「北の山・じろう」時事問題などの日記

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核心対談 河野太郎(衆議院議員)×小熊英二(慶応大学教授) 「この国のかたちを考える」〜現代ビジネス特別版〜

〜現代ビジネス特別版〜から全文引用
2012年06月29日(金)
経済の死角
核心対談 河野太郎(衆議院議員)×小熊英二(慶応大学教授) 「この国のかたちを考える」
〜現代ビジネス特別版〜
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(1)
これ以上、原発に頼るのは無理があると国民は肌で感じている。それなのに原子力ムラの人々は、3.11などなかったかのように再稼動に固執する。二人の論客が、この「ギャップの本質」を抉り出す。

たとえて言えば、旧日本軍の作戦のようなもの

河野 大飯原発がとうとう再稼働することになりましたね。福島の過酷事故でこの国の原子力行政がいかにデタラメだったかが明白になり、国民の信頼が地に堕ちたにもかかわらず、野田佳彦総理は一貫して再稼働に前のめりだった。

 では、その安全性を誰が判断したかというと、総理を含めた4大臣だというわけです。科学的知見など持ち合わせていない素人の政治家に原発の安全性などわかるはずがないのに・・・。本来、政治が決めるべきことと政治で決めてはいけないことを完全に混同していますよ。

小熊 おっしゃるとおりだと思います。

河野 車と同じだという理屈を持ち出したりもしますよね。事故も起こすけど、便利だから使っているじゃないか、と。でも、自動車には酔っぱらっているときは運転しちゃいけないというルールがある。それと同じで、原発だって安全基準が確立されていない場合は、稼働しちゃいけないんですよ。

 しかも、関西の電力が足りなくなるから再稼働するという。でも、その理由も怪しいんですよ。だって、関西電力の需給調整契約を見ると、去年3月末には260件あったのに、今年3月末にはわずか24件。需給調整契約とは、企業との間で、電力が不足する場合は節電に協力する代わりに料金を割り引く契約です。

 つまり、今年の夏に電力不足になることは去年からわかっていたんですから、需給調整契約を増やしておくべきだったのに、逆に減っている。これは「再稼働しないと大変な事態になる」とアピールするための瀬戸際作戦じゃないかと思う。

 関西電力も、経産省もわざと手を打たなかったんです。こんなことを許しちゃいけない。これでは原子力行政の信頼性がさらに失墜するだけです。ひょっとしたら、原発から撤退したくてこんなことしてるんですかと皮肉を言いたくなるくらい、酷い仕事ぶりですよ。

(2)
小熊 外から見る限り、原子力行政は内側の手続きで終始している印象を受けます。信頼の失墜など気にとめていないし、致命的な問題だとも思っていないように見える。たとえて言えば、旧日本軍の作戦のようなもので、あれこれ調整して参謀本部の了解も取ってしまったから強行するしかない、敵がどう動くかは重要な問題ではないと(笑)。

 これまでずっと関係業界と霞が関と永田町の中の手続きだけでやってきたせいなのか、原子力行政が社会からどう見られているかとか、社会全体がどう変化しどう動いているかということまで、見通しと計算が働いていないようです。

河野 要するに、ガバナンスが喪失しているんです。

小熊 ミッドウェーで敗れたのに、あれは何かの間違いだった、まだ取り返せる、と思ってガダルカナルに兵力を逐次投入している、という状態に見えます。全体状況からずれているのに、それに気づいていない。

河野 あれだけ安全だと言っていた原発がとんでもない事故を起こした。それなのに、暫定的な安全基準で良しとして稼働させてしまう。原子力ムラは本当に内向きの社会だと思います。

小熊 そういう議論しかしてこなかったのではないでしょうか。原子力の専門家も、たいてい格納容器とか注水システムなど部分ごとの専門家で、原発というシステムをトータルに把握できる人や、原発の経済的・社会的位置を理解して方向を決められる人がいない。そのため転換ができず、結果として旧態依然とした手続きで動き続けているということだと思います。

