「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (5)木っ端役人は黙っとれ<東京新聞>

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日米同盟と原発

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第5回「毒をもって毒を制す」 (5)木っ端役人は黙っとれ
2013年1月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000231.html
▼全文転載

1957年9月、茨城県東海村で開かれた日本初の研究用原子炉の完成式典。壇上で運転開始のスイッチを押すのは正力氏

写真

 

 

 

◆英国産で決着

 

 一九五六(昭和三十一)年一月五日。正力は地元・富山に向かう車中で記者団に、米国からの原子炉輸入を念頭に「五年以内に原子力発電を実現する」と発言し、世間を驚かせた。

 

 原子力委員長を務める正力の意向は、その前日に開かれた原子力委の初会合でも示されていた。が、「時期尚早」との慎重意見が出て、さらに協議する と決めたばかりだった。それを一晩でひっくり返す発言は、他の委員にとって“寝耳に水”。とりわけ原子炉の自主開発を主張していた科学者たちは一斉に抗議 の声を上げた。

 

 委員の一人で、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(48)は「そんな話は聞いていない。自主開発の精神を冒涜(ぼうとく)する」と反発。湯川はその一年余り後の五七年三月、病気を理由に原子力委を去る。正力への不信感も遠因とされている。

 

 そのワンマンぶりを警戒するのは米国も同じだった。このころのCIA文書は「(米国に原子炉提供を求める)彼の申し出を受けることは、必然的に日 本に原子爆弾を保有させることになる」。米国の思惑を超える正力のスピードに、別の意図が隠されているのではないか、と疑った。

 

 正力の「五年以内」発言からほぼ一週間後の五六年一月十三日。鳩山一郎内閣は日本初の研究用原子炉を米国から輸入することを閣議決定した。茨城県東海村日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に建設され、翌年の五七年九月に完成する。

 

 ただ、研究用原子炉の提供は二カ月前に締結した日米原子力協定に基づき事前に約束していたもの。出力もわずか五十キロワットしかなかった。正力が望んだ大出力で電気を生み出す発電用原子炉の提供について、米国は慎重姿勢を崩さなかった。

 

 米国の姿勢に業を煮やした正力は同じ西側陣営の英国からの輸入を検討する。英国は五六年五月、国産初の発電用原子炉、コールダーホール原発の運転に成功し、国を挙げて海外への売り込みを図っていた。

 

 ただ、コールダーホールは高いコストがネック。正力に仕えた若手官僚グループは「日本と英国では事情が違う。採算はとれません」と忠告した。その一人、伊原義徳によると、正力はこの時「木っ端役人は黙っとれ」と怒鳴ったという。

 

 米国は、正力の“米国離れ”に慌てた。在日米大使館が五六年七月五日付で米国務省に送った文書には「行動派の正力は、研究の努力をするという辛抱ができない。計画を急ぐ余り、高コストの英国炉を導入するという過ちを犯そうとしている」と書いてあった。

 

 さらに当時、日ソ国交回復交渉を進めていた鳩山政権の下で、日本がソ連から原発を導入するのではないかという疑心暗鬼も。五六年九月十二日付のCIA文書には諜報(ちょうほう)員とワシントンにある本部とのやりとりが残されている。

 

 諜報員「ソ連が日本に原子力技術の支援を申し出る危険性をどう考えているか。もしそうなったら、どう反応すればいいか」

 

 本部「ソ連が日本に支援を打診する可能性はかなり高い。日本は決断する前に米政府と話し合うべきだ」

 

 結局、原子力委は五六年十月、英国へ調査団を派遣する。団長は委員長代理で元経団連会長の石川一郎(70)。「まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と主張していた、あの物理学者、嵯峨根遼吉(50)も同行していた。

 

 その一カ月後、調査団の報告を受けた委員長の正力は「コールダーホール原発は輸入に適している」と表明する。自主開発か、海外技術の導入かで揺れた原子力開発はようやく決着。日本初の原発建設が事実上決まった。

 

 「五年以内に原子力発電を実現する」と豪語してからわずか一年足らず。正力ならではの力業だった。

 

 英国から技術導入する東海村の東海原発はそれから十年後の六六年に稼働、原子力の灯(あか)りをともす。その道筋をつけた正力は三年後の六九年、 八十四歳の生涯を閉じた。議員秘書だった萩山は「晩年は原子力熱がすっかり冷めていた。のめり込むとそれ一色になるが、一区切りつくと他のことに目がいく 人だったから」と話す。

 

 日本の政界は鳩山退任後、短命の石橋湛山(72)をはさんで、五七年二月に岸信介(60)が首相に就任する。今の首相安倍晋三の祖父。親米で、再 軍備論者だった岸の登場は原発建設に踏み出した日本で、もう一つの「核」、すなわち核兵器配備の議論を浮上させるきっかけとなる。

 

 <正力松太郎(しょうりき・まつたろう)> 富山県大門町(現・射水市)に土建業者の次男として生まれる。東京帝大を卒業後、旧内務省の警察官僚 となり、警視庁の神楽坂署長や警務部長を歴任。米騒動の鎮圧や政界工作に努めたが、皇太子時代の昭和天皇が狙撃された虎ノ門事件の引責で退職した。

 1924(大正13)年、元内務相の後藤新平から融資を受け読売新聞社を買収。プロ野球、読売巨人軍の前身「大日本東京野球倶楽部(くらぶ)」を 設立した。戦時中は貴族院議員も務めたが、大政翼賛会入りしていたため、終戦直後にA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入所。47(昭和22)年に釈放さ れ、経営に復帰し、53年に民間初の日本テレビ放送網を開局した。

 55年2月の総選挙で初当選し、69年に亡くなるまで連続5回当選。この間、鳩山、岸の両内閣で原子力担当国務相や科学技術庁(現・文部科学省)長官を務めた。

 

      ◇

 この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、レイアウトは整理部の渡辺武が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」第6回は2月下旬に掲載予定です。

 

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