで3人以外で汚染水につかった作業員がいたことを説明していなかった。

 尾野昌之原子力・立地本部長代理は「当初は170ミリシーベルト以上被ばくした3人について説明していた。隠していたわけではない」と話した。【鳥井真平】

※関連記事
福島民友新聞
別の1人が56ミリシーベルト被ばく 汚染水作業問題
(2012年11月4日 福島民友ニュース)
http://www.minyu-net.com/news/news/1104/news2.html
朝日新聞
福島第一で大量被曝もう1人 東電、指摘受け一転発表
2012年11月3日1時46分
http://www.asahi.com/national/update/1102/TKY201211020655.html




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甲状腺検査:福島県立医大、画像「開示を検討」<毎日新聞>

毎日新聞
ホーム>http://mainichi.jp/
甲状腺検査:福島県立医大、画像「開示を検討」
毎日新聞 2012年11月04日 21時30分(最終更新 11月04日 22時29分)
http://mainichi.jp/select/news/20121105k0000m040051000c.html
▼全文引用

 東京電力福島第1原発事故を受け福島県内の当時18歳以下の子供を対象に行われている甲状腺検査について、検査主体の県立医大による初の県民説明会が4日、同県郡山市で開かれた。開示請求しなければ甲状腺画像が提供されないことに批判が相次ぎ、検査責任者の鈴木真一教授は「開示を検討したい」と応じた。

 検査は昨年10月から始まり、約3分の1に当たる11万5000人分の1次検査を終えたが、「検査結果の説明が不十分」との批判が高まっていた。

 説明会は約70人が参加。鈴木教授は「現時点では甲状腺がんが増える可能性は低い」「福島の子どもの検査結果が異様なわけではない」と強調しつつ、「日本ではこれまで小児甲状腺腫瘍の疫学調査はなかった」などと検査への理解を求めた。

 会場からは、検査結果が異常なしの「A1」判定(約65%)に次いで多い、20ミリ以下ののう胞ありの「A2」判定(約35%)について「次回検査が2年後では不安」との声があがった。

 説明会は2時間の予定が1時間近く延長された。同様の説明会は福島市で10日、南相馬市で18日に開き、他地域でも順次開催予定という。【栗田慎一】

★関連記事
朝日新聞
郡山で甲状腺検査説明会
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211040004



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「もう疲れちゃった」悩んだ夫婦 (会津若松の無理心中事件)<朝日新聞>

朝日新聞
ホーム>http://www.asahi.com/
「もう疲れちゃった」悩んだ夫婦
会津若松の無理心中事件)
2012年11月01日
http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000001211010001
▼全文引用

 会津若松の無理心中事件

 会津若松市門田町で10月27日、近くに住む夫婦と長男(31)の遺体が見つかった。長男は首を絞められて亡くなっており、県警は夫婦による無理心中事件として調べている。妻(58)は事件前、知的障害を抱える長男や仕事のことで、周囲に悩みを打ち明けていた。

 冷たい雨が降る朝だった。JR只見線の鉄橋で、人見(ひとみ)常男さん(60)と妻の明美さんが並んで首をつった状態で見つかった。警察が約2キロ離れた2人の自宅へ行くと、長男の淳さんが居間で亡くなっていた。

 「もう疲れちゃった」。事件2日前の25日夕方、明美さんは仕事仲間の女性(50)との電話で、ため息を繰り返した。「原発事故で仕事もなくなって悩んでいた様子だったけど、こんなことになるなんて……」

 人見さん夫婦は20年ほど前、いわき市から会津若松市に移り、温泉旅館にコンパニオンを派遣する仕事を始めた。常男さんが送迎の車を運転し、明美さんは組合の役員を務めていた。

 だが、原発事故で派遣先のホテルは避難所になり、仕事は途絶えた。その後も客足は戻らず、今年9月には役員を辞任し、廃業届を出した。2週間ほど前、仕事に使っていたワゴン車を売ったという。

