「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}第1回「幻の原爆製造」 (4)行きつまった感あり<東京新聞・連載特集>

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【特集・連載】日米同盟と原発
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第1回「幻の原爆製造」 (4)行きつまった感あり
2012年8月16日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000256.html
◎全文転載

濃縮実験に失敗

 

 戦局が一段と厳しさを増した1943(昭和18)年9月、陸軍は理化学研究所仁科芳雄らの研究を軍直轄とし、原爆開発に向けた歩を速めた。研究は「ニ号研究」の暗号名で呼ばれた。「ニ」は仁科の姓に由来する。

 

 当時、仁科の次男、浩二郎は小学生。現在は名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)で、80歳の浩二郎は、父が旧知の記者に「日本という船が沈みそうになっている。自分もその船に乗っている以上、手で水をかき出す努力をしなければならない」と話していた、と証言する。

 

 しかし「原爆製造は可能」とした仁科らの研究は、あくまで理論上の話。問題はどう形にするかだったが、戦時中の物資不足が障害となった。

 

 例えば、爆薬の濃縮ウラン。熱拡散分離法を採用したが、天然ウランをいったん別の化合物にしてからでないと、高濃度のウランが生成できない。しかも、分離塔と呼ばれる実験装置は高価なニッケルが手に入らないため銅で代用しなければならず、不純物が混じることもしばしば。

 

 当時、濃縮実験を担当した理研の研究者、山崎文男(36)が失敗続きの様子を日記に書きとめている。「ますます絶望的」「テストサンプルを測定したが、てんで弱く問題にならぬ」…。45年1月29日付では、ついに「『ニ』報告、行きつまった感あり」とつづってあった。

 

 日記を保管している現在72歳の長男、和男によると、山崎は終戦直後まで書き続け、後年、神奈川県鎌倉市の自宅で何度も読み返していた。重要な箇所にはメモ書きを加えたり、赤ラインを引いたりしてあったが、ニ号研究のところだけは、まったく加筆せず、当時のまま。

 

 和男は「研究がうまくいかなかったことが、よほど悔しかったのでしょう。父は、振り返ることさえ嫌だったと思う」と話す。

 

 45年に入ると、米軍機B29の東京空襲は激しさを増した。4月14日未明には、文京区本駒込の理研にも爆弾が落とされ、熱拡散分離塔のある49号棟が全焼。実験を続けることすらほぼ不可能になった。

 

 山崎の日記によると、45年5月15日、仁科は理研の会議室に山崎ら部下の研究者を集め「ニ号研究の大体中止を決議した」。これを受け、陸軍技術少佐の山本洋一(40)は6月28日付の報告書でこう書いた。

 

 「理研仁科研究室における熱拡散法による研究は数回の実験の結果、不可能なること判明し、原子核エネルギーの利用の研究は中止することとなれり」

 

 当時、陸軍とは別に、海軍も京都帝大と協力して原爆開発を進めていた。「F研究」の暗号名で呼ばれていたが、やはりウラン濃縮がネックとなり、日の目を見ることはなかった。

 

 ニ号研究の中止を決めた陸軍の報告書にはこんな一文もある。「敵国(米国)もウランのエネルギー利用は当分なしえざるものと判明した」

 

 仁科ら日本の科学者はそれが、見込み違いであったことを1カ月余り後に知ることになる。

 

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