「北の山・じろう」時事問題などの日記

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証言/市役所屋上、命のとりで/陸前高田・避難所で多数の犠牲者<証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」から全文転載
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/index.htm
※記事数が多いため、一部転載し、ほかは記事タイトルとURLの掲載です。


河北新報
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証言/市役所屋上、命のとりで/陸前高田・避難所で多数の犠牲者
2011年11月23日水曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20111123_01.htm
▼全文転載


震災から8カ月以上たって大量のがれきも一部片付き、被災した建物だけが残された陸前高田市役所=22日
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20111123010jd.jpg

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陸前高田市役所屋上から、さらに上部へ避難しようとする市役所職員ら=3月11日午後3時35分ごろ(佐々木さん提供)
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20111123011jd.jpg



 東日本大震災陸前高田市の市街地に押し寄せた津波は高さ13メートルを超え、全域をのみこんだ。市の指定避難所に避難しながら、犠牲になった人も少な くない。市役所に避難した市職員や市民は、3階、一部4階建ての屋上にまで津波が到達する極限の状態に追い込まれた。(坂井直人、山口達也)

<浸水>
 「自分は生かされた。だからこそ復興を成し遂げないといけないと思う」
 陸前高田市で19日あった市職員の慰霊祭。参列した企画政策課秘書係長の村上知幸さん(41)は静かに手を合わせ、心に強く誓った。
 3月11日、津波は全職員の3分の1近い113人の命を奪った。
 村上さんは地震直後、市役所前の駐車場に出た。近くの福祉交流施設の外にいた高齢者を避難させるため、同僚3人と向かった。座り込んでいた女性を抱えて庁舎に戻った午後3時27分ごろ、市役所1階が浸水した。
 津波に追い上げられるように、夢中で屋上まで階段を駆け上った。同僚2人の姿はなかった。

<濁流>
 「ゴー、ゴー」。黒い濁流が激しくぶつかる。水かさが増す中、屋上には市職員や市民ら計124人が避難していた。
 「もっと上に!」。職員らは助け合って垂直のはしごを上り、さらに高い受水タンクや4階部分に移った。「最後のとりで」だった。
 水没する市街地。巨大な渦。ボンベがガス漏れの音を立て、火の付いたがれきと漂う。「さらに高い波が来たら」「爆発したら」。募る緊張と不安。市嘱託職員の臼井佳香さん(32)は「生きた心地がしなかった」と振り返る。
 財政課主任主事の黒沢裕昭さん(34)は屋上で、津波が街を襲う光景を見た。
 津波は1.5キロ先の高田松原の松林をのみ込んだ。さらに国道45号の車両を襲い、家々を壊しながら迫る。
 「津波が来てるぞ。逃げろ」。黒沢さんは眼下に向かい叫び続けた。「迫る波に比べ避難のスピードが遅く、『間に合うか』と焦った」

<隙間>
 市役所向かいの市民会館。市の指定避難所で、市民ら70~80人が避難したが、助かったのは十数人だけだったという。
 市職員組合書記の宮本幸代さん(49)は、避難した最上階の3階会議室で津波に襲われ、十数メートル先の会館内の倉庫に流された。館内は丸ごと浸水したが、天井との隙間で呼吸ができ救われた。
 「最初に避難した公園で、市民会館という声が耳に残った。一緒にいた仲間は亡くなった。なぜ私だけが…」。宮本さんは声を詰まらせる。
 午後6時半ごろ、水がある程度引いた。市役所屋上にいた人たちは、4階部分に集まった。雪が降る中、ストーブやろうそくで耐え忍んだ。声はなく、波の音だけが建物に響いた。
 翌早朝、屋上に避難していた戸羽太市長(46)をはじめ一部職員が先発隊となり、自衛隊らが集結し救助の拠点となっていた市学校給食センターに向かった。
 がれきで埋め尽くされ、道路も分からない街を泥だらけで歩いた。普段なら約20分の距離を約1時間かけてたどり着き、ようやく市災害対策本部が設置された。
 それから8カ月。職員はプレハブ庁舎で、失われた同僚を思い、復興に向け力を尽くしている。


◎後世へ津波の恐怖記録/逃げながら必死の撮影/陸前高田市役所屋上に124人 

 東日本大震災の津波に市街地のほぼ全域がのみ込まれた陸前高田市で、市役所屋上に避難した市職員や市民計124人も、迫り来る津波に生命の危機にさらされた。そのような状況下、1人の男性が市役所屋上に逃げながらも、津波の様子を映像に収めていた。
 市役所と目と鼻の先にある印刷会社「高田活版」。家業を手伝う佐々木高志さん(35)は3月11日午後2時46分、事務所で激しい揺れに襲われた。避難先となる市役所に向かう際、手にしていたのはデジタルカメラとスマートフォン(多機能携帯電話)だった。
 これまで地元の祭りを動画中継サイト「ユーストリーム」に投稿しており、今回も震災を記録しておこうと思ったからだ。
 「その時は、市役所まで津波が来るとは思わなかった」と佐々木さんは振り返る。防災無線が市民に避難を呼び掛ける声が聞こえる中、スマートフォンからユーストリームにつなぎ、市役所前から中継を始めた。
 午後3時10分ごろ。「今、陸前高田市役所です。何とか無事ですが、器物損壊の被害が出ています」。通信事情が悪化したためか、中継はわずか2分3秒で途切れた。市役所から叫び声が聞こえた。「津波が来ている。高台に逃げろ」
 3階建ての市役所屋上へ駆け上がろうとした佐々木さんは、途中の2階で窓ガラス越しにデジタルカメラのシャッターを切った。午後3時26分。目前に津波が見えた。屋上にたどり着いた直後、津波が市役所を揺らした。今度は屋上から市内の様子を写真撮影した。
 津波に覆われた市街地や、大量に流されるがれき、屋上にも水が上がってきたため庁舎の一部4階部分に移動する人たち。陸の孤島状態に置かれた様子を計3分53秒、動画で撮影した。
 「自分の安全を考えれば、無理をし過ぎたかもしれない」。佐々木さんは苦笑いする。しかし、被災前後の陸前高田の状況を収めた動画はインターネットのサイトに転載されて大きな反響を呼び、世界に津波の恐ろしさを伝えた。
 津波の検証にも役立った。静岡大の防災研究チームは佐々木さんから映像の提供を受け、津波が到達した正確な時刻や、市内で防災無線が機能していたことなどを実証した。
 ネット環境が充実した中で起きた今回の震災では、市民の手による津波の被災状況を記録した動画や画像が多く残された。一翼を担った佐々木さんは「津波の恐ろしさを後世に伝えるために、記録を残そうと必死だった」と話した。

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