東京大空襲 - Wikipedia
東京大空襲・戦災資料センター
メデイアの記事(あいうえお順)
東京大空襲に関するトピックス
http://www.asahi.com/topics/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2.html
母は黒こげになって私を守った 絵本で伝える東京大空襲
2014年3月8日07時45分
http://www.asahi.com/articles/ASG335S9NG33UTIL035.html
▼全文転載
69年前、炎から少女を守ろうと覆いかぶさった母親は、黒こげになって息絶えた。「東京大空襲を忘れちゃいけない」。少女はその後、母となり、折に触れて我が子に伝えてきた。絵本作家となった息子が今年、その思いを絵本にした。
塚本千恵子さん(75)=東京都足立区=の体験を描いた「せんそう 昭和20年3月10日 東京大空襲のこと」(東京書籍、税込み1260円)。絵は次男やすしさん(48)が「子どもの頃から聞かされ、頭の中にこびりついていたイメージ」をもとに、千恵子さんに改めて話を聞き、資料にも当たって仕上げた。
千恵子さんは墨田区押上(おしあげ)で洋品店を営む両親のもとに育った。戦火が激しくなると、父親は出征。きょうだい5人は疎開し、小学校入学直前の千恵子さんだけ、母の松枝さん、祖父母と残った。
1945年3月10日未明。アメリカ軍のB29が落とす焼夷(しょうい)弾の雨は家々を炎に包んだ。当時6歳。記憶はおぼろげだが、母に手を引かれて外に出ると、逃げ惑う人たちが持ち出した布団に火が次々と燃え移り、風にあおられた綿(わた)の火が、蛍のように見えた。
千恵子さんの服も燃え出した。川の水をかけても、火の粉は次々と襲う。松枝さんは千恵子さんを押し倒し、覆いかぶさった。
残り:355文字/本文:892文字
無料会員は1日3本まで、有料会員は何本でもお読みいただけます。
「禁演落語」自由な今こそ 東京大空襲遺児の男性が披露
2014年3月8日22時43分
http://www.asahi.com/articles/ASG37778KG37UTIL04P.html
▼全文転載
川崎市中原区のアマチュア落語家中島邦雄さん(79)が8日、東京都江東区であった東京大空襲を語り継ぐ集いで、戦時中の「禁演落語」を披露した。当時、53演目が不謹慎だと自粛されていた。空襲では家族5人の命を奪われた中島さん。「自由に話して笑える世の中の尊さを知ってほしい」との思いを込めた。
「もう大丈夫だ、ってんで、前の川にぽしゃーん」。10日で東京大空襲から69年となるのを前に「東京大空襲・戦災資料センター」(同区)などが開いた集い。中島さんの軽妙な語りに約400人が沸いた。
1941(昭和16)年秋、落語界は酒や遊郭、浮気などに関する53演目を自粛した。中島さんがこの日選んだのは「後生(ごしょう)うなぎ」。子 どもを川に放り投げるオチが自粛理由とされた。「戦争以外のことで命を粗末にするのはけしからんと。でも、戦争がどれだけ命を粗末にしたか」
残り:418文字/本文:795文字
無料会員は1日3本まで、有料会員は何本でもお読みいただけます。
東京)東京大空襲、地図で語る 両国出身の菊地さん出版
2014年3月6日03時00分
http://www.asahi.com/articles/ASG337T7XG33UTIL066.html
両国出身のノンフィクションライター菊地正浩さん
書名は「地図で読む東京大空襲 両国生まれの実体験をもとに」(草思社 2200円+税)。
東京大空襲 | 特報首都圏 NHKスペシャル
http://www.nhk.or.jp/shutoken/daikushu/
東京大空襲「語り継ぐつどい」 家族失った女性ら証言
2014.3.8 22:13
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140308/trd14030822200008-n1.htm
「戦争の惨事 ないこと願う」 東京大空襲69年語り継ぐつどい
2014年3月9日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014030902000123.html
▼全文転載
市民ら約10万人が犠牲になったとされる1945年の東京大空襲から10日で69年となるのを前に、「語り継ぐつどい」が8日、都内で開かれ、約400人が参加した。家族を失った女性らが証言し「戦争の惨事がないことを願ってやまない」と、平和の大切さを訴えた。
