「北の山・じろう」時事問題などの日記

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シベリア抑留と開拓団の悲惨【我が家のホームページ】

【我が家のホームページ】
第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
(シベリア抑留と開拓団の悲惨)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

上 記ページから引用。沢山の資料が掲載されています。よく丹念に集められたと感謝いたします。この記事では、その中から、「シベリア抑留」を抜粋・引用しま す。一般に、シベリア抑留者は約60万人と言われており、うち死亡者は約6万人と言われています。しかし、資料を見るならそれは、作られた数字である可能 性が、高いと思います。一番、実情に近い表現をするなら6万人以上、総数不明では、ないかと思います。ドイツの数字を見るなら、「ソ連兵に捕まえられたの は約三百五十万人、うち百十万人が死亡した。《北海道新聞「はるかなシベリア」平成七年から》」となっています。これとの比較から考えても、抑留者の数 も、死亡者の数も少なく言っている可能性があります。

以下、【我が家のホームページ】から抜粋・引用。

 シベリア抑留と開拓団の悲惨

 八月十五日、終戦の詔勅が放送され、十六日夜半には関東軍総司令官は全軍に停戦命令を発した。前線の隅々まで命令が届くまでは十日以上もかかったが、いずれの部隊もおおむねこれを受け入れ、現地ソ連軍の武装解除に応じた。

 ソ連軍は関東軍の武装解除をすすめると同時に、一千名単位の作業大隊を組織して、列車で続々とソ連領内に送り込んだ。関東軍の将兵に限らず、北緯三十八度以北の朝鮮にあった日本軍将兵はもとより、満州の民間人男子、樺太・千島の将兵・民間人男子を含めてその数は五十七万名以上(六十四万名ともいわれる)にのぼった。彼らはシベリアを中心に、何年にもわたって鉄道・道路建設、森林伐採、鉱山労働などに従事されられたのである。

 一方、二十七万名ともいわれる満州開拓団は、ソ連侵攻と同時に着の身着のままで南をめざして逃避行を余儀なくされた。その中には、例えば東安省鶏寧県哈達河開拓団一千三百名が逃げる途中、麻山というところでソ連軍と中国人ゲリラの挟み打ちにあい、進退きわまって集団自決した(「麻山事件」)というケースも少なくなかった。こうして十万名が逃避行の途中で犠牲となった。国策に従って中国人の耕地を奪い、入植した開拓団ではあったが、敗戦によるその末路は悲惨であった。現在、中国残留孤児と呼ばれる人々は、その逃避行の中で中国人に預けられたり拾われたり、あるいは買われたりした人々である。

 平成四年六月、シベリア強制連行はスターリン首相(当時)の直接指令に基づくものだったという文書が公開された。翌五年十月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は…謝罪し、六万一千八百五名の死亡者名簿フロッピーが引き渡された。
                 
《「図説 太平洋戦争」(1995 池田清編 河出書房新社)から》





 軍人・軍属及び一般邦人の強制抑留者の合計

  軍人・軍属強制抑留者  536,243人
  一般邦人強制抑留者    38,991人
    
(行政官・司法官等の官吏、警察官(国境警察、鉄道警察)、教員、協和会幹部・新聞記者、満鉄・電電等の大企業社員など)
    合    計    575,234人
                     
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

  ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された強制抑留者の総数 575,000人
  日本本土への直接帰還者数               473,000人
  逆送者数                        47,000人
  未帰還者(死亡認定者)数                 55,000人
               
〈『引揚げと援護三十年の歩み』(1978 厚生省援護局編 ぎょうせい)〉

 ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された一般邦人の地域別内訳
    満州         28,152
    関東州        1,500
    北支          500
    北朝鮮        4,112
    南樺太        1,240
    千島(北方領土を含む)  464
    満州・関東州     1,870
    満州・北朝鮮      669
    満州・関東州・北朝鮮  484
     計         38,991
       
(注:二つ以上の地域が記載されている項目は、満州からの移動後拘束されたことを示す)
                      