 夫婦は体調も崩していた。常男さんは腰痛が悪化し、明美さんも甲状腺に病気が見つかった。このころから仕事仲間に「体がだるくてやる気が出ない」とこぼすようになったという。

 社交的だった明美さんの周りには、仕事つながりの友人が多かったが、一人息子の淳さんが知的障害を抱えていることを知っていた人は少ない。

 別の知人女性は昨年末、明美さんから「淳に彼女ができた」と聞かされた。だが、今年になって「実は淳は障害を持っているの。ウソついていてごめんね」と明かされた。「障害のこと、あまり知られたくなかったのかな」と女性は振り返る。

 いわき市で親戚と暮らしていた淳さんが会津若松市に移ってきたのは2009年。親戚が亡くなり、家族3人で暮らし始めた。

 淳さんは週に6日、会津若松市内にある福祉施設に通い、農作業や軽作業に取り組んでいた。施設長の吉田英俊さん(63)によると、口数が 少なかった淳さんだが、この施設に来て卓球を始め、変わり始めたという。「試合相手としゃべることも増えたし、月2回、公民館の卓球教室にも通うように なった」。昨年のクリスマスにみんなで買ってあげたラケットで、一生懸命練習していたという。吉田さんは「障害者には確かに壁もあるが、それでも精いっぱ い生きてほしかった」と言葉を詰まらせた。

 明美さんと日誌を交換していた女性職員は「淳さんが施設での出来事を自分から話してくれるようになってうれしいと、明美さんも喜んでい た。さあこれからという時だったのに」。事件の2日前には明美さんから「27日は施設に行くので送迎をお願いします」と連絡があったという。

 人見さん一家に遺体の引き取り手はなく、市は30日、葬儀を営んだ。祭壇はなく、小さな遺体安置室での葬儀だったが、知人ら70人近くが参列し、悲しみに暮れた。(高橋尚之)



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「チェルノブイリの犠牲者」原発作業員の証言と現実 2003年スイス(動画・内容書き出し)byみんな楽しくHappy♡がいい♪

★全文転載。文中に写真多数あり。そちらを、ご覧になる場合は、元ブログのURL からご覧下さい。チェルノブイリ原発事故では、兵士を中心に60万人とも80万人とも言われる、事故処理員と言われる人々が、事故収束活動を行いました。ものすごい被曝を伴う過酷な作業です。当然ながら、多くの人々が放射線被曝による健康被害に苦しみ、死んでいきました。そのドキュメンタリーです。時間のある時に、YouTubeの動画をご覧下さい。文章よりよく分かると思います。

みんな楽しくHappy♡がいい♪
チェルノブイリの犠牲者」原発作業員の証言と現実 2003年スイス(動画・内容書き出し)
2012-10-11(08:28)
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2319.html

※追記
なお、元記事の動画がリンク切れとなっているため、北の山がYouTubeから同名の動画を探し掲載しました。元記事の写真と同じなので、この動画が書き起こしの、動画と思います。
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実01
http://www.youtube.com/watch?v=FjuH-tmPO4Y
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実02
http://www.youtube.com/watch?v=8M4MmPOWylM
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実03
http://www.youtube.com/watch?v=6Z_LkOfJApQ
YellowTulip2001 さんが 2011/03/31 にアップロード
(追記、終わり。以下本文)

2003年にスイスで制作されたドキュメント。
長い期間をかけて取材されています。
事故収束作業に当たった作業員の証言が主ですが、
最後に出てくる奥さんの証言にも凄まじいものがあります。

スイス経由で表に出てきた真実です。



サクリファイス The Sacrifice
- 犠牲者ー事故処理作業者(リクビダートル)の知られざる現実
※ここが、リンク切れになっています。

2003年 スイス



1986年

真正面に見えるのが排気筒
左側が4号炉の制御室


スイッチオンにしてこの進路を保つんだ


私は発電所の屋上で4日間作業した

1日目は覆いの端をハンマーでたたいて水抜きをした。
2日目はコンクリートパネルを屋根の上から落とした。時間は5分。
3日目は換気筒の解体。
4日目は黒鉛の破片の除去。
黒鉛を手でつかんで放り投げた。


