「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

この国と原発:第7部・メディアの葛藤/1 続けられた批判記事/石油危機、広告の転機(その2止)

毎日新聞
ホーム>http://mainichi.jp/
この国と原発:第7部・メディアの葛藤/1 続けられた批判記事/石油危機、広告の転機(その2止)
毎日新聞 2012年10月22日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20121022ddm003040191000c.html
▼全文転載


図URL
http://mainichi.jp/graph/2012/10/22/20121022ddm003040191000c/001.html

(1)

 <1面からつづく>

                         

 ◇報道出身者を起用

 1974年は、それまで慎重だった新聞界に原発の広告が入り込む転換点だった。電気事業連合会は同年4月、原発の宣伝強化を目的に「原子力広報専 門委員会」を設置し、広報部長だった鈴木建(たつる)氏が委員長に就任した。背景は石油ショックだった。「電気事業連合会 35年のあゆみ」はこう記す。 「石油に代わるエネルギーの本命に原子力発電が据えられ、原子力広報が最重要課題となってきた」

                         

 当時は、各地で原発建設への反対運動が活発化し始めた時期でもあった。こうした事情を背景に、田中角栄政権は原発立地自治体に多額の補助金を交付する電源3法を提案、74年6月に成立した。

                         

 石油ショックによる不景気で、新聞業界にも広告を受け入れる下地があった。「あゆみ」は、朝日に続き、読売、毎日が原発広告を掲載したことで「地方紙も朝日新聞の線なら宜(よろ)しいということで、全国的に地方紙の活用が可能となった」と記している。

                         

 実は、この動きの中心にいた鈴木氏はメディア出身だ。時事通信経済部などを経て経済誌「ダイヤモンド」 論説主幹だった71年、記者時代から親しかった木川田一隆(きがわだかずたか)・東電社長の要請で電事連広報部長に就任。81年まで務めた。その後東電顧 問などを歴任し、04年に93歳で死去した。

(2)

 75年夏から電事連を担当した毎日の元経済部記者、中瀬信一郎氏(71)は「官僚的な東電出身の部長と違って、(鈴木)建さんの広報部は開放的 だった」と振り返る。メディアを知る鈴木氏は、メディア関係者の心をつかんでいた。原発推進の広告はその後、福島第1原発事故まで、各紙に連綿と掲載が続 くことになる。

                         

 なぜ、最初の広告が朝日だったのか。

                         

 その広告を扱った広告代理店「ゼネラルエージェンシー」(東京都)の伊藤久住(ひさずみ)会長(81) によると、最初は東京電力の依頼で、当時計画中だった柏崎刈羽原発の広告を新潟日報に出すつもりだった。しかし、断られたため、各全国紙の新潟県版への出 稿を打診。朝日だけが社内で協議の上、「全国版に出してほしい」と返答してきたという。全国向けの広告のため、広告主は電事連になった。

                         

 伊藤氏は「朝日は社論として原子力を認めることでまとまっていたから、受け入れやすかったのだと思う」と話す。

                         

 ただ、朝日の元経済部記者、志村嘉一郎(かいちろう)氏(71)によると、社内では相当な議論があった という。「当時の広告局関係者の話では、一般広告が減ったので意見広告をたくさん入れようという方針だったが、原発については編集局や論説委員室と議論に なった。最後は編集担当専務が受け入れを決断した」

(3)

 朝日新聞広報部は毎日新聞の取材に「当該広告が新聞各紙の中で初めて掲載されたものかどうかは承知していない。掲載の経緯については40年近く前のことであり、確認できない」と回答した。

                         

 ◇75年「原子力の日」毎日に特集

                         

 75年10月26日の「原子力の日」。毎日新聞朝刊に「あすの原発は……」という主見出しで、全10段 (1ページの3分の2)の特集記事が載った。資源の乏しい日本では、原発がコスト面で優れる一方、核のごみの捨て場所に困ることなどを解説し、「原子力の 推進に本気で取り組むべきであり、それが日本の責務ではあるまいか」と締めくくっている。当時、外信部編集専門委員だった高榎尭(たかぎたかし)氏 (82)の署名入りだ。

                         

 高榎氏は京都大電気工学科卒の科学記者。核問題に詳しく、76~85年には論説委員として科学分野の社 説を担当した。この間、米スリーマイル島原発事故が発生。国際的な核問題も絡めて原子力に懐疑的な社説を多数書いており、「激しく燃えるかゆっくり燃える かの違いだけで、原発は原爆と本質的に同じだと思っている」と言う。電力会社からも「頑固な原発批判派」(桝本晃章(ますもとてるあき)・元東電副社長) と見なされていた。

                         

 高榎氏によると、記事が出る数日前、上司の編集局次長に呼ばれ「原子力推進に役立つ記事を書いてくれないか」と頼まれた。

(4)

 特集記事が出た頃、電事連の鈴木氏と交渉していた当時の東京本社広告局の小林正光産業広告課長(72)は焦っていた。74年8月以降、全国紙に相次いで原子力推進の広告が出たのに、毎日にだけ載らない状況になりかけていたからだ。

                         

 交渉の末、電事連の広告が掲載された76年1月30日は、連載「キャンペーン’75」が完結した翌月 だった。石油に代わるエネルギーは原子力しかないと説明した文章に、家事をする女性の写真を配した全10段広告。鈴木氏は「電力会社の了解が得られた」と 説明したという。広告はシリーズで、76年10月まで計8回掲載された。