 原発は初期投資が大きく、30年は安定的に運転しないとペイしませんが、'97年以降は経済が伸びず原発建設も停滞している。再稼動を強行しても、廃棄物の貯蔵先があと7〜8年しかもちません。いまさら新規に廃棄物を引き受ける場所もないし、どう見ても先がない。もともと政府の補助がないと運営できない産業ですから、国際的にも原発は行き詰まりつつある。

 いま原子力を推進している国はロシア、中国、インドなど、核兵器を維持したい発展途上の権威主義国家です。先進諸国が原子力から徐々に離れつつあるなかで、日本がまだ原子力に引きずられているのは時代錯誤としか言いようがありません。

河野 そのうえ、日本は原発を海外に輸出しようとしている。福島第一の事故は原発が老朽化していたことも一因でしょうが、最大の原因は全体のシステムやマネジメントが悪かったことです。

 確かに一つひとつの部品は最高水準なのかもしれませんが、トータルで見たときに優れているとはとても言えない。体制がデタラメだったから、福島のような事故が起こったわけで、そんな日本の原発を輸出するなんて、どう考えてもおかしいでしょう。

(3)
小熊 しかも、輸出に当たっては技術供与やアフターケアがパッケージになっているし、燃料であるウランの供給まで日本がするという。日本はウランの輸入国なのに、そんなことできるのか大いに疑問ですが、これほどの好条件をつけなければ輸出できないというのが現実なんでしょう。

河野 メンテナンスまで全部面倒を見て、ビジネスとして成り立つんでしょうか? 赤字をつくるのがオチだと思う。原子力ムラが、まさにムラの利益を守るためにやっているにすぎない。

小熊 最後は国が穴埋めしてくれるからと、コストに見合わない事業を継続してきた。国は結局、業界や地元におカネを配ってカタをつける。そうやって、採算がとれない事業を「国策」だという理由で続けて、大赤字を残す。ダムや道路や新幹線にもある話で、日本社会のいろいろなところに存在する構図です。

河野 曖昧なままズルズルと引き延ばすやり方ですね。例えば国は青森県に対して、2045年までに最終処分場に移すという約束で、使用済み核燃料の中間貯蔵を行ってきた。ところが、最終処分場が約束の期限までにできないことは明白なのに、国はできないとは言わず、「いや、最後まで頑張ります」などと曖昧な言葉でごまかす。

 結局、原子力行政はそうやって地元との約束をごまかし、それを取り繕うために国民に対しては情報公開をせずにやってきたわけです。そういうふうに何重にも隠してきたものが、溜まりに溜まってドロドロになっていた。そのことに多くの人は、去年の3.11で一気に気づいた。

 だからいま、そのうみ膿を取り除かなくてはいけないのに、原子力ムラは依然として同じことを繰り返そうとしている。そのやり方はもう通用しないということを、今度こそはっきりさせなくてはいけないんですよ。

小熊 その役目は政治が担うしかないのですが、問題は、政治がそれを担える体制になっているかです。

河野 そうですね。これまでは政治と電力はズブズブの関係でしたし、一方で国民も無関心だったので、政治家に緊張感はありませんでした。ところがいまは、世の中に危機感が蔓延していて、政治が役割を果たすことを当然視しているんですね。

 にもかかわらず、永田町の中には、ほとぼりが冷めたら電力会社との関係を元通りに戻そうとか、電力の労組から票をもらおうと考えている連中が依然として多い。永田町の中と外で、意識がズレちゃっているのが現実です。

(4)
小熊 3.11以後の最大の変化は、国民の政治リテラシーが格段に上がったことだと思います。政治に対する危機感と関心、知識が急上昇した。原子力の問題は、日本という国のありようの縮図であると思った人は少なくないでしょう。