たまたま母親の疎開先の千葉市にいて無事だった中村俊子さん(84)=千葉県勝浦市=は、四十五歳の父と十三歳の弟を亡くした経験を、自作の紙芝 居を見せながら証言。空襲直後に入った東京は、建物が焼け続けていて熱気に包まれ、やけどをした遺体が路上にあふれていたと振り返った。
四十九日目に、公園に埋められた千体以上の中から二人の遺体を発見した様子も、時折声を詰まらせながら語った。
その上で「国と国の戦いは悲しい惨事をもたらす。二度と戦争が起きないよう祈る」と訴えた。
主催団体の一つ、東京大空襲・戦災資料センターの館長で作家の早乙女勝元さん(81)は、憲法解釈変更を掲げる安倍政権を念頭に「戦後の平和と民主主義に重大な危機が訪れている。戦争になったら民間人はどうなるかを伝えることがブレーキになる」と強調した。
集会では、別の被災者の証言映像が流されたほか、教育評論家の三上満さん(81)も講演した。
東京新聞
大空襲と疎開 語る きょうから浅草で展示 写真や道具350点
2014年3月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140307/CK2014030702000115.html
▼全文転載
太平洋戦争末期の一九四五年三月十日、十万人が命を落としたとされる東京大空襲の被害を伝える「東京大空襲資料展」が七~十日、台東区の浅草公会堂で開かれる。今年は区の子どもたちの学童疎開から七十年にあたり、疎開に関係する資料を重視した。 (志村彰太)
被害状況を記した地図や空襲後の写真、当時使われた道具など三百五十点を展示。疎開先から実家にあてた子どもの手紙もあり「空襲のうわさを聞き、東京の家が心配です」などと当時の子どもたちの心境を伝えた。
警視庁のカメラマンだった石川光陽さん(一九〇四~八九)が撮影した写真のコーナーでは、多数の遺体が河川敷に並ぶ様子が写されている。
また、空襲の際、陸軍の隊員として遺体の処理に関わった画家おのざわさんいちさん(一九一七~二〇〇〇)による絵画も並び、描かれた人物の表情が空襲の悲惨さを感じさせる。
会期中は、空襲体験者の話やビデオ上映、音楽紙芝居などを日替わりで催す。十日午後一時には言問橋近くで追悼集会を開く。
主催する実行委員会の川杉元延(かわすぎもとのぶ)委員長(72)は「最近、集団的自衛権の行使容認などのきな臭い動きがある。日本が戦争する国になろうとしている。展示で実際の戦争を知って現在も惨劇は続いていると伝えたい」と話している。
展示会は午前十~午後五時。入場無料。
東京大空襲、被害を巨大地図に 橋など犠牲者集中
2014/3/1 13:30
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG27017_R00C14A3CC0000/
▼全文転載
3月10日で太平洋戦争の東京大空襲から69年となるのを前に、当時の市民らがどう逃げ、どこで亡くなったかをまとめた巨大地図を東京大空襲・戦 災資料センター(東京・江東)の研究者らが完成させた。未明の爆撃に驚いた多くの人が、逃げ込んだ小学校や橋などで集中的に犠牲になった様子が浮き彫りに なっている。1日から一般公開された。
同センターは、作家の早乙女勝元さんが館長を務める民間の研究施設。日本学術振興会の科学研究費の助成を受け、墨田区立すみだ郷土文化資料館などと4年がかりで、約2.5メートル四方の「東京大空襲 いのちの被災地図」を完成した。
東京の空襲犠牲者の氏名を記録した「都内戦災殉難者霊名簿」から、住所と死亡場所が分かる約1万人を抽出。当時の地図をコンピューターに取り込んだうえ、犠牲者の自宅と死亡場所を書き込んだ。
この結果、下町で多くの人が亡くなった東京大空襲では、ほかの空襲に比べ、小学校や橋など特定の場所で集中的に多くの犠牲者が出ていたことが明らかになった。
山本唯人・同センター主任研究員は「東京大空襲の生存者による体験談は多く残っているが、人々の動きを全体的に捉えた研究は少なかった」と指摘。「今後、多くの証言や当時の気象データなどと突き合わせ、なぜ東京大空襲でこれほどの犠牲が出たのか明らかにしたい」と話す。
