「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}第2回「封印された核の恐怖」 (5)仁科の死そして巣鴨プリズン<東京新聞・連載特集>

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【特集・連載】日米同盟と原発
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第2回「封印された核の恐怖」 (5)仁科の死そして巣鴨プリズン
2012年9月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100008.html
▼全文転載


A級戦犯の関与

 

 ソ連が原爆保有を宣言してから1カ月後の1949(昭和24)年10月。今度は、毛沢東(55)率いる中国共産党中華人民共和国を建国した。東アジアでも緊張が高まり、米国の対日占領政策は「反共の砦(とりで)」としての性格を一段と強める。

 翌50年6月、米ソがにらみ合う朝鮮半島で戦争が勃発。その2カ月後、日本は自衛隊の前身となる警察予備隊を発足させ、米軍の後方支援を務めた。

 その年11月、中国軍が北朝鮮側に参戦すると、米大統領トルーマンは「原爆の使用も考えている」との声明を発表。米ソの核戦争が現実味を帯び、日本が再び核の犠牲になる恐れがあった。

 このころ、戦時中に日本の原爆開発を指揮した仁科芳雄は肝臓がんを患い病床に伏していた。前年、日本人初のノーベル賞を受賞した門下生の物理学 者、湯川秀樹(43)とともに戦後日本で原子力の平和利用を思い描いていた。仁科の次男で、名古屋大名誉教授の浩二郎は「父は最期まで朝鮮戦争で原爆が使 用されるのを心配していた」と話す。「戦争なんて決してやるべきじゃない」と言い残し、51年1月、60歳の生涯を閉じた。戦前の原爆兵器から戦後は一転 して原子力の平和利用を目指した仁科は、その夢を果たすことなく、帰らぬ人となった。

 

 仁科の死と入れ替わるように、原子力の表舞台に登場したのが保守派の若手議員、中曽根康弘(32)だった。後に科学技術庁長官(現・文部科学 相)、首相を務める中曽根は51年1月、日米講和交渉で来日した米特使ジョン・ダレス(62)に「独立後の日本に原子力研究の自由を認めてほしい」との文 書を手渡している。

 電力業界でもこの年の5月、国営の「日本発送電」が分割・民営化され、九電力体制が整う。この清算金で2年後の53年、原発を推進する日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の前身、電力経済研究所を設立。戦後日本で、原子力の再開に向けた下地ができつつあった。

 経済研究所の初代常務理事を務めたのが橋本清之助。後に原産会議の事務局長を務めるなど政財界のパイプ役となり「原子力産業の育ての親」ともいわれる。戦前は、岡田啓介内閣で内相だった後藤文夫の秘書を務めていた。

 その橋本が71年に発行された業界史「日本の原子力15年のあゆみ」の中で、原発にまつわる興味深いエピソードを紹介している。

 時は48年のクリスマスイブ。A級戦犯として東京・巣鴨拘置所巣鴨プリズン)に収容されていた後藤が後に首相となる岸信介らとともに釈放され た。出迎えた橋本に、後藤は「アメリカでは原爆を使って電力に変える研究をしているらしい」と話した。拘置所でむさぼり読んだ英字新聞で得た知識だった が、橋本はこの時初めて原子力エネルギーの存在を知ったという。

 52年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は念願の独立を果たす。占領期に認められなかった原子力開発が解禁された。米ソ冷戦下、日本の原子力は科学者の手を離れ、政財界の思惑の中で動いていくことになる。

    ◇

 この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、鈴木龍司が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」は随時掲載します。

 

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