 それから、国民の政治参加が増えた。デモに参加した人は累計で十万人単位くらいでしょうが、政府の広報では信用できずに自ら情報収集した人は数千万人はいたでしょう。放射線を測ってみた人、役所に働きかけた人は百万人単位でいたと思う。広い意味で自発的な政治行動を起こそうという気持は、間違いなく上がったはずです。その意味で、日本の政治がここから変わる可能性がある。

原発問題は日本の古い構造の象徴

河野 今回の再稼働はおかしなことだらけですが、潰されることが決まっている原子力安全・保安院や、衣替えすることになっている原子力安全委員会が再稼働決定に関わっていることも納得しがたいですね。美浜原発の稼働延長もそうですが、なくなる組織に決めさせるのではなく、新しい機関がまもなく発足するのですから、新機関が新基準で判断するのが筋ですよ。

 旧基準を使って、ロスタイムでえいやっと決めてしまうなんて、姑息で恥知らずだと思う。本来なら、経産省が「新しい組織ができるまで待て」とブレーキをかけるべきなのに、電力会社と一体になって再稼働推進に動いた。本当に呆れます。

小熊 原子力ムラは現実対応能力を失っていると思います。態勢を立て直して巻き返してきたという感じがまるでしない。九州電力のメール事件を見ても、これまでの惰性のままです。そんなことをやったら逆効果だ、といったことに気づく能力が失われている。

 政治リテラシーが上がった国民の側は、ムラの論理を見透かしている。国民の多くが原発再稼働に反対しているのも、単に安全性を危惧しているだけではなくて、こんな無能な連中に任せておいたら危なくて仕方がない、しかも無能なくせに既得権にあぐらをかいているのは許せない、というのが国民的な合意になっているからだと思います。

 ですから、脱原発の流れに揺り戻しがあったとしても、それは一時的なものでしょう。自民党を引き合いに出して恐縮ですが、かつて森喜朗内閣が誕生したとき、旧来の派閥政治がつかの間復活したかのように見えましたが、結局あれが最後だった。それと同様に、社会の大きな流れは変えようがないと思います。

河野 原子力ムラと自民党のアナロジーは、ちょっとキツいなあ(笑)。

(5)
小熊 自民党も変わっていくべきだと思うんですよ。さかのぼれば、'50年代の自民党は地方の名士の集まりでしたよね。それが'60年代から'80年代にかけて自民党は、いろいろな形の、いわば小さな原子力ムラをたくさんつくった。つまり補助金をばらまき、産業誘致や関税障壁などでいくつものムラを保護したわけです。

 '90年代になると経済が停滞したけれども、その後も無理やりお金をばらまき続け、'00年代には限界にきて改革せざるを得なくなっていた。そうしたなかで浮き島のように残っていたのが原発ムラだった。最後の牙城として奇形のように残っていたものが白日のもとにさらされてしまったというのが、今回の事態です。

河野 確かに、そういうことになりますね。

小熊 こうした事態が、もしも10年前あるいは15年前に起こったのであれば、原子力ムラによる巻き返しも可能だったかもしれません。でも、原子力ムラの実態が社会の常識や世界の潮流と完全に乖離していること、無理に無理を重ねてそれを誤魔化してきたことが全て明らかになってしまった。ですから、国民の多くは、今回明るみに出た原発の実情を知って、これは30年前の日本だと思ったはずです。こんな古い日本がまだ残っていたのかと。

河野 だいたい日本の原発は初めから矛盾だらけなんですよ。いま福島第一原発4号機の使用済み核燃料プールが不具合で危ないと言われていますけど、3.11まで使用済み核燃料プールなど一般には知られていませんでした。けれども、実はもう10年以上も前から、プールがやがて容量限界に達することはわかっていた。

