「北の山・じろう」時事問題などの日記

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この国と原発:第2部・司法の限界/5 国内初の本格訴訟<毎日新聞>

毎日新聞
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この国と原発:第2部・司法の限界/5 国内初の本格訴訟
毎日新聞 2011年09月21日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20110921ddm002040021000c.html
▼全文転載

(1)
 ◇「後世のため資料を」

 「ばかにするな」という憤り。「やっぱりな」という諦め。00年12月、松山地裁伊方原発2号機訴訟 の原告、近藤誠さん(64)=愛媛県八幡浜市=は、全面敗訴の判決をそんな思いで聞いた。判決は新たに分かった活断層の存在を理由に「当初の安全審査は結 果的に誤り」としつつも、「重大事故が起きる可能性が高いとは言えない」と請求を退けた。弁護士を付けず、33人の住民のみで提訴してから22年半。原告 は21人に減っていた。

 近藤さんらが「手本」にした訴訟がある。73年8月、住民35人が伊方原発1号機の設置許可取り消しを求め、松山地裁に起こした国内初の本格的な原発訴訟だ。
伊方原発1号機訴訟の証人尋問調書。当時は手書きだった(埼玉大共生社会教育研究センター・立教大共生社会研究センター所蔵)=東京都豊島区で7月12日、和田武士撮影
伊方原発1号機訴訟の証人尋問調書。当時は手書きだった(埼玉大共生社会教育研究センター・立教大共生社会研究センター所蔵)=東京都豊島区で7月12日、和田武士撮影

 60年代後半。伊方町での原発建設計画が表面化し、住民らはビラまきやデモなどの抗議行動を展開した。逮捕者や 土地契約を巡る自殺者まで出た。そんな中、国は72年11月に1号機の設置を許可。「実力行使の限界」を感じた住民たちは、反原発運動の理論的支柱として 活動していた核化学者、久米三四郎・大阪大講師(故人)に相談を持ちかけ、複数の冤罪(えんざい)事件に関わった大阪弁護士会の藤田一良弁護士(82)を 紹介された。

 住民と藤田弁護士らの共闘で始まった訴訟。当時、原発の安全審査はブラックボックスと言えた。「訴訟で国から資料を引き出せば、後々につながると考えた」。藤田弁護士は前例がなかった国との闘争の意義を語る。

(2)

 準備書面や証人尋問調書など膨大な裁判資料は現在、立教大共生社会研究センター(東京都豊島区)で閲覧できる。

 科学や法律の知識に乏しい住民たちには、未知の裁判で展開された双方の主張が、どこか地に足のつかない ものに見えた。原告の漁業、谷本功さん(66)=八幡浜市=は「実際に事故が起きておらず、(危険性を)証明するものがなかった」と振り返る。論争は、事 故が「起きる」「起きない」の水掛け論のようにも映った。

 1号機訴訟は92年10月、最高裁で住民側敗訴が確定。「審査に重大な誤りがあった場合は設置許可を違 法とできる」との初判断が示された。「裁判所は原発の安全性ではなく、審査手続きの合理性のみを審理する」という趣旨だった。藤田弁護士は「司法とは何な のか、つくづく考えた」と振り返る。

 2号機訴訟の1審敗訴後、近藤さんらは控訴を見送った。1号機訴訟を見て、法廷は国と理論的に対決でき る場だとは感じたが、裁判所に住民側の訴えを理解しようという姿勢が感じられなかった。「裁判外の運動で原発を止める」。そう決意した。今も原発反対派市 民団体の事務局として活動を続けている。

 控訴断念から10年余り。危惧していた原発事故が起きた。「間に合わなかった」。危険性を訴え続けてきた近藤さんは唇をかんだ。=つづく

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 ■ことば
 四国電力伊方原発愛媛県伊方町

(3)
 77〜94年、加圧水型軽水炉の1〜3号機の運転を開始。国内では唯一、内海に面した原発でもある。1、3号機は現在、定期検査のため運転を停止している。

(毎日新聞・連載特集)
この国と原発 アーカイブ(2011年)
http://mainichi.jp/feature/20110311/konokunitogenpatsu/archive/news/2011/index.html
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