「北の山・じろう」時事問題などの日記

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証言/宮城・南三陸消防団/指令途絶 それでも前へ{証言/焦点 3.11 大震災「河北新報」

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事から全文転載
※記事数が多いため、一部転載し、ほかは記事タイトルとURLの掲載です。


河北新報
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証言/宮城・南三陸消防団/指令途絶 それでも前へ
2011年06月26日日曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110626_01.htm
▼全文転載


大震災翌朝の宮城県南三陸町。がれきや水たまりで道路の位置すら分からない市街地へ、入谷地区の消防団員は向かった=3月12日午前5時50分
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震災翌日の午前中に国道398号のがれきが寄せられ、避難や支援物資の運搬ができるようになった=3月12日午前11時30分ごろ、宮城県南三陸町志津川
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大津波は町役場はおろか、警察署、消防署をものみ込んだ。災害対策の指令機能を完全に喪失した宮城県南三陸町。大地震の翌日、いち早く生存者の救出に向 かったのは、町山間部の入谷地区の消防団だった。余震と津波の恐怖と闘いながら、公立志津川病院で孤立した約120人を避難させた。(門田一徳)

◎「われわれが、やらなければならない」

<内心>
 3月12日午前7時、入谷地区の集会所に70人の男が集結した。厚手のジャンパーに安全靴、手にはとび口とスコップ。辺りはうっすらと雪が積もり、吐く息は白かった。
 「生存者の捜索と避難経路の確保に当たる。われわれ入谷の人間が、やらなければならない」
 南三陸消防団長で入谷に住む菅原一朗さん(66)は団員に気合を入れたが、内心は逆だった。
 前日の大地震直後、菅原さんは町防災対策庁舎に駆け付けた。2階の災害対策本部には、佐藤仁町長ら町幹部が15人ほど集まっていた。
 「団長さん、車を流されっかもしれないから、消防署まで持って行ったほうがいい」。消防職員に言われ、山手の消防署に向かった数分後、津波が街を襲った。車を捨て、道路脇の山を駆け上がり助かった。
 「町長もみんなも駄目だと思った。南三陸町は指令機能を全部失ったと思った」

<崩落>
 12日午前7時半、団員は国道398号の津波の最終到達点に移動した。がれきは海岸から3キロ近くの内陸まで押し寄せ、国道が走る谷間を埋めていた。
 南三陸町の市街地につながる幹線は国道398号と国道45号の2路線。45号は南北とも橋が崩落し、398号だけが「生命線」になった。
 がれきは高さ3メートル、市街地に向けて100メートルほど続いた。地元の建設会社「沼正工務店」は午前5時から重機でがれきを取り除き、人が通れるほどの道ができていた。
 「(志津川)病院にたくさんの人がいる。一緒に行って通路を造ってほしい」。消防団が工務店に頼み、重機で電線や電柱を払いのけながら国道398号を下り始めた。

<困惑>
 街並みを見渡せる気仙沼線の陸橋に差し掛かったとき、消防団員の佐藤伸さん(32)は奇妙な感覚に襲われた。「街がなくなっていた。自分がどこにいるのか分からなくなった」
 団員は陸橋で志津川病院、志津川中、志津川高の3手に分かれ、孤立した避難者の救助に向かった。佐藤さんら6人は志津川病院を目指した。
 骨組みだけになった町防災庁舎を過ぎたときだった。
 「上がれーっ」「戻れーっ」。高い場所にいる警戒役の消防団員が、叫んでいる。
 佐藤さんがそばを流れる八幡川に目を向けると、川底が見えるほど水が引いていた。

◎病院孤立「行くぞ」即断/がれき、恐怖 押しのけ

 宮城県南三陸町で、津波被害を免れた入谷地区の消防団員70人は3月12日朝、生存者の確認と救助に向かった。ラジオは「公立志津川病院に200人が孤立」と伝えていた。

<迷い>
 志津川病院を目指した消防団の6人は、「津波が来る」との仲間の避難警告に動揺した。
 町指定の避難場所でもある5階建ての志津川病院までは海側に200メートルの距離。後ろの気仙沼線の陸橋までは500メートル。
 「進むか。戻るか」
 消防団の佐藤伸さん(32)の弟の妻は、志津川病院の看護師。地震以降、連絡は取れていない。どうしても無事を確認したかった。「屋上に人の姿も見えた。怖かったが、助けに行きたいと思った」
 6人の中で最年長の阿部博之さん(53)の決断は速かった。「ただでは帰れない。行くぞ」。阿部さんの号令とともに、6人は病院へ急いだ。がれきや陥没を避けてたどり着いた裏手の階段には、大きな水たまりができていた。

