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中日新聞『日米同盟と原発』が明らかにした「日本の原子力開発史」と「再稼働推進論」の背後にあるもの<現代ビジネス>

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中日新聞『日米同盟と原発』が明らかにした「日本の原子力開発史」と「再稼働推進論」の背後にあるもの
 2014年02月08日(土) 井上 久男「ニュースの深層
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▼全文転載

 

『日米同盟と原発』(東 京新聞)という本が昨年11月末に発行された。中日新聞社会部が中心となって2012年8月から新聞2ページ分を10回連載したものに加筆した著書であ る。その内容が興味深い。戦後の日米関係と絡めながら日本の原子力発電の開発の歴史が時系列的に平易な言葉で分かりやすく書かれており、それを通じて一気 に昭和史が頭の中に入ってくる。

中日新聞社会部取材班キャップの寺本政司氏(筆者撮影)

内容だけでなく、取材手法も、ジャーナリズムに携わる者にとって大変興味深い。すべてニュースソースを明かした実名報道であり、100人以上に取材 している。故人の取材については家族や元秘書に直接会って証言を聞き取り、日記にも丹念に当たって、当時の状況を克明に描き出した。

また、国会議事録やワシントン公文書館、米大統領図書館などの資料も緻密に調べあげている。記者が足で稼いでいる姿が浮かんでくる。社会部取材班 キャップの寺本政司氏は「そこまで調べているなら、という取材姿勢に共鳴していただき、何十年も極秘にしていた資料をくれた方もいた」と振り返る。

こうした取材手法もあって、難しいテーマでありながらも、読めば一気に頭に入ってくる内容に成し得ているのであろう。そして同時に、記事の説得性も高めている。

2月9日に投開票される東京都知事選挙では、「脱原発」も大きな争点となっているが、単純な議論や世の中の雰囲気に流されての原発に賛成か反対かではなく、原発について深く考え、議論するための材料になる良書である、と筆者は感じた。

冷戦下、見せかけの「平和利用」として始まった原発開発

本書の内容はタイトル通り、日米同盟の歴史と日本が原子力発電に取り組むようになった経緯を絡ませたノンフィクションである。ストーリーは、戦前・戦時中の理化学研究所仁科芳雄博士による「二号研究」と呼ばれた陸軍の原子力爆弾開発の話に始まる。

この部分は、伏線でもある。なぜなら、本書の主眼は、東日本大震災によって制御不能となった福島原発の大事故が起きた今でも、日本が原子力発電にこ だわり続ける理由を、単に安い電力供給が求められているからではなく、原爆の潜在的開発能力の保有・維持することにあると捉えている点にあるからだ。

 

そして戦後の日米の安全保障という枠組みの中で、日本は原発の開発に踏み出したと位置付けている。安全保障の考え方は当然ながら、冷戦、ポスト冷 戦、中国の軍事力の増大など世界政治が置かれている状況の変化によって変わる。本書では、その点も押さえながら原発開発に取り組む日本の姿勢の変化も重ね ている。

1953年、米国のアイゼンハワー大統領が核の平和利用推進について国連で歴史的な演説を行ったことを受け、翌年の1954年3月、日本では衆院予 算委員会で戦後初の原子力予算が議員提案された。終戦から10年も経っておらず、忌々しい戦争の記憶が完全に消え失せていない状況の中、世界で唯一の被爆 国である日本にとって、原子力という言葉自体がタブーであったかもしれない時期に「政治主導」で、日本の原発開発は踏み出した。

原発開発を「政治主導」した一人、中曽根康弘元首相[PHOTO]Getty Images

日本学術会議の重鎮らは、国会に押しかけ、「学界軽視だ。予算がついても着手するのは難しい」と撤回を求めたことが本書で触れられている。政治主導を引っ張った一人が後に首相まで上り詰める中曽根康弘氏である。

日本が原発開発に踏み出した背景について、本書は、米ソの冷戦が進展し、ソ連が核実験に成功、同時に共産主義国原発技術を提供開始し始めたため、米国の核独占の優位性が崩れつつあったことが影響した、と指摘している。

