「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

東京大空襲  昭和20年3月10日未明

東京大空襲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
東京大空襲・戦災資料センター
http://www.tokyo-sensai.net/
写真ライフ / Life Photo: 東京大空襲を未発表の写真で再現
http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/2012/01/post_93ff.html
東京大空襲」史上最大の虐殺 - 東京写真紀行
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
東京大空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm



NHK NEWS WEB
東京大空襲から68年 慰霊法要
2013年(平成25年)3月10日 11時47分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130310/k10013087901000.html

一晩でおよそ10万人が犠牲となった東京大空襲から68年になる10日、東京・墨田区では慰霊の法要が営まれ、多くの遺族が先祖の霊を弔いました。

昭和20年3月10日未明の東京大空襲では、アメリカ軍の爆撃機・B29によって東京の下町におよそ32万発の焼い弾が無差別に落とされ、およそ10万人が犠牲になりました。
空襲から68年となる10日、犠牲者を弔う墨田区東京都慰霊堂には、遺族らおよそ300人が集まって慰霊の法要が営まれました。
法要では、秋篠宮ご夫妻や東京都の猪瀬知事、それに遺族らが焼香を行って犠牲になった人の霊を弔いました。
遺体の多くは身元が分からず、ほとんどの遺族は遺骨を引き取ることができませんでしたが、10日は遺骨をまとめて納めている納骨堂の扉も開かれ、遺族はじっと手を合わせていました。
空 襲で一緒に逃げた母と弟、妹の3人を亡くした82歳の女性は、「街はものすごい火の海で、逃れようとした用水路では100人くらいが亡くなっていました。 東日本大震災の被災地の様子は当時の光景と重なり、私にとって3月10日は何年たっても忘れられません」と話していました。
また、祖母を亡くした59歳の女性は、「空襲は直接知りませんが、当時の惨状を想像すると涙が出てきます。生きているものの務めとして、毎年欠かさずにお参りしています」と話していました。


東京新聞 TOKYO WEB
「戦争 むなしく悲惨」 東京大空襲 体験者が語る「あの日」
2013年3月10日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20130310/CK2013031002000120.html

 約十万人が亡くなった一九四五年三月十日の東京大空襲から六十八年。焼け野原だった下町がビル街に変わっても、炎の記憶や亡き肉親への思いは色あせない。高齢になった体験者を訪ね、「あの日」のことを聞いた。

 「真っ赤な炎が、ゴーゴーと川になって流れていたんです。高さは、あの歩道橋の倍くらい。消防車やトラックが飛ぶように転がっていきました」

 大空襲の夜、都職員だった林喜代子さん(92)=葛飾区=は妹たちと亀戸駅付近のガード下に逃げていた。「酸欠なのか、おぼれたみたいに鼻で息を吸っても入っていかなくて」

 線路の土手へ逃れ、斜面に小さな穴を掘って顔を埋めて耐えた。警防団の声で気が付くと、火の粉を払っていた手にやけどを負っていた。真っ黒な骨だけの焼死体がいくつも、両手を空に向けて倒れていた。「戦争は悲惨なものだって、つくづく思いました」

 立川飛行場の対空射撃部隊にいた関口力弥さん(83)=江戸川区=は、東京方面の真っ赤な空に流れ星を見た。後日、城東区(現江東区)で母と弟が 亡くなったと知った。「おふくろたちがサヨナラを言いに来たんじゃないかと思いました」。飛行兵にあこがれたが、家族の死で戦争のむなしさに気付いた。今 は周辺国との関係が心配だ。「日本も中国も北朝鮮も、戦争を忘れた世代になったのか」

 十日の都慰霊堂法要に通っていたが、五年ほど前から歩くのが困難に。今年は自宅で冥福を祈る。 (橋本誠)


北海道新聞
卓上四季
空襲の記憶
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/

高熱で溶けてくっついた瓦と皿の塊が、悲劇を雄弁に物語る。1945年3月10日未明、東京の下町一帯はB29による無差別爆撃で火炎地獄と化した▼焼け 焦げた子供の服、焼夷弾(しょういだん)の残骸―。東京大空襲・戦災資料センター(江東区)にはこうした「空襲の記憶」が数多く展示されている。炎の中を 逃げまどった被災者の苦しさが伝わり、見学するうちに思わず息が詰まりそうになる▼その一角で、ドイツ・ドレスデン市の空襲を伝える街づくりがパネルで紹 介されている。東京より約1カ月前、英空軍による空襲で壊滅した同市は、中心部の再開発にあたり空襲の痕跡をあえて残すようにした▼対象地区の中心に位置 する聖母教会の復元には、当時の外壁が再利用された。塔屋の鐘は空襲に参加した英軍爆撃手の息子が鋳造した。建物は、敵国との和解を象徴する存在となって いる▼同センターの主任研究員、山本唯人さん(40)は昨年2月、現地を訪れた。「戦争の加害責任と向き合い、和解に努めてきたドイツの歩みと、市民の意 識の高さに衝撃を受けました」と語る▼実は都も、戦禍を後世に伝える平和祈念館の計画を持っていた。しかし財政難などを理由に凍結され、市民の募金ででき たのが同センターだ。同じ敗戦国にしてこの落差。ちなみに平和祈念館を凍結した時の知事は、国会に戻り「暴走老人」を自称している。2013・3・10


MSN産経ニュース
「惨禍繰り返させない」 東京大空襲、慰霊の法要
2013.3.10 14:40
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130310/trd13031014420003-n1.htm

 約10万人が亡くなったとされる太平洋戦争末期の東京大空襲から68年の10日、犠牲者の遺骨を安置している東京都慰霊堂墨田区)で法要が営まれ、遺族らが冥福を祈った。

 追悼の辞では、東京都の猪瀬直樹知事が「戦争の惨禍を繰り返させず、都民が安心して暮らせる首都を創造することをあらためて誓う」と述べた。秋篠宮ご夫妻も出席し、焼香された。

 空襲で父を亡くしたという埼玉県三芳町の主婦佐藤英子さん(69)は「父は立派な人だったと聞いている。毎年参列するが、戦争のむごさを考えさせられる」と話した。

 東京都によると、慰霊堂近くの祈念碑に納められた空襲の犠牲者名簿に6日、昨年1年間に新たに判明した215人の氏名が書き加えられ、犠牲者名簿の人数は7万9941人になった。

 慰霊堂には関東大震災の被災者の遺骨も安置されており、毎年春と秋に法要が営まれている。

 東京大空襲があったのは、1945年3月10日未明。300機を超える米爆撃機B29が焼夷弾(しょういだん)を投下し、下町を中心に大きな被害が出た。