「北の山・じろう」時事問題などの日記

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原発で働く現場の叫び 福島の元作業員ら対談<神戸新聞>

神戸新聞
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原発で働く現場の叫び 福島の元作業員ら対談
2012/10/29 15:00
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0005488276.shtml
▼全文引用


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爆発した福島第1原発1号機から約200メートル北西にある免震重要棟で休憩する作業員。放射線量が毎時10マイクロシーベルト以上の室内でマスクをはずし、食事や仮眠をとっていた(2011年8月、小原一真さん撮影)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/p1_0005488276.shtml

「事故収束には第三者の冷静な視点と専門家の助言があらためて必要になる。何ができるのか、考え続けよう」と話す小原一真さん(左)と、小川篤さん=大阪市内
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/p2_0005488276.shtml

 今なお続く東京電力福島第1原発(福島県双葉町、大熊町)の収束作業。そこで働く人たちはどこまで認識されているだろう。このほど大阪市内であったフォトジャーナリスト小原一真さん(27)と今年3月まで作業に従事した小川篤さん(44)の対談からは、過酷な環境に置かれた作業員の日常が浮かび上がった。(片岡達美)

 小原さんは岩手県生まれ。大学卒業後、金融機関で働きながら写真を学んだ。東日本大震災直後に退職し、3月から始めた原発取材で小川さんと知り合った。2012年3月、作業員の肖像などで構成した写真集を出版。国内外で写真展を開いた。

 東京都生まれの小川さんは父親の転勤で原発近くの福島県富岡町で育った。20代の一時期、原発敷地内で働いたこともある。警戒区域の同町の自宅には戻れず、家族と同県郡山市に住む。

 「この瞬間も作業員は危険な任務に就いている。そのおかげで私たちの暮らしがある以上、彼らのことを知らねばならない」と小原さんは話す。

 約30人の作業員を取材。多くは東日本大震災で仕事を失い、「家族を養うため」「生活していくため」という理由で危険な仕事を選んだ。20歳に満たない若者もいた。東電は作業に従事する人数を明らかにしていないが、小原さんによると今年8月時点で約2900人で、その70%が地元募集とみられる。

 小川さんの仕事は震災前までは営業コンサルタントだった。作業員の募集に応じたのは、「福島のために何かしなければ」という使命感のような思いからだった。

 4カ月の就労中、原子炉冷却で発生した汚染水をためるタンクから、汚泥などを排出する配管を敷設する作業に従事した。地中に敷設した配管からは大量の放射性物質が放出されるため、地面には厚さ10センチもの鉄板が敷かれたという。

 原発事故の被害者でありながら、収束のために危険を冒して働くというジレンマ。「自分から応募したので、ある程度の覚悟はあった。でも何かあっても補償はない」

 危険性とは裏腹に、日当は約1万円。それに5千円ほどの危険手当と0・1ミリシーベルト当たり千円程度の放射線手当が付く程度だった。「危険手当を受ける限りにおいて、後から異議申し立てはしない」という誓約書へのサインを求められたという。

 「特殊な技術を要する作業現場では、1日2マイクロシーベルトという高い線量の場所もあった。そんな現場でも代わりの人がいないため、同じ人がずっと働いていた」(小川さん)

 原子炉の冷温停止状態が実現したとして、国が事故収束の「ステップ2」完了を宣言した昨年12月以降、作業員の健康診断は月1回から3カ月に1回に減らされた。小川さんは今も全身のけん怠感や視力の低下に悩まされている。

 「地元では作業員の子どもが差別を受けることがある。こうした状況を広く知ってほしい」。福島に目を向けられないまま、脱原発だけが先行するような世論は、小川さんにはうつろに聞こえる。「原発は日本の社会全体に関わる問題。福島を愛する1人として、メッセージを発信し続けたい」



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