アイゼンハワー大統領図書館に保管されている、国防総省の心理作戦コンサルタントによる報告書には「原子力が平和と繁栄をもたらす建設的な目的に使 われれば、原子爆弾も受け入れやすくなるだろう」との記述が残っている。極秘メモによると、ダレス国務長官も「今の国際世論を考えると原爆は使えないが、 この世論を打ち消すためにあらゆる努力をすべきだ」と述べたという。

要は、この米国の「見せかけ」の核の平和利用に呼応する形で、日本の原子力予算は動き始めたのである。筆者も、冷戦の真っ最中、共産主義の防波堤であった日本が核に対するアレルギーをなくしてほしいと米国が考えていたのだろうと受け止める。

推進世論作った読売新聞・正力社主とCIAの関係

ところが、こうして初の原子力予算案が提案されたのとほぼ同時期に、マグロ漁船「第五福竜丸」のビキニ環礁における「死の灰事件」が起こる。米国は軍事秘密を理由に水爆実験を公表しなかった。日米政府は被爆の恐怖をひた隠した。

本書の取材班は米国家安全保障会議(NSC)の作戦調整委員会の保存資料にも当たっている。そこには「好ましくない日本人の態度を正すための活動リ スト」が残されており、「患者の症状は、放射能ではなくサンゴの粉じんが原因ということにする」などといったビキニ事件の鎮静化に向けた対日工作が列挙さ れているという。

 

取材班は、「第五福竜丸」に乗船していた船員にも取材している。当時、冷凍士だった大石又八氏は、肝臓がんを患いながらも福島原発の事故以降、全国を回って自らの体験を元に放射能原発の危険性を訴えているという。

そして、「放射能の影響を過小評価している点ではビキニも福島も同じ。被ばくの本当の怖さは症状が後から出てくること。福島の人たちも長期にわたって影響が出ることも考えられ、国はしっかり調査を続けるべきだ」との大石氏の発言を載せている。

第五福竜丸」の悲惨な事故が起こったとはいえ、その1年後の1955年に日本の原子力開発は大きく動き始めた。米国産濃縮ウラン受け入れを閣議決 定、日米原子力協定の締結、原子力基本法の制定といった日本の原子力政策の原型が出来上がったのである。「第五福竜丸」の被ばく事故が起こったことで、原 発反対に傾いた世論ではあるが、一転して推進に変わった。

それに一役買うためにマスコミを巻き込んだ原子力推進キャンペーンを張ったのが読売新聞社主だった正力松太郎氏である。その動きが本書の第5章「毒をもって毒を制す」で丹念に描かれている。

正力氏の信頼が厚かった柴田秀利氏(後に日本テレビ専務)の著書『戦後マスコミ回遊録』やCIA(米中央情報局)の文書、柴田氏の秘書だった人物に 当たることなどによって、当時の動きが克明に描かれている。中でも驚いたのは、現在は公開されている当時のCIAの極秘文書には「大手日刊紙とつながりを 持つため正力と柴田を取り込むべきだ」との助言が残っている点だ。

柴田氏の著書の中でも、接近してきたワトソンと呼ばれる米国人に、CIAかと尋ねたが、否定されたことを示す部分があるという。ただし、CIAの 1954年12月31日付の極秘文書には「柴田は自分がやり取りしている相手がCIAだとは知らない」との記述も残っているという。日本の原子力政策推進 の背後にはCIAがいたことを示している。

原発とロケットが「核の潜在的保有能力」に

本書は、佐藤栄作政権時代に、日本が核保有を検討したことがあったことも調べ上げている。首相直轄の内閣調査室(現・内閣情報調査室)が核保有の可能性について検討を始めた。当時、内閣調査室の調査主幹だった志垣民郎氏は取材に応じ、次のように当時を振り返っている。

「中国の核実験が起きて大変な危機感を持った。学者の意見を聞くうちに核を持てるかの検討だけでもしてみようということになり、信頼のできる学者を呼んで検討組織をつくることにした。首相や他省庁からの指示ではなく、内調としての方針だった」

 

志垣氏の手元には多数の極秘資料が残されているという。その志垣氏が最も影響を受けたのが、国際政治学者の若泉敬氏だった。佐藤首相のブレーンであ り、沖縄返還交渉の密使を務めたことで知られる人物だ。若泉氏の考えは、核武装しない国是を貫くべきではあるが、いつでもやれる能力があることを国内外に 示すことだった。そのために原子力の平和利用と国産ロケットの技術が大切になるとの考えでもあった。