 じゃあ、どうするのかというと、青森の六ヶ所村で再処理すると。でも、六ヶ所村の再処理工場はいつまでたっても本格稼働しない。仮に稼働したとして、使用済み核燃料から出るプルトニウムはどうするのか。それは高速増殖炉「もんじゅ」で燃やすと言うけれど、あれはトラブル続きで止まったまま。

 でも、こういう事実を挙げて、核燃料サイクルは破綻していると党内で主張しても、「お前、共産党か」と言われてまったく議論にならなかったというのが、自民党の現実です。共産党であろうと、自民党であろうと、矛盾しているものは矛盾しているのに・・・。

 こんな辻褄の合わないことにずっと口をつぐんできたのが原子力政策です。そのことが去年の事故で明らかになったのに、既定路線を続けようとしている。原子力委員会なんか、いまだに関係者だけの秘密会議でお手盛りの原子力政策大綱を作ろうとしていた。信じがたいし、時代錯誤の極みですよね。

小熊 アメリカで講演したとき、いま日本では7〜8割の人が脱原発を支持していると言ったら、それは放射能の恐怖のせいかと聞かれた。それだけじゃないと答えたんです。

 いまや日本は放射能と原子力については最も知識レベルの高い国である。その証拠にベクレルという言葉が日常語になっている国は世界のどこにもない(笑)。だから、原発の問題を日本国民はよく理解している。しかもそれは、彼らにとって昔から知っている政治の図式であるから、よく理解できるし、許せないものなのだと。

河野 なるほど。日本人なら馴染み深い構造の問題であると。

(6)
小熊 だから、日本における原発問題の意味は、おそらく海外の人にはよくわからないでしょう。原発は日本の古い構造の象徴と言っていいと思います。

 もう一点、指摘しておきたいのは、日本人の大部分が原発問題の意味を理解してしまった以上、脱原発の流れを押しとどめたり、逆戻りさせたりすることはもはやあり得ないということです。反対運動をしている人たちのなかには「その考えは楽観的すぎる。チェルノブイリ事故の後だって巻き戻されたではないか」と懐疑的なことを言う人もいますが、私は違うと思う。

 チェルノブイリで事故が起こったのは'86年です。当時はエネルギー需要も経済もどんどん伸びていたし、政府・自民党にも財源がありましたから、原子力政策が大きく揺らぐような環境になかった。

 でも、いまは違います。経済は縮小し、電力需要も伸び悩んでている。燃料プールも満杯になるのが見えているし、世界的に脱原発が進み、再生可能エネルギーの技術も伸長して採算がとれるようになりつつある。かつてとは、政治的背景も経済的事情もまったく異なっているんです。

河野 それは大事な指摘ですね。

小熊 こうした状況において原発を動かすとしたら、方法は一つだけです。20年なら20年と期限を明確にして脱原発実現を政府が宣言し、実現に至るプログラムを立てる。そして、それまでの間、どの原発を稼働させるのかを仕分けし、厳格な基準をクリアしたものだけを動かす。この方法は、現実にドイツが行っていることです。

 これ以外のやり方で強引に動かしても---まさにいま、それが行われているわけですが---いずれ必ず揺り戻しが起こる。一時的にうまくいって原子力ムラの人たちがほくそ笑んだとしても、その揺り戻しはより大きくなると思いますね。

原発運動を左右の対立と捉える時代は終わった

河野 いまは多くの国民が脱原発、反原発だと思いますが、3.11以前にも反原発運動はありましたよね。彼らは主として「危ないからすぐに止めろ」と唱えていた。でも、そうした運動は左翼のレッテルを貼られて、あまり広まりませんでした。私自身、安全性の問題ではなく、先ほど言った核燃料サイクルの根本的な矛盾を指摘していたので、危険派の人たちとはあまりリンクしてこなかった。

 そしていま、あの事故のあと、現実的なプログラムを提示して穏健な脱原発層を取り込もうという動きもなくはないのですが、「危険な原発を即刻、止めろ」「我々こそが正しい。なぜ賛同しないのか」と叫ぶ人たちが相変わらず多い。気持ちはわかるものの、少し残念な気がします。

