「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

証言/多賀城の津波/不意の濁流、幹線道襲う<証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」から全文転載

河北新報

トップ >http://www.kahoku.co.jp/
ご購読案内
http://www.kahoku.co.jp/pub/koudoku/syoukai.htm
証言/多賀城の津波/不意の濁流、幹線道襲う
2011年05月13日金曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110516_02.htm
▼全文転載


写真・図
都市部の幹線道路を襲った津波は数え切れない車をのみ込み、押し流した=3月18日、多賀城市町前

http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110513012jd.jpg
http://www.kahoku.co.jp/img/news/201105/20110513_t_zu.jpg

 東日本大震災で、多賀城市では津波による死者が185人に上り、塩釜市など近隣の港町を上回った。仙台港に近接し、市中心部の海抜は5メートルに満たな いが、海に面するのは砂押川の河口付近だけだ。「海の街」のイメージが薄い多賀城市で、なぜこれほどの犠牲者が出たのか。住民らの証言からは、都市部の危 うさが浮かび上がる。(中村洋介、加藤伸一

◎「割り込みと思ったら、押し流されてきた車だった」

<渋滞>
 3月11日午後、多賀城市を横断する幹線道路、国道45号と県道仙台塩釜線(産業道路)では、大渋滞が起きていた。年度末の週末で交通量が多かった上、地震で信号が止まった。
 車窓の外はマンションや大型店などの建造物だ。海は見えない。濁流は不意を突き、人と車がひしめく大動脈を襲った。市内の津波による死者は、国道45号と産業道路沿いに集中した。
 多賀城市桜木の会社員新田恵さん(39)は地震後、家族が心配になり、車で自宅に向かった。国道45号に差し掛かると、渋滞に巻き込まれた。
 動かない車の列に突然、タクシーが飛び込んできた。
 「強引に割り込んできた、と思ったら、黒い水に押し流されてきた車両だった。すぐに自分の車も水に浮いた」と新田さんは振り返る。
 周囲の数え切れない車が津波にのまれた。新田さんの車は、他の車とぶつかって回転。住宅の塀にぶつかって止まった。幸運にも運転席側が塀で、そこにはい上がることができた。

<悲鳴>
 塀の下の水かさは次第に増し、濁流が目の前の交差点で大きな渦を巻いた。新田さんの車も渦の中に沈んだ。
 「水没した国道45号のあちこちから『助けて』と悲鳴が聞こえたが、どうしようもなかった。暗くなるにつれて、何も聞こえなくなった」
 想像さえできなかった惨劇と雪に震えていた午後9時ごろ、自衛隊のボートで塀の上から救出された。
 新田さんは「生まれも育ちも多賀城だが、津波が来るという実感がなかった。多賀城も海沿いにあるという意識を持つべきだった」と話す。

<伝う>
 多賀城市町前のすし店経営浦山淳さん(40)は地震後、余震を警戒し、店の前の産業道路に出た。「津波だ、早く上がって来い」。パチンコ店の立体駐車場の上階に集まった人たちが叫んだ。浦山さんも駆け上り、海側を見つめた。
 「1キロ先の仙台港を超えた津波が、大型店など建物の間をはうようにして産業道路に迫った。建物を壊す感じではなく、道路伝いに流れる感じだった」
 濁流は産業道路に押し寄せた。車から降りず、脇道などに車で逃げようとしている人が多かった。浦山さんは当時の状況を思い出し、嘆いた。
 「何度も『車を捨てて逃げろ』と叫んだ。何台もの車が人が乗ったまま流された。水が引いた翌日以降、車の中で亡くなっている人がかなり見つかった」

◎都市的環境、被害を拡大/海が近くても工場・住宅で視界遮られる

 住民の証言や痕跡によると、多賀城市を襲った津波は仙台港の高松埠頭(ふとう)や中野埠頭から北西方向になだれ込み、市内に入った。高さは約4メートル。仙台港に最も近い宮内地区では家屋がなぎ倒されるほどの威力だった。
 多賀城市中心部に到達すると、住宅やマンション、商業施設の間の道路が水路代わりになり、広がった。国道45号や産業道路沿いには倒壊した建物がなく、津波の威力はやや弱まったとみられるが、高さは2メートルほどあった。建物の1階部分は浸水し、車が流された。
 同時に、津波の一部は河口から砂押川をさかのぼった。陸上自衛隊多賀城駐屯地とその周辺を浸水させ、さらに上流の桜木2丁目周辺では土手を破壊。南側の市中心部に流れ込んだ。
 市中心部は、仙台港側と砂押川側から入った二つの津波に南北から挟まれ、ほぼ全域が浸水。浸水面積は約660ヘクタールで市域の3分の1に上った。
 多賀城市によると、渋滞の車が波にのまれた国道45号と産業道路のほか、仙台港背後地の工場がある宮内地区などでも死者が出た。市内の犠牲者185人のうち、市外に住む人が93人と半分以上を占めた。ほかの被災市町村にはない傾向だ。
 市災害対策本部は「浸水域には通行量の多い幹線道路や大規模な工場がある。仙台など近隣に住む人が多賀城を通り掛かったり、勤め先の工場で仕事をしていた時に津波に襲われたケースが多い」と分析する。
 都市部の環境が、被害を広げた要因になったという指摘も多い。海岸から約1キロの明月地区に住む斎藤冨男さん(67)が地震後、外に出ると、目前に津波が迫っていた。慌てて向かいのマンションに駆け上がって助かった。
 斎藤さんは「海が近くても工場や住宅に囲まれ、海への視界は遮られている。津波は建物の間から突然、姿を現した。気付いた時には目の前で、逃げられなかった人もいたはずだ」と語った。

◎住民、避難行動に影響

ハザードマップ、浸水域想定違い/防災広報装置、全てダウン>
 多賀城市は2009年、「洪水・津波ハザードマップ」を作製し、市内の約2万4300世帯に配布した。マップでは、津波は仙台港の高松埠頭付近と砂押川から侵入し、仙台港周辺と河口のごく一部が浸水すると想定していた。
 東日本大震災の津波は侵入域こそ想定通りだったが、浸水域は全く違った。
 市中心部で、浸水が想定されていなかった八幡地区の行政区長鈴木邦彦さん(67)は「大津波警報を聞いても不安には思わなかった。津波が仙台港を超えても、ここまでは来ないと信じていた」と言う。
 津波の襲来も十分に伝わらなかった。
 市災害対策本部によると、3月11日午後2時46分の地震発生から約15分後、市内13カ所に設置していた防災広報装置のうち9カ所が機能停止に陥り、午後4時半すぎには全てダウンした。
 防災広報装置は電話回線を使っていたため、地震で通信不能になった。マイクやアンプが内蔵された操作盤は高さ1.5メートルに置かれ、津波で海水に漬かった。
 市災害対策本部は「災害の連絡機能も含め、防災計画を見直さなければならない」と語る。
 砂押川をさかのぼった津波は、河口から約5キロ上流にある国府・多賀城跡の下の河原にも船を打ち上げた。
 市にとっては、想定をはるかに超えた事態だったが、869年の貞観地震では、多賀城の正門近くまで津波が押し寄せたとの記録が残っていた。

証言/焦点 3.11 大震災{河北新報・連載記事}
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1118/index.htm
河北新報
トップ >http://www.kahoku.co.jp/
ご購読案内
http://www.kahoku.co.jp/pub/koudoku/syoukai.htm