取材班キャップの寺本氏はこう指摘する。

「大震災によって、あれだけの福島原発の事故を起こしながら、原発の再稼働にこだわる理由は、核兵器の潜在的保有能力の維持にあるのではないか」

筆者は昨年8月に鹿児島・内之浦に固形燃料の国産ロケット「イプシロン」の打ち上げ取材に出向いた。準備も含めたその取材プロセスで気づいたことだ が、これまでは国産ロケットに対しては予算配分が縮小傾向にあったのに、防衛力強化を推進する安倍政権になった途端、ロケット開発の強化策が打ち出されて いる。

やはり、原発再稼働の推進とロケット開発の強化は、核兵器の潜在的開発力の維持が狙いだと見ていいだろう。

日本車輸出の自主規制と引き換えに許された再処理施設

日本が経済成長して、かつての「敗戦国」から米国の貿易赤字の主要因たる「貿易敵国」として位置付けられていくプロセスでも、原発が日米同盟と深いかかわりを持つことが、第7章「油の一滴は血の一滴」、第8章「勝者の驕り」の部分で描かれている。

「核不拡散」へ転換したカーター大統領(1976)[PHOTO]Getty Images

ニクソン政権時代の1971年、米国は対日貿易赤字が過去最大の30億ドル(当時のレートで1兆円)以上にまで膨らんだ。貿易摩擦が日米間の最大の 政治課題に浮上してきた時期である。米国側は米国製品の輸入拡大を求めてきた。その際に購入の「目玉」となったものが2つある。

それは、後にロッキード事件の引き金となる米国製の航空機と、米国産濃縮ウランだった。その濃縮ウランの購入量は、当時国内で稼働していた原発の50年間分の燃料となる莫大な量だった。通産相中曽根康弘氏だった。

ところが、米国でカーター大統領が誕生すると、「原子力の平和利用」の考えにも変化が芽生える。取材班はカーター氏にもインタビューしている。 1977年の大統領就任演説で、カーター氏は核不拡散の考えを示す。本書は〈米国は平和利用を名目に、原発などの関連技術を国際社会に提供し『核の傘』を 広げてきた。その原子力政策が180度転換されることになった〉と説明する。

 

カーター政権が日本に懸念を示したのは、1977年に稼働を目指していた茨城県東海村の再処理施設だったとされる。使用済み核燃料から原爆に転用されるプルトニウムを抽出する再処理施設は、当時の核保有国の米ソ英仏中以外では初めてだったからだ。

カーター政権は核不拡散の基本理念を貫き、日本を例外として認めようとしなかった。カーター特使としてグレン上院議員(元宇宙飛行士)が来日し、日米で再処理について話し合われた。

その後、例外を認めなかった米国の方針が変わった。取材班キャップの寺本氏は

「再処理を許す見返りに、貿易摩擦解消のために米側は自動車の輸出自主規制求めたのではないか」

と指摘する。自主規制は再処理交渉が決着した4年後に始まる。自主規制とは名ばかりで、米国は自由貿易を謳いながらも、再処理交渉を利用して自国の自動車産業救済のために強制に近い形で日本からの輸入を排除したのである。

福島原発事故処理における「真の国益」とは

本書を読んでいく限り、権力者は秘密を隠すものであるということが改めて分かる。

筆者は、軍事に関する安全保障などの情報は隠して当然のものもあると思う。すべてを公開せよと言わない。しかし、それは、国民が経済的にも精神的に も安定的に暮らせ、不利益を被らないため、いわば「真の国益」を守るために敢えて情報を秘匿することもあるということではないか。福島原発の事故後の情報 隠しは、原発利権を守るための情報隠しであって、国益を維持することにそぐわないと思う。

昨今の特定秘密保護法の制定における議論でも、真の国益を守るための秘密とは何かという視点が欠けていたようにも思う。だから国家や権力者の体裁やメンツに関わることは隠してもいい法律と受け止めてしまう。国家や権力者の体裁やメンツを守ることが真の国益ではない。

取材班キャップの寺本氏が、筆者の取材にこう話した。

「この取材では、原発に反対してきた人ではなく、これまで推進してきた人やその関係者を中心に取材してきた。その推進してきた人たちが今、日本が原発を再稼働させることに懐疑的になっていることを重く受け止めなければならない」

 

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