(7)
小熊 実はヨーロッパでは、環境保護運動というのは保守の人たちの間から起こったんです。左翼とは理性と科学を行使して産業を発展させる人たちで、保守は地域を大切にする人たちという位置づけ。例えば、ナショナルトラスト運動などはイギリス貴族が始めた運動です。そうした社会的文脈のなかでドイツの緑の党が生まれてきたわけで、緑の党には保守的な人も左翼的な人も参加していた。

 それに対し、「君たちは右なのか左なのか」と問われたとき、「どちらでもない。われわれは、前だ」と答えたという有名な話があります。日本においても、反原発運動を保守と左翼の対立のように捉える時代は終わったと思います。

 それから以前は、原発をやめて産業文明をやめよう、という論じ方が多かった。貧しくてもいいから安全な有機農産物を食べるのか、それともビル街で電気を消費するのか、といった選択肢の提示です。これは「正義の我慢」論になりがちで、一定以上には広まらなかった。

 ところがいまは、原発はコストが高い、新エネルギーのほうが経済成長できる、といった議論が出ている。あるいはエコ家電やスマートメーターで節電できる、我慢ばかりが能ではない、とか。こちらのほうが、広がっていきますよ。

河野 なるほど。多くの人が納得できる提案をして、原発を上手にフェードアウトしていこうというコンセンサスができれば、おそらく脱原発の流れは相当に加速するはずですね。

小熊 もう一つ指摘しておきたいのは、反原発のデモに来ている人は非正規労働者が多いことです。彼らは原発の下請け非正規労働者の境遇に同情しています。それに対して、東電の正社員は汚れ仕事には就かず、競争にもさらされないで高い給料をとり、定年後は企業年金もたくさんもらっている。これは許しがたいと。

河野 そういう怒りや正義感みたいなものが、いまの反原発のベースにあるということですね。

小熊 しかも、独占市場で高い電気料金をとってカネをばらまき、政治家と結びついている。世の中はこういう仕組みでできていたのか、自分たちが苦しい労働条件にあえいでいるのに、こんなうまい汁を吸っているやつは許せない。こういう感情がいまの脱原発、反東電の背景にあります。

 実際にデモに出てくる人は100人にひとりだとしても、その後ろには大変な数の怒りがありますね。

河野 原発事故で多くの国民に政治参加の意識が出てきたのは事実だと思うんです。実際、たくさんの人から「わたしたちは何をすればいいの?」というメールももらいました。そうした人のなかには、確かにデモに参加した人もいる。しかし、彼らの話を聞くと、デモに行っただけで終わっているんですね。脱原発は国政マターですから、政治家に働きかけをしなければいけないのに、そこには思いが至らない。

(8)
「デモに行くのもいいけど、地元の政治家事務所に行ってあなたの考えを伝えてください。そうしないと何も変わりませんよ」と言ったんです。ブログにも「日本はシリアとは違うから、乗り込んでいっても銃で撃たれることはありませんよ」と書いたら、「本当にそんなことをしてもいいんですか」というメールが大量に来た。

小熊 それは逆にいえば、日本はシリア並みに政治家が市民から遠い国だ、ということですね。

河野 私にしてみれば、政治家のところに行かないでどうするんだと思うんです。だって、東京電力は事故の後、しかるべき立場の人が議員会館を回って、「東電が潰れれば停電が起きます」とか「東電が破綻したら日本の金融市場が崩壊します」と言って歩いた。そうやって政治を動かし、破綻処理を回避したんです。それに対抗しなきゃいけないのに、「日曜日にデモに行って風船持って歩いてきました」では、なにも変えられない。

小熊 おっしゃることはよくわかります。政治家に圧力をかけなきゃいけないのも確かでしょうし、一方で国民の側に「そんなことをやってもいいのか」という自主規制があって、なかなか行動に移せないのも現実です。ただ、デモに参加することの意味は決して小さくないと思う。

 政治的影響力という点では直接的ではないかもしれませんが、デモを体験することで政治的行動に慣れ、その後の行動を広げていくきっかけになるという効果は馬鹿になりません。そういう人のなかから議員に働きかける行動も起こってくると思う。

 デモは古い、ロビイングしたりNPOを作ったりしなければ意味がない、という意見もあるでしょうが、デモが起きないような国に、ロビイング活動やNPOが生まれるでしょうか?