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉

  
《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》




 ソ連の資料による抑留者数
 ソ連内務省軍事捕虜・抑留担当総局の(ソ連内務省次官に対する)報告によると、日本人捕虜の総数

六〇万九四四八人(日本軍人、軍属だった中国人、朝鮮人、モンゴル人、満州人、ロシア人などを含めると六三万九七七六人)、本国へ送還した者五四万六七五二人、死亡した者六万一八五五人となっている。        
《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》





 日本人強制抑留者数

 ソ連に抑留された日本人は約60万人、死亡したのは約6万人と云われていますが、シベリアに強制抑留された日本人は、ソ連内務省文書には、105万2467人、アメリカのマッカーサー元帥の記念文書館には、1111650人となっています。

 また、死亡者は、37万4041人とも伝えられています。
(新潮社『プリンス近衛殺人事件』)

 抑留者、死亡者の実数は不明であるというのが実態です。

 一九四六年夏、ソ連にいた日本人捕虜は百十一万千六百五十人であった。
                    
(米ヴァージニア州、マッカーサー元帥記念文書館)

 内務省のラーゲリには百五万二千四百六十七人の日本人が収容されている。
                    
(ソ連〈現ロシア〉クレムリンの内部文書)
                         
V・Aアルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
                         
『プリンス近衛殺人事件』新潮社発行より

 ソ連地区の引揚状況を顧みまするに、これは滞留すること一カ年半の後、即ち昭和二十一年の末から漸く引揚が開始され、翌二十二年十二月までに六十二万五千名、昨二十三年五月から十二月までに二十八万九千名という引揚状況でありまして、誠に遅々たるの感なきを得ないのであります。

 而も尚、取残された四十万の人々は、遂に四度の冬をあの厳寒の地に送り迎えしなければならない状況に置かれ、―略―
 又中立地区に残された六万の同胞は戦塵なお収まらざる中にあって、昨二十三年八月以降、帰還の途も全く途絶え、帰国の希望も失われんとするかの中に労苦を重ねておられるのであります。
                   『海外残留同胞引揚促進に関する決議案』提案理由より
   昭和二十四年四月二十六日 第五国会・参議院・本会議

                         
《シベリア抑留関係展示会の展示資料から》





 モスクワのロシア国立軍事公文書館に、第2次大戦後にシベリアなど旧ソ連に抑留された日本人約76万人分の資料が収蔵されていることが23日、分かった。同館では日本政府に写しを提供する方向で話し合いを進めているという。

 …厚生労働省は23日、ロシア国立軍事公文書館で発見された新資料に含まれるシベリア抑留者の人数について「(公文書館側が推定する76万人分でなく)70万人程度ではないか」との見方を示し、ロシア側との新資料提供に関する交渉については「まだ新資料の入手に向け調整をしている段階で、両国間で合意ができているわけではない」と話している。
                                
《産経新聞2009/07/24から》





 ドイツ人捕虜も、シベリア送りとなった。第二次世界大戦で、捕虜になったドイツ兵は約一千百万人で、ソ連兵に捕まえられたのは約三百五十万人、うち百十万人が死亡した。日本兵捕虜六十万人のうち、一割に当たる六万人の死亡数からみると、ドイツ人の死亡率はかなり高い。
                      
北海道新聞「はるかなシベリア」平成七年から》




 ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
                                  (1941年6月〜45年9月)
 ド  イ  ツ 2,389,560   日     本  639,635   ハ ン ガ リ ー  513,767
 ル ー マ ニ ア  187,370   オーストリア   156,682   チェコスロバキア   69,977
 ポ ー ラ ン ド   60,280   イ タ リ ア   48,957   フ ラ ン ス   23,136
 ユーゴスラビア   21,822   モ ル ダ ビ ア   14,129   中     国   12,928
 ユ  ダ  ヤ   10,173   朝     鮮   7,785   オ ラ ン ダ   4,785
 モ ン ゴ ル   3,608   フィンランド    2,377   ベ ル ギ ー   2,010
 ルクセンブルグ   1,652   オランダ・ダッチ    457   ス ペ イ ン    452
 ジ プ シ ー    393   ノ ル ウ ェ ー    101   スウェーデン      72
                                24ヶ国合計 4,172,042人
 〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉
           《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)から》