チェルノブイリ原発の屋上には、黒鉛やウランが散乱していた。
2万まで照射されたものだ
黒鉛の破片を出で持つと通常の環境では一生で浴びるほどの線量を1から1.5秒で浴びる。
リクヴィダートルと呼ばれる労働者100万人が原子炉に送りこまれた。
そしてこの破局事故の影響が他のどの地域にも及ばないよう
戦慄すべき放射線環境の中、即席の石棺で原子炉を封印した。
素手とショベルとウォータージェットで放射能と格闘したのだ。

数万人が亡くなり、今も死に続けている。

ソ連の科学者たちが計算すると、原子炉火災を5月8日までに何とかしないと、
燃え続ける核燃料がコンクリート土台を突き破って、
冷却水の中に落下し
ヒロシマの20〜50倍も大規模な爆発を引き起こす可能性があった。
するとヨーロッパも居住不可能になり得た。

5月6日
原子炉火災は手なづけられた。

リクウィダートルたちの信じがたい献身のおかげだが、
彼らへの補償は無きに等しかった。

ロシア・ウクライナベラルーシは彼らを見捨てて彼らは孤独に捨て置かれた。
そして西側世界も彼らの事を黙殺した。


続きを読むにつづく

1991年


栄誉賞状をもらったもの今は昔で、
その時は張合いも出たが、それも今はガラクタにしか見えない。
お偉方は沢山の約束をしてくれたものだ。
この表彰状は屋根の上で良い仕事をしたから渡してくれた。

それで屋根の上で働いて、終わって屋根から降りてきたら
指揮官がくれた報酬というのがこれだった訳だ。

こう言われたものだ。
「犬みたいに駆けて行け、ウサギみたいに逃げて戻れ」

今は第二級の障害者だ。
あまりにもいろんな病気を抱えているのでいちいち数え切れない。
35歳でも70歳の老人みたいだ。

私たちは屋上を片付けた。
石棺をつくらねばならぬという事だったから、
爆発のため、ウランやBARの黒鉛があった。
ロボットは持ちこたえられない。
内部の部品が融けて動けなくなってしまうからだ。
それで人間が送り込まれたのだ。

普通の兵士服だけを着て、屋上で作業した。
ガーゼのマスクを顔に、そしてオートバイ乗りのようなメガネを付けて、
斧でもって鉛の板を切り出した。
そして放射線の防護服らしきものを作った。
鉛は放射線の通過を遮断するというからだ。
防護服は自前でというわけだ。

アスベストはもう剥がし終わった」
「アスベルトをストレッチャーに載せろ」
「急いで破片を放り投げろ」
「わかったか」
「1個2個と運ぶ」
「場所についたら90数えろ。1,2,3,4、・・・90だ」
「90になったら道具を置いて逃げ帰れ」
「何か質問は?」
「ありません、了解」
「では作業開始!」

最初の作業時間は40秒。
40秒の間に駆けて行き、ショベルがあればそれを握る。
ショベルが無ければ黒鉛の破片を手で拾う。
手で黒鉛を原子炉の中に放り込んだ。


1日目、線量計は34レントゲン、しかし「9」と書かれた。
2日目は約30なのに「5」
指揮官に要求した。
「なにしている?測定通り書いてくれ!」
すると、
「さっさと出てけ!2度と来るな!」
それで終了。