                         

 ただ、小林氏は鈴木氏の著書にある「原発の記事は慎重に扱う」などという編集幹部の約束は知らない。

                         

 更に、当時の複数の電事連関係者によると、鈴木氏は主要各紙の編集幹部と強固な人脈を築き、定期的な会合を料亭で開いていた。メディアとの重要な交渉は鈴木氏が引き受け、その内容は外部に漏れなかったという。

                         

 高榎氏は特集記事が広告の条件だったのではないかと推測するが、鈴木氏も編集局次長ら当時の毎日幹部も既に他界。特集記事と広告の関係について聞くことはできなかった。

                         

 ◇危険性、指摘し続け

                         

 新聞広告が原発推進の一翼を担ったのは事実だ。しかし、広告とは関係なく、原発の危険性を指摘する記事は掲載され続けてきた。

(5)

 毎日新聞では、一般の記事は社説(社論)に縛られない。組織上も「論説室」と「編集編成局」は独立し、77年制定の編集綱領は「社の内外を問わず不当な干渉を排して編集の独立を守る」と定めている。

                         

 86年入社の大島秀利・大阪本社編集委員(50)は90年の福井支局敦賀駐在赴任以降、原発事故や核燃サイクルなどを巡る記事を多数書き、原発の危険性を指摘してきた。「電力会社の圧力で筆を折ったことはない。自己規制こそ最大の敵と自戒している」と話す。

                         

 しかし、編集幹部には「反響」が伝わっていた。95年6月から97年4月に大阪本社編集局長を務めた山 野寿彦(としひこ)氏(70)は当時、関電の広報担当者らから度々「大島さんは、なかなかの人ですなあ」などとけん制された。山野氏は原発は必要との立場 だが、「うちは記者一人一人が自営業者みたいな新聞だから」と受け流したという。

                         

 「原発耐震性1000倍の差 国内3カ所比較」。04年11月22日朝刊にこんな特ダネが載った。独立 行政法人・原子力安全基盤機構が浜岡、福島、大飯の各原発で地震によって大事故が起きる確率を計算した結果、浜岡が突出して高かったとの内容だ。同機構の 報告書では原発名は伏せられていたが、取材で3原発であることを突き止めた。

(6)

 同機構には立地自治体や経済産業省原子力安全・保安院から「今更リスクがあるなんて住民に説明できない」と抗議がきた。計算した研究者は「試算に すぎない」と火消しに追われた。報道で明るみに出た試算は推進側に打ち消され、対策に生かされなかった。浜岡原発の危険性が大きく問題化したのは、福島の 原発事故後だった。

                         

 想定外の原発事故の危険性も指摘していた。05年5月23日朝刊から4回連載した「原発震災 想定外へ の備え」は、国の原発耐震指針見直しの過程で想定外の地震によって原発事故が起きる恐れがあると公に確認されたこと、立地自治体はそうした事故を全く想定 していないことを書いた。

                         

 しかし、記事に反応したのは原発の危険性を訴える活動をしていた人たちだけ。東京社会部で取材に当たった鯨岡秀紀記者(46)=現仙台支局長=は「世論が大きく反応することはなく、対策に生かされることもないまま福島の事故を迎えたのは今も悔やまれる」と話す。

                         

 09年4月から10年3月まで東京電力を担当していた東京経済部の三沢耕平記者(40)。今春始めた記者ツイッターには、フォロワー(読者)から「原発の危険性を見抜けなかったのか」「規制当局と癒着しているのではないか」と批判がきた。

(7)

 「取材上の関心は人事や電気料金の動向だった。限られた相手との狭い取材環境の中で、原発は安全だと思い込んでいた。価値観の違う世界と、つながりを持つことが必要だと痛感した」と三沢記者は振り返る。

                         

==============

                         

 ◇原発関連の新聞広告掲載を巡る動き

                         

73年10月    第1次オイルショック始まる

                         

74年 4月    電事連が原子力広報専門委員会を設置

                         

    7月17日 関西電力美浜原発で放射性物質漏れ事故

                         

    8月 6日 朝日新聞に原発推進の新聞広告掲載

                         

   10月28日 美浜の事故を機に毎日新聞連載「出直せ原子力」始まる

                         

   11月 8日 「出直せ原子力」完結

                         

75年 1月 1日 毎日新聞連載「キャンペーン’75」開始

                         

      26日 読売新聞に原発推進の新聞広告掲載

                         

   10月26日 毎日新聞が原発推進の特集記事を掲載

                         

   12月31日 「キャンペーン’75」完結

                         

76年 1月30日 毎日新聞が原発推進広告を掲載

                         

83年       鈴木建・元電事連広報部長の著書「電力産業の新しい挑戦」発刊

この国と原発 アーカイブ2012年
http://mainichi.jp/feature/20110311/konokunitogenpatsu/archive/news/2012/index.html

毎日新聞 ホーム>http://mainichi.jp/

 

 

第1ブログ

福島原発事故と放射能汚染 そしてチェルノブイリ地方の現状(北の山じろう)
☆ホームページのご案内
福島第1原発事故と原発問題、チェルノブイリ原発事故関係情報案内所
福島原発事故と放射能環境汚染・食品汚染・健康被害、チェルノブイリ関連情報案内所