「北の山・じろう」時事問題などの日記

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福島第2原発も「あわや炉心溶融」だった

テーマ:原発事故問題
「J-CASTニュース」から全文引用

福島第2原発も「あわや炉心溶融」だった 「紙一重」で避けられた理由

2012/2/ 9 19:03
(1)
http://www.j-cast.com/2012/02/09121688.html

実は福島第2原発も、「紙一重」で第1原発と同じ事態に陥るところだった――。第1原発では、炉心溶融や原子炉建屋の水素爆発に至り、今も多くの周辺住民らが避難生活を余儀なくされている。

いったい何が第2原発と第1原発とを分けたのか。事故発生当時からの責任者が報道陣にあらためて説明した。
「初公開」で増田所長が説明
福島第2原発が、震災後初めて公開された。
福島第2原発が、震災後初めて公開された。

福島県の楢葉町と富岡町にまたがる福島第2原発が2012年2月8日、震災後初めて報道陣に公開された。第1原発から南に約12キロ離れている。当時から現場で指揮を続けている増田尚宏所長は、記者らに「福島第1原発ほど状態がひどくならなかったが、紙一重だったと思う」と振り返った。

事故発生当時の第2原発と第1原発の状況の違いは、次のようなものだった。

震災発生は2011年3月11日15時前。第1原発ではほどなく、津波被害のため「全電源喪失」が確認された。夜には原子力災害緊急事態の宣言が出され、半径3キロ以内の住民に避難指示が出された。避難エリアは後に拡大する。

第2原発でも翌12日に緊急事態が宣言され、はじめ半径3キロ、ほどなく半径10キロの住民に避難指示が出た。

第2原発では1〜4号機の4基とも運転中だったが自動停止した。3号機を除いて冷却機能が一時、失われた。しかし、3月14日には1、2号機が冷温停止(100度以下で安定的に管理)状態になり、15日朝には第2原発すべての「冷温停止」が発表され、「事なきを得た」形だ。

一方、第1原発では3月12日に1号機原子炉建屋が水素爆発し、14日に3号機建屋でも爆発が起きた。陸上自衛隊のヘリコプターによる空からの放水が始まったのは17日だ。以降も緊迫した状態が続いた。第1原発に「冷温停止状態の達成」が宣言されたのは、半年以上経った12月に入ってからだ。

(続く)
(2)
外部電源1系統が「生き残った」

こうした大きな違いについて2012年2月8日に報道陣へ説明した増田所長によると、決定的な差は「電源」の有無にあったことがあらためて浮き彫りになった。

「全電源喪失」に至った第1原発とは異なり、第2原発では、4系統ある外部電源のうち1系統が「生き残った」。3、4号機の非常用電源も一部残った。

このため、原子炉内の様々な数値データの確認が可能となり、必要な対策を考えることができたし、冷却のための注水作業もできた。さらに、限られた電源をほかに回すため、仮設電源ケーブルを突貫工事で設置することもできた。

この「突貫工事」についても、増田所長は、震災発生が平日の日中だった「偶然」を指摘した。当時働いていた約2000人が手分けして復旧にあたったが、夜間や土日であれば所員は当直などの約40人だけで、初動に大きな遅れが出たのは間違いない、というわけだ。

なぜ電源が1系統生き残ったのか。第1原発では13メートルともされる津波の高さが、第2原発では9メートルとみられ、低かったことなどが影響したようだ。

電源の状況をめぐる両原発の違いはすでに明らかになっていたが、今回改めて増田所長が「紙一重だった」と振り返ったことで、当時の緊迫した状況が再認識された形だ。

増田所長は2012年2月8日、「従業員とともに、いち早い復旧のために力を尽くしていきたい」と話していた。



☆なぜ、福島第1原発で、もう少し安全対策や災害対策をしなかったのか、本当に悔やまれます。アメリカの原発が、去年「水没」する事件が、ありました。大河の洪水のためです。幸い点検中であったこともあり、大事には至りませんでした。水没により、外部電源は失いました。
しかし、非常用電源が確保されていて、核燃料プールの冷却は、確保されたのです。

日本の原発なら、「水没」したら、第二のフクシマになるのでは、ないでしょうか???

アメリカでは、それだけ原発の安全対策や大規模事故対応の準備がされています。
関係者は、心底「反省」してもらいたいと思います。今回の事故は、安全対策や事故対応準備が、なされていなかったために起きた完全な『人災』です。