私もハッキリさせようとした。
影響はてきめんに出た。
吐き気
ぶらぶら歩いたり、気が静まらない状態。
方向感覚が無くなり、急に力が抜ける。
原子炉で2カ月働いた。
電気技師として。
セメントを打つ時の証明を確保していた。
設置のため、原子炉によじ登ったものだ。
どこにでも入って行った。
私の場合わずか「11.92レム」と書かれた。
「いかさまを書かれたとボスに言いに行ってやる」と言って、
ボスのところに行くと、椅子に腰かけて笑みを浮かべながら
「高くて良かったと感謝しろ。感謝しないならもっと低い数字にしてやってもいいぜ」


前の厚生大臣サフチェンコによると、
閣僚たちはリッコフ首相から招集された。
リッコフは言った
「シークレットどころではない、トップシークレットだ」
チェルノブイリ事故に関する全ての線量データと情報はトップシークレットだ」
そういうわけで線量計算は実施されなかった。
たまに実施されたとしてもそれは無理に線量を切り捨てるためのものだった。


私は放射線を測定するよう命じられた。
村落で土壌を平たく削り取った。
放射能汚染を下げるために、放射線測定器を与えられた。
測定するといつでも、針が降り切れていかれた。
線量が高すぎたのだ。
見たくない現実ばかりだったので測定器を返却した。
「お返ししますんで何か別なものをくださいな」
すると大きなショベルをあてがわれたので、作業しに行った。
しかしショベルの仕事はすぐに終わった。
散水機の仕事に配置されたのだ。
放射能汚染されたダンプや道路に水を浴びせた。
あちこちの村落で作業したが、
住民は私たちの仕事が無意味だと見抜いていた。
上に尋ねた。
「なぜこんな無駄働きばかりしなくちゃいけないのか?」
すると
「質問するな。おまえは連れてこられたのだからさっさと働け」


私たちは部落を除染した。
ショベルで土壌をはぎ取り、手でトラックに積み込む。
塵埃が充満した。
そして当然ながらそれを吸い込んだ。
健康状態だが、私は自律神経失調症で、心臓神経症でもある。
チェルノブイリが原因で私たちを苛んでいる病気だ。
胃腸の具合も悪化してひどい苦しさだ。
昔は腎臓の病気など無かったのに、今は腎臓もダメになった。
脱力感を別としても精神状態も良くなく、
何時もイライラ感がある。

事故現場から10月に帰宅したが直ちに異変が現れた。
11月。まず左の手の感覚が無くなり、次に左腕。
次に左の尻。
そして両足が麻痺した。
医者もお手上げだった。
放射線被ばくが原因だということすら認めようとしなかった。
トロリーバスの運転手だったが、仕事をを辞めずに続けた
病気については一切口をつぐんでいた。
家族を養わねばならなかったから。
片手と片足だけで運転を続けた。
そのうち勤務中に意識を失って、自宅にかつぎ込まれた。
今はもう歩くこともできない。
めまいもする。
しかしそれより厳しいのは足だ。
足が歩こうとしてくれないのだ。
自宅では壁伝いに這っている。


私は指揮官だったので誰もがこの仕事は不可欠だと認識していることがひしひしと分かった。
「そうだ。俺たちは人の命や生活を守っているのだ」と
私たちの事は永久に記憶されるのだと思っていた。
でも今は御用済みでお荷物なのだ。
求めているのはただ人間的な扱いなのに、
それだけでやかましい厄介者なのだ。


「6か月ごとに様子を伺いに参ります」と言ってくれた。
6か月が過ぎた。
何の音沙汰も無かった。
医者も来ない、誰も来ない。
私たちは社会のゴミなんだ。

「お前はよく働いてくれた。賞状を授与する」
「健康と繁栄を堅忍不抜を祈る!」


1999年

俺はしきりに倒れるようになってしまった。
「車いすを使って下さい」と妻が言った。
それで車いすにした。それだけのことだ。
今は車いす生活者だ。

知ったことじゃない。
思い出したら辛いだけ。
忘れてしまう方がましさ。
太陽は輝く
美しく輝く
思い出したら地獄をみる
忘れてしまった方がましさ。
「今は昔 夢かうつつか」というだろう。