<悲鳴>
 病院の建物に遮られ海は全く見えない。「早く、早く」。屋上から悲鳴にも似た声が響く。
 津波は八幡川の水位を変える程度で、再び陸を浸すことはなかった。6人はそばにある柱やはりを階段のたもとに渡すと、屋上まで一気に階段を上がった。午前10時ごろだった。
 「230人が(孤立して)います」。5階会議室で病院職員から説明を受けた。佐藤さんの弟の妻は涙を浮かべて6人を迎えた。
 胃がん治療で入院していた松野三枝子さん(57)=南三陸町入谷=は、旧知の阿部さんに駆け寄った。「ひろ、歩いてきたの?」「歩いてきた」。
 松野さんは会議室で一夜を明かした。看護師が貸してくれたストッキングをはき、手ぬぐい2枚と病室のカーテンを体に巻いて寒さに耐えた。夜は全員で柿の種1粒と氷1片ずつを分け合った。
 「まさか(自衛隊より早く)陸から助けに来てくれるとは思わなかった。これで家に帰れると思った」と、松野さんは振り返った。

<誘導>
 6人はすぐ、避難経路の確保に動いた。1人が屋上で潮位を監視し、5人は階段のがれきを片付け、陸橋までの安全な避難経路をつくった。
 正午すぎ、ようやく八幡川の水位が落ち着いた。「今しかない」。団員の誘導に従い、避難者ら120人が続いた。病院を後にして間もなく、自衛隊のヘリが屋上に着陸し、患者搬送を始めた。
 誘導の途中、阿部さんはがれきの中で男の子の遺体を見つけた。靴のかかとにはフェルトペンで名前が記されていた。「連れて行ってあげたかったが、どうすることもできなかった」。小さな体に毛布を掛け、手を合わせた。
 志津川病院の120人はじめ、多くの人たちを避難させた入谷地区の消防団。山間部という土地柄、毎年の津波訓練は消火作業やけが人の救護で、避難誘導は素人同然だった。
 阿部さんは言う。「団員の安全を考えると、無謀だったかもしれない。だが、あの日、孤立した人たちを助けに行けるのは、俺たちしかいなかった」

◎地元重機「命の幹線」確保

  宮城県南三陸町の市街地に向かう唯一の幹線となった国道398号では、地震発生2時間後には、がれきの除去が始まった。地元の建設会社「沼正工務店」の作 業員大山正昭さん(46)が、津波被害を免れた重機をいち早く持ち込んだ。翌朝には、幅1.5メートルの通路が確保され、支援物資の運搬や被災者の避難が 始まった。
 地震発生時、大山さんは町内の護岸工事現場にいた。防災無線大津波警報を聞き、母親(75)を避難させようと急いで自宅に向かった。橋から見下ろした八幡川は、干潮時のように水が引いていた。「必ず津波が来る」と確信した。
 母親を車に乗せ、山手の国道398号沿いの事務所に移動した。さらに裏山に避難した後、街を見ようと振り返った。「えっ?」。消防署に隣接する3階建ての合同庁舎は水没し、がれきが山際まで押し寄せていた。
 その時、大山さんの頭をよぎったのは、テレビなどで見た阪神大震災の震災直後の光景だった。被災地では、がれきに道をふさがれ、救援物資の届かない状況が続いた。
 「(高台の)資材置き場に止めていた重機が使える」。大山さんは山道を1時間かけて歩き、資材置き場にたどり着いた。
 がれきの除去は午後5時ごろに始まった。国道には3メートルほどの高さのがれきが100メートルにわたり流れ着いていた。漁船、車、倉庫…。ありえないものが流されていた。
 てこずったのは電線の除去。「ショベルだと線が切れない。コンクリートなどで重しをして、通行の邪魔にならないようにした」と苦労を語った。初日は午後8時まで、重機のライトを頼りに作業を続けた。
 12日は午前5時から除去を始めた。作業に加わった社長の沼倉正也さん(47)は「疲れは感じなかった。とにかく道路を確保しなければならないと思った」と振り返った。
 国道398号上の100メートルのがれきの撤去を終えたのは午前7時ごろ。大山さんたちはその30分後、入谷地区の消防団と市街地に向かった。

証言/焦点 3.11 大震災{河北新報・連載記事}
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