「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (1)忘れ去ることなり <東京新聞>

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【特集・連載】
日米同盟と原発

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/index.html
第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (1)忘れ去ることなり
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000257.html
▼全文転載

 1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は7年ぶりに独立を回復した。連合国軍総司令部(GHQ)の占領中に禁止さ れていた諸政策がようやく封印を解かれ、その中には原子力研究も含まれていた。戦後の焼け野原から立ち直り、後に世界が「エコノミック・ミラクル(経済的 な奇跡)」と驚く高度経済成長の入り口に立った当時。国際情勢に目を転じれば、米国とソ連の対立激化で核戦争の恐怖が現実味を増しつつあった。戦後復興と 米ソ冷戦を時代背景として、日本がどのようにして原子力再開への第一歩を踏み出したのかを探った。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)

映画「原爆の子」の一場面=近代映画協会提供

写真
 

原爆もはや歴史

 1952(昭和27)年4月28日、念願の独立を果たした日本。プレスコード(新聞規制)がなくなり、国内外のメディアは自由な報道が許された。7年間の占領中、タブーとされた広島、長崎の惨状が報道などを通じ、ようやく国民に広く知れ渡った。

 その年の8月6日。広島に米軍の原爆が投下されてまる7年の節目に合わせ、写真誌「アサヒグラフ」は「原爆被害の初公開」と題する特集号を発行し た。「特集するのは猟奇趣味の為ではない。冷厳な事実、すなわち歴史が、それを命ずるのである」。そう巻頭に記す雑誌は当時としては異例の70万部を売っ た。

 全26ページ。原爆投下直後の広島、長崎の被ばく者らの写真で埋め尽くした。顔が焼けただれ、あおむけに寝かされた人や手の皮が剥がれ、手当てを受ける少年…。

 目をそむけたくなるような生々しい27カット。編集部内でも発売の是非をめぐり、激論が交わされた。当時の副編集長が「ぐらふ記者」(59年発 刊)に寄せた回想文によると、文学座の劇作家としても活躍した編集長の飯沢匡(ただす)(43)=本名・伊沢紀(ただす)=のひと言で発売が決まった。

 「やりましょう。むごたらしさを余すところなく、世界の人に見せてやりましょう」

 写真を撮影したのは朝日新聞大阪本社の写真部員、宮武甫(はじめ)(38)ら数人のカメラマンだった。宮武は中部軍管区司令部の宣伝工作隊の同行カメラマンとして原爆投下の3日後に広島入りし、丸2日間、被ばく者にレンズを向けた。

 終戦後、爆心地に入った報道機関の多くはGHQの検閲で映像や写真を没収されたり、自主廃棄を余儀なくされた。ところが、宮武は家族にも内緒で7 年近くも大阪市の自宅にフィルムを保管していた。宮武の長男で現在71歳の賢(まさる)によると、その時の経緯を、退職後の76年8月の社内報にこう書い たという。

 「進駐軍から『原爆関係の写真を提出せよ』と命令があった。デスクからフィルムは一切焼却してくれと申し渡されたが、聞き流して自宅の縁の下に隠しおいたため、没収の難は免れた」

 賢は当時小学生。居間にあった雑誌をめくり「原爆の恐ろしさを初めて知った。父が撮ったと分かり、二度驚いた」。「父は報道カメラマンとして、戦争のむごさを世に伝える義務があると思ったのだろう」と話す。

 アサヒグラフの発行と同じ日、今年5月に100歳で死去した新藤兼人(40)の映画「原爆の子」も封切られた。反核をテーマにした作品は公開直後から反響を呼び、どの映画館も長蛇の列をつくった。

 アサヒグラフ、原爆の子…。これまで知らされなかった原爆の事実に国民は衝撃を受け、関心を高めた。が、当時の日本は朝鮮特需に沸き、急ピッチで 進む戦後復興のまっただ中。焼け野原やバラックがビル群へ変わるなど敗戦は目に見えて遠のき、7年ぶりにクローズアップされた原爆も過去の悲劇として記憶 に刻まれた。

 現在81歳の新原(にいはら)昭治は当時、九州大生だった。アサヒグラフを読んで原爆問題に関心を持ち、卒業後は長崎放送で関連番組を制作。今は原水爆禁止日本協議会の専門委員を務めるが、新原のように関心を持った若者はまれだった。

 「友人と話しても『あ~、こんなことがあったのか』という感じだった。若者の間では原爆はもう歴史になっていた」と証言する。

 原爆の惨状が広く世に知られた52年は日本の実質経済成長率が11・7%と、3年連続で二桁成長を記録。この年、ラジオは1000万世帯以上に普 及し、翌53年2月にはNHKがテレビの本放送を開始する。庶民は「豊かさ」を実感し、よりよい暮らしを求める「未来志向」の中で誰もが一生懸命働いた。

 ラジオドラマ「君の名は」が放送を開始したのもこのころ。「放送が始まると、銭湯の女湯が空になる」とのエピソードも残るこの国民的な番組の冒頭ナレーションは当時の日本人の心境と重なるようにこう語った。

 「忘却とは忘れ去ることなり」

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