もしかして、
外国の誰かさんが、自動車をくれたりしないかな。
中古でもいい。どんな型でもいい。
外に出かけて野山を走りたいだけだ。
こんなありさまで自然に接しないままなのは厳しい。
まったく悪夢だ。
車がたまらなく欲しい。
そんなのは夢、かなわない夢だと分かってはいても、

しかしそれにしても…
ベッドの上に板きれみたく平たく横たわっていると、
飼い犬がやってきてじっと見てるんだ。
そこで「何で俺の事見てるんだ?」
俺はやって見せる「ワン!」
犬は思っているんだ。「このおやじ終わってるな」と。
構いやしない。
犬は離れていって台所に行く。
そして戻ってくる。
「どうしたんだ?」
「ワン!」
また離れていく、そしてまた戻ってくる。
もう3度目だ。
俺が「ワン!」
犬も「ワン!」
「これで話が通じたね」

なんたる悪夢。

人間が一人、全く徒らに終わった。
俺たちはなにもかも断念あるのみ。

本当はまだ若い…
38歳だが、60歳だと言ってもかまわない。
何が違うんだい?
チェルノブイリがあってからというもの、希望もなにも無くなったんだ。
ヴォドラズスキーが死んだ。
ミゴラク・クリモヴィッチも死んだ。
リオンカ・ザトゥラーノフも死んだ。
まだ生き残っているのは、
コルカ・ヴェルビツキーと俺だけ。
俺たち5人の中で何故かまだ生きているんだ。
白いカラスのように取り残されてね。

どうでもいい

チェルノブイリは確かに起きた。
でも言うじゃないか、
「今は昔 夢かうつつか 嘘かまことか」と。
あの頃の事は忘れるに越したことはない。
昔は大人の男だった。
昔は歩けた。
昔は車も運転した。
今となってはもぬけの殻だ。

これには何かわけがあるに違いない。

神様の前でそんなに多くの罪を犯したとも思えないが…
とにかく全部大丈夫。
悪夢だよ。


2001年
※ここからは、奥様の回想です。

私たちは83年に結婚。
早くも86年には夫はチェルノブイリに行き、全ての災厄はそこから

夫はいつも入退院を繰り返し、
夫の左腕は麻痺し、次は左足も麻痺。
なのに言われました。
「仮病だろう?ふざけてるんだろう?」
大の大人が歩けないのです。
明らかではありませんか。
夫はしきりにつまづいて倒れました。
医者は「風邪でも引いたんでしょう」
「運転手をしていると激しい風に当たりますしね」と。
でも実際には全然違う病気だったのです。

チェルノブイリは悲劇。
まだ理解されていない悲劇。
放射線被ばくによるこの病気は、実質上治療不可能で、
患者たちはサンプルにされているのです。

夫は6カ月間寝たきりで、その後…

いわば生きながらにして体が崩壊したのです。
肉体組織が全て崩壊し始め
腸骨が見えるほどになりました。
私は医者に指導された通りのやり方で、夫の看病をしました。
女の医師のところに出かけて、方法の説明を受けました。
夫の心臓が止まるまで、そんな調子で続けました。

肉が全てそげ落ちて…
背中はペタンコで…骨がむき出しでした。
太ももの関節も手で触れるほどでした。
私は手袋を使って、手で骨の消毒をしました。

分解し腐乱した骨の残骸を取り除きました。

何故か分からないのですが、急に容態が悪化しました。
医師に助けを求めたり、大学教授に頼ったりしました。
可能な限り誰にでもすがったのです。
しかし言われました。
「こんな病気は初めてでよく分かりません」
「症状を緩和する事しかできません」といった調子なのです。

骨髄が駄目になっていくのに直面して、彼らはお手上げでした。
なすすべがなかったのです。

夫は「もう死なせてくれ」と頼みました。
苦しまなくて済むようにと。
痛くてたまらなかったのでしょうね。
寝返りを打たせると、歯ぎしりをしたりうめいたりしていました。