同センターによると、東京大空襲は太平洋戦争末期の1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機が東京の下町地区を標的に実施した大規模爆 撃。軍需工場などを標的にしたそれまでの空襲とは異なり、住宅密集地を無差別に攻撃したのが特徴で、約10万人の一般市民が犠牲になったとされる。
いのちの被災地図は3月1日から同センターで公開。空襲体験者の証言映像をデジタル地図と組み合わせた「東京大空襲証言映像マップ」も併せて公開する。
東京大空襲:88歳で語り部になる決意「地獄でした」
毎日新聞 2014年03月08日 14時00分(最終更新 03月08日 14時42分)
http://mainichi.jp/select/news/20140308k0000e040246000c.html
▼全文転載
(最終更新 03月08日 14時42分)
一夜にして10万人が亡くなったといわれる1945(昭和20)年3月の「東京大空襲」から10日で 69年。19歳で被災した坂本邦男さん(88)は、大空襲翌日に召集され、終戦後約3年3カ月のシベリア抑留を強いられた。まぶたに焼き付いた大空襲の状 況は、あまりに悲惨すぎて口にしづらかったが、「風化させてはならない」と、米寿を迎えて語り部になることを決意。8日、東京都墨田区のすみだ郷土文化資 料館で行われた空襲画ギャラリートークで自身の体験を語った。
大空襲当時、坂本さんは現在の亀戸中央公園(江東区亀戸)の敷地内にあった工場で働いていた。あの夜、 家族と共に近くの自宅で寝ていた時、轟音(ごうおん)で跳び起きた。「外は焼夷(しょうい)弾の炎で昼間みたいに明るくて、B29がその炎で真っ赤に光っ ていた。本当に不気味だった」
熱で道路のアスファルトは溶け、木製の電柱は燃え盛る。真っ赤になったトタン板が爆風で飛び交う中、必 死に自宅近くの北十間(きたじっけん)川まで逃げ、父と川の水をかけ合って熱をしのいだ。奇跡的に家族全員が無事だったが、母や妹が避難した学校でコンク リート造りだったため熱がこもり、多くの人が蒸されるようにして亡くなったと聞かされた。
朝日が昇った時には見渡す限り焼け野原。銀座のデパートまで見通せたという。それだけ悲惨な状況なのに、戦時下 の市民にはさらに過酷な運命が突き付けられる。避難した葛飾区内の伯父宅に翌11日、召集通知が届き、約1カ月後、中国大陸へ。そして終戦。凍えるような シベリアでの抑留生活が待っていた。入隊時に約60キロだった体重は約40キロに。出征時に「空襲犠牲者の敵討ち」と意気込んでいたという坂本さんだが、 京都・舞鶴港の土を48年秋に踏んだ時、「生きて戻れた」と万感胸に迫り、涙が止まらなかったという。
空襲の夜のことを忘れることはなかったが、ほとんど語らずにいたという坂本さん。家族にめぐまれ4人の子どもが成長する中、「家族には決して戦災の被害者にも、加害者にもなってほしくない」との思いが湧き、2003年、一枚の絵を描いて同資料館に寄贈した。
消火用の水槽にまるで風呂に入るようにつかったまま亡くなった人。既に白骨の状態だった。その忘れられない状況を描いた絵だ。
今は8人の孫と2人のひ孫もいる。みんなに伝えるため、人前で話すことにも挑戦することにした。約40人が集まったギャラリートークでは、約1時間にわ たり当時の様子を説明。「人々が逃げ込んだ市電がそのまま燃え上がった。この世の地獄でした」などと切々と語り、そして呼び掛けた。「多くの方の犠牲の上 に、今の平和があることを忘れてはいけない」【木村敦彦】
★他関連記事
東京大空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm
「東京大空襲」史上最大の虐殺 - 東京写真紀行
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
東京大空襲
http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/
東京大空襲訴訟
http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/sub-sosyo.html
「東京大空襲」: 井上 有一: 本
兵士の目から見た 東京大空襲
http://www.nanmoku.ne.jp/~sinikanb/kushu.html
写真ライフ / LifePhoto: 東京大空襲を未発表の写真で再現
http://forest-baku.blog.ocn.ne.jp/aozora/2012/01/post_93ff.html