河野 それは、その通りだ。デモが盛んになれば、その次の段階に進む人も増えるでしょうしね。

小熊 ロビイングも大切でしょうが、デモに行くとそれなりに面白い。参加した人が元気になる。その効果は、侮れないと思いますよ。

河野 市民レベルの動きとしては、東京や大阪で原発の是非を問う住民投票をやろうという気運もありますね。でも、東京には原発はなくて、福島県や新潟県の原発でつくられる電力を東京都民が使ってきたわけです。

 ですから、東京の人たちが原発でつくった電気は使いませんと住民投票で決めるならば理解できるのですが、正直なところ、私は原発のない地域の人たちだけで原発の在り方を問う動きには、若干の違和感があります。

(9)
小熊 おっしゃることはよくわかるんですが、東京都は東電の大株主です。日本に国民投票という制度がないなかで、東電に対して都民が住民投票という形で意思表示をするのは、正当な政治回路からのアプローチの一つだと思います。

 福島の痛みがわかっていない東京人が反対運動なんかやって、という声もありますが、私は違うと思う。福島には放射能の問題で苦しんでいるのに、周囲に遠慮して「恐い」とすら言えない状態にある人もいる。東京が声を挙げることで、現地の人たちが声を出しやすくすることも必要です。東京の人が黙れば福島がよくなるわけじゃない。

 放射能汚染は全体の問題です。東京の手前で止まってくれるわけじゃないから、都民も広い意味では当事者です。ドイツのウルリヒ・ベックという社会学者が、「貧困は階級的だが、スモッグは民主的だ」という趣旨のことを言っています。

 要するに、スモッグとか放射能は階級とは無関係に、金持ちも貧乏人も、男も女も、東京も地方も、みんな等しく被害者になるということです。地方が被害者で東京は搾取者だとか、東京は税金を取られるだけで原発立地自治体は補助金で潤ったとか、そういう擬似対立は健全じゃないと思います。対立がどこから生じたかを問うべきでしょう。

河野 私は原発問題が国政マターである以上、やはり総選挙で1票投じることが実質的な住民投票ではないかと思うんですね。そして、次の選挙は、もちろん消費税も重要問題ですけど、まず日本のエネルギーをどうするのかが一番の争点にならないといけない。

小熊 住民投票をやろうという人たちは、国政選挙にも熱心なはずですよ。むしろ住民投票の運動が広がることで、人びとの国政選挙への関心も高まる。だから、住民投票もあり、国政選挙もあり、デモもありで、いろいろな意思表示の仕方があっていい。

 これだけのことがあってもデモも起きないような国であるなら、国政への関心が盛り上がるわけがないでしょう。「デモで何が変わるのか」という問いに「デモができる社会が作れる」と答えた人がいますが、まっとうです。

河野 確かに、そうかもしれませんね。福島原発の事故はまことに不幸な出来事であったけれども、それがきっかけで国民が政治に積極的に働きかけて、世の中が変わる第一歩になるとしたら、不幸中の幸いかもしれない。

小熊 そう思います。現に人々の政治的リテラシーは大幅に上がり、日本の社会構造の問題点を多くの人が理解するようになりました。これからの日本社会は、いやでも大きな変動期に入っていくと思います。

<「週刊現代」2012年6月30日号の記事に未掲載部分を加えた完全版です>