でも彼は絶対に叫び声をあげたりせず、耐え抜いたのです。
意思の強い人でした。


娘には腎臓の異常があります。
息子は少し吃音があり目も病気です。


片方の腎臓が下垂しています。
痛いです。


これは私たちだけの悲劇ではありません。
ベラルーシ全体の悲劇です。
そしてあの人たちの悲劇。
とりわけ人を救い、全てをこなし、そしてたちまち全く忘却されていった人々の悲劇です。

いま住んでいるアパートの部屋を得るためにも、ハンストせねばなりませんでした。
夫が入院した時、そこでは人々が権利を獲得するために断食していました。
助けを獲得するためにです。

労働者集めの時、お偉方は大層な約束をしました。
住む家とか、子どもたちの託児所とか、
でも結局は空手形でした。

胸がつかえます。
全ての出来事を目の当たりにして辛いばかりです。
(何の罪もないのに)なぜなのか分かりません。
そうですとも。

夫は誰にでも何についてでも語ることはできたでしょう。
どんなことについて誰かに話をさせることもできたでしょう。
夫のような人を伴侶にして良かった。
彼は全てを理解し、全てを人の命のためにささげたのですから。

中には足るを知って静かに生きることができる人もいます。
「私にはあれとこれがある。それで充分だ」と。
しかし夫は人生に何かそれ以上のものを求めたのです。
何かそれ以上のもの、遥かなものを見つめていたのです。
夫は生き急ぎすぎました。

埋葬が終わってから1年も経ったころ、
チェルノブイリ・アソシエーション”が電話をしてきて、
「ご主人の様子はいかが?」と尋ねました。
「もう亡くなりました」と伝えました。
そのことすら知らなかったのです。

夫は言っていました。
チェルノブイリから13年間は生きたいものだな」
それが生きがいだったのでしょう。
そうでもなければ、どうしてあんなに長いあいだ闘病生活ができたでしょう。


ここには事故直後に亡くなった人たちも眠っています。
私たちの親友ヴォドラズスキーは指揮官で、ヘリのパイロットでしたが、
事故が起きて間もなく世を去りました。
彼も同じような肉体組織の崩壊に見舞われたのです。


ヴォドラズスキーは原子炉の真上を飛行しました。
兵士たちが原子炉を封印している時はその場から離れませんでした。
彼は一緒に勤務に当たっていた兵士たちを非番にしようとしました。
兵士たちを飛行に関与させずに自分で操縦しようとしたのです。
そんな事をしていたらどうなるかも彼は分かっていました。



2003年

2000年12月15日。
最後まで運転していたチェルノブイリ原発の原子炉「3号機」がついに閉鎖された。
しかし石棺の中には200トンの核燃料が溶岩のようにあちこちに堆積し、
将来いつかは除去されねばならない。

事故炉の一連の処理計画は1世紀もかかるだろう。
専門家チームが石棺の健全性を24時間モニターし記録している。
亀裂を検査し、原子核連鎖反応を防ぐために湿度を監視している。


ウラン235がある近傍では、放射線量計が2から3倍の中性子の存在を示す(?)
ウランが臨界量以上存在し湿度も加わると、
中性子によって連鎖反応が始まり、爆発を引き起こす可能性がある。

チェルノブイリの妖怪」はまだ生きているのだ。


「今は昔 夢かうつつか」
「思い出せば悪夢さ」



●監督
 エマヌエラ・アンドレオリ (Emanuela Andreoli)
 ウラディミル・チェルトコフ (Wladimir Tchertkoff)
●カメラ・音声
 ロマーノ・カヴァゾーニ (Romano Cavazzoni)
●編集
 エマヌエラ・アンドレオリ (Emanuela Andreoli)
●制作
 フェルダート・フィルム - スイス (Feldat Film - Switzerland)