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原発事故関連死(7)突然見舞った不幸 車椅子で通院の日々<福島民報(連載記事)>

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原発事故関連死(7)突然見舞った不幸 車椅子で通院の日々
2012/12/05 17:09
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/12/post_5693.html
▼全文転載

常盛さんが20年通い、最期の場所となった南相馬市立総合病院
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/images/07GenpatsuKanrenshi.jpg

 南相馬市鹿島区の仮設住宅で80歳の生涯を終えた藤田常盛さんは、浪江町請戸に大工の次男として生まれた。高等小学校卒業後、宮城県塩釜市で船大 工をしていた叔父に弟子入り。いわき市小名浜での下積み時代を経て、昭和25年ごろ東京都の造船会社に入社し、漁船やタンカーを手掛ける船大工職人として 一人立ちした。
 昭和32年、当時20歳だった南相馬市小高区のキミ子さん(75)は常盛さんと見合い結婚した。東京で単身生活の夫は盆と正月以外、小高には帰らなかっ たが間もなく2女を授かった。「無口でまじめで、家族を大事にしてくれる人だった」。キミ子さんと娘たちは、仕事に誠実に向き合う常盛さんを誇りに思って いた。たまの上京は、家族にとって互いの気持ちを確かめ合う貴重な時間だった。
 昭和45年ごろ、常盛さんは東京の造船会社を退社し、小高に戻った。家財道具を詰めた木製のみかん箱を両手に抱えて帰ってきた時の笑顔をキミ子さんは覚えている。
 常盛さんは大工の腕を生かし、小高で「藤田建築」を立ち上げ、住宅の建築などに腕を振るった。相馬野馬追では小高郷騎馬会の騎馬武者として参加し、古里での暮らしを満喫した。厳しくも優しい父を娘たちは慕っていた。
 しかし、そんな日常が一変する出来事が家族を襲う。50歳ごろ、仕事の疲れなどから胃潰瘍を患った常盛さんは、地元の病院で点滴を受けた。不慣れな看護 師が点滴の処置を誤ったため、静脈に血栓ができ、左足全体にうっ血が生じた。常盛さんは車椅子での生活を余儀なくされ、仕事ができなくなった。
 キミ子さんはいい医者がいるという話を聞いては常盛さんを車に乗せて各地に車を走らせた。常盛さんは血がたまった足の一部が壊死(えし)し、皮膚の移植 手術を仙台市の病院で受けた。痛みを和らげる注射などの治療のため、片道2時間かかる仙台市への通院が10年以上続いた。
 平成4年ごろ、原町市立病院(現南相馬市立総合病院)で信頼する医師に出会い、通院負担は減った。呼吸器系の疾病を併発し、酸素ボンベが手放せなくなったものの、夫婦一緒の生活は落ち着いていた。それを襲ったのが3・11だった。

(2012/12/05 17:09カテゴリー:原発事故関連死)
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