「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (3)被ばく教授、涙の演説 <東京新聞>

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【特集・連載】
日米同盟と原発

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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (3)被ばく教授、涙の演説
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000259.html
▼全文転載

 

1961年の退官記念講義で教壇に立つ三村教授=広島県竹原市の市歴史民俗資料館提供

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警戒する科学者

 日本学術会議の総会は1952(昭和27)年10月23日、東京都内で開催された。

 政治主導で原子力研究の再開を目指す自由党の衆院議員、前田正男(39)の提案に賛成したのは阪大教授の伏見康治(43)と学術会議副会長の茅(かや)誠司(53)だった。2人は政府内に原子力問題を検討する委員会の設置を共同提案し、総会の了承を求めた。

 後に学術会議会長を務め、参院議員にもなった伏見は戦前、阪大で原子核物理を専門とする若手研究者だった。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ) が研究室にあった原子核の実験装置「サイクロトロン」を破壊した現場にもいた。その時の心境を自叙伝「時代の証言」の中で「爆破をぼうぜんと眺めた。涙を 流した」とつづっている。

 伏見もエネルギー源として原子力の平和利用を夢見ていた。戦後、海外の論文を読みあさり、研究仲間からも助言を得て「日本にも原子炉はできる」と確信していた。茅は伏見の出身校、東大理学部の学部長だった。

 「工業発展に原子力発電は不可欠だ」。会場でそう説明する伏見に、丸坊主の男が発言を求め、激しく反論した。広島大教授の三村剛昂(よしたか)(54)だった。

 三村は広島原爆の被ばく者。爆心地からわずか1・8キロの自宅を出た瞬間、放射能と爆風を浴びた。崩壊した家屋のがれきに埋まり、2カ月ほど生死をさまよった。首筋にはまだ痛々しいやけどの痕が残っていた。

 「私は原爆をよく知っている。その死に方たるや実に残酷なもの」と三村。「発電、発電と盛んに言われるが、政治家の手に入ると、25万人がいっぺんに殺される」とまくし立てた。

 「米ソのテンション(緊張)が解けるまで、いな(否)世界中がこぞって平和的な目的に使う、こういうようなことがはっきり定まらぬうちは日本は やってはいかぬ。こう私は主張するのであります」「原爆の惨害を世界中に広げることが日本の武器。文明に乗り遅れるというが、乗り遅れてもいい」

 感情むき出しで訴える三村の目には光るものがあった。後に「涙の大演説」と語り継がれた。総会では三村に支持が集まり、原子力研究の再開を目指した阪大教授、伏見らは提案を撤回。結局、学術会議内に臨時の委員会を設け、議論を続けることになった。

 現在80歳の名古屋大名誉教授、沢田昭二は広島大大学院時代に三村の指導を仰いだ一人。恩師の心境を「普段は原爆の話はしなかったので、よほどの危うさを感じていたのだろう」と推し量る。

三村教授の演説を記録した日本学術会議の速記録。「米ソのテンションが解けるまで、日本はやってはいかぬ」などと書かれてある

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 原子力再開をめぐる学術会議の議論は振り出しに戻った。ただ、人類破滅につながる核兵器への抵抗は強かったが、科学者の多くは原子力そのものを否 定したわけではなかった。むしろ核の惨劇を知る唯一の被爆国、日本こそ率先して原子力の平和利用に取り組むべきだ、との意見が若手を中心に出ていた。

 物理学者の武谷三男(41)もそう。総会直後、雑誌「改造」への寄稿にこう書いた。

 「平和的な原子力の研究は日本人が最もこれを行う権利を持っている。ウラニウムについても諸外国は日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜をはかる義務がある」

 武谷は戦時中、陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」に参加したメンバー。75年に自らが代表を務める「原子力資料情報室」を設立するなどその後は反原発運動に身を投じたが、その武谷ですら当時は原子力の平和利用に理解を示していた。

 この「被爆国ゆえに」の論理は、皮肉にも原子力再開を許す世論の下地をつくる。

 核戦争の恐怖が現実味を増す米ソ冷戦下。軍事転用に歯止めをかける原子力の平和利用は敗戦を教訓に世界平和を目指す戦後日本の理念にもかなうものだった。

 アサヒグラフや映画「原爆の子」などで原爆の恐ろしさを再確認した日本人は「二度と繰り返すまい」との思いを募らせた。しかし、その思いが強ければ強いほど奇妙なことに平和利用への夢を膨らませていく。

 一方、学術会議は核兵器の危険性か、原子力の平和利用かでなお揺れ続けた。科学者らの態度が煮え切らないうちに、国際情勢は1年後、風雲急を告げる。震源地は海の向こう米国だった。

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