「北の山・じろう」時事問題などの日記

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福島第1原発事故=戦後最大の危機の真実。 「最悪のシナリオ」から危機の全体像に迫った<DIAMOND online 2013年3月>

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大震災から2年目の「今」を見つめて
福島第1原発事故=戦後最大の危機の真実。
「最悪のシナリオ」から危機の全体像に迫った
――日本再建イニシアティブ理事長 船橋洋一
【第4回】 2013年3月11日
http://diamond.jp/articles/-/33087
▼全文転載

 

大震災から丸2年が経つ。地震津波原発事故という複合災害が日本を襲った。中でも福島第 一原発事故は、日本の戦後における最大の危機だった。日本再建イニシアティブ船橋洋一理事長(慶応大学特別招聘教授)は、膨大な関係者の証言を基に、上下 合わせて1000ページ近くにもぶ大著『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)を著した。そこには我々の知らない事実が詳細に語られている。同理事長に、なぜ福島第1原発事故は危機に陥ったのか、そしてその教訓は生かされているのかを聞く。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集長 原 英次郎)

最悪のシナリオでは
首都圏住民の避難も想定していた

――まず最初に、なぜ、福島第一原発をテーマとした本を世に問うべきとお考えになったかを、聞かせてください。

 「最悪のシナリオ」物語というのが、書けるかもしれないと思ってからですね。

東京電力福島第1原発事故は、戦後最大の危機でした。それは日本という国家が成り立つかどうかの瀬戸際の危機だったのです。

 そのことを痛感したのは、私たちのシンクタンク一般財団法人「日本再建イニシアティブ」が設立した福島原発事故独立調査・検証委員会(民間事故調)で調査を進めるうちに、当時の菅直人内閣が極秘につくっていた「最悪のシナリオ」のペーパーを入手してからです。

 入手したのは2011年12月末でした。

 

 1月末には民間事故調の報告書の締め切りですから、その背景を調べるにはあまり時間がありません。それでも、最低限の背景説明を入れて、報告書を発表できました。

 ただ、私自身は、その過程で、これは民間事故調の報告書とは別に「最悪のシナリオ」物語が書けるな、と思うようになりました。ここが最初のとっかかりとなったという気がします。

 それだけにここの取材には力を入れました。菅首相近藤駿介原子力委員長に要請した「最悪のシナリオ」づくりだけではなく、北澤俊美防衛相もこれ とは別に「最悪のシナリオ」を自衛隊に作成させていました。米政府もつくっていました。いずれも、当時は極秘に伏せられていたのです。

 「最悪のシナリオ」が誰によってどのようにつくられたのかは、『カウントダウン・メルトダウン』で詳しく紹介しましたから、ここでは触れませんが、「最悪のシナリオ」は、首都圏住民の避難も想定していました。

 もしそうなったときに、「内閣総理大臣談話」を出すことも密かに検討していました。劇作家の平田オリザ氏がその草案を書きました。

 この取材はなかなか骨でした。

 「最悪のシナリオ」を調べる過程で、何か、最悪となったときの「総理大臣談話」のようなものを用意したらしい、という情報が耳に入ってきましたが、なかなか確認が取れませんでした。その起草者が平田さんと分かって、平田さんに確認が取れたのは2012年9月でした。

 戦後、日本政府は「最悪のシナリオ」をつくったことはありません。幸せな国であり幸せな時代だったのだと思います。

原発について言えば、日本の原子力産業と原子力行政に染みこんできた「絶対安全神話」がリスクと危機を「想定外」として封じ込め、日本でしか通用 しないガラパゴス的な安全・安心体制をつくってきたのです。福島第1原発事故は、そうした”一国安全・安心主義”のガラスの城を粉みじんに吹き飛ばしたと 言えます。

 

 そうした丸腰の安全・安心体制ですから、いったん危機が起こった時、なすすべがなかったわけです。事故後、原子力安全・保安院の保安検査官たち は、福島第1のオンサイトからあたふたと逃げ出します。あのシーンにガラスの城の崩壊が映し出されています。この本の最初(第一章)にあの話を持ってきた のは、原発メルトダウンとともに、そうした「国の形」のメルトダウンも、同時に始まったことを伝えたいと思ったからです。

敵は軍隊ではなく放射能
米軍横須賀基地も大騒ぎになった

 もう一つ、この本を何としでも書きたいと思うようになったきっかけは、知り合いの米海軍将校と食事をしたときの会話です。

 彼は、トモダチ作戦遂行のため三陸沖にやってきた米空母ロナルド・レーガンで勤務についていましたが、「あのときは、ヨコスカ・ショックで大変だったんだ」と一言、漏らしたのです。

 ヨコスカ・ショック?

 何のことかわかりませんでした。危機のさなか、米海軍横須賀基地が放射能汚染の恐怖で大騒ぎになったことをその時初めて知りました。

 日本には米国という同盟国があります。

地震津波のあと、米国はいち早く日本支援に駆けつけた。しかし、福島第1原発事故の対応支援の場合、敵は放射能です。米軍もまったく勝手が違っ たんですね。2012年6月末、ワシントンに行き、米政府高官にインタビューして、米政府部内でも海軍と国務省との間で、実は大変なバトルが繰り広げられ ていたことを知ったのです。

 「トモダチ作戦」、「海軍vs国務省」、「ヨコスカ・ショック」、「ホソノ・プロセス」と『カウントダウン・メルトダウン』全21章のうち4章分を日米同盟関連に当てたのは、あの危機の実相を米国と日米同盟のレンズからえぐり出したいと思ったからです。

 

 結局のところ、同盟を同盟たらしめるには、自らを自らで守る国でないと相手は助けられないということを痛感しました。

 「同盟は相手を助けるが、運命を共にしない」

 危機対応の最前線で働いた統合幕僚監部の幹部と食事をした時、彼はそう言ったんです。

 「ああ、これでこの絵に目玉が入った」

 その発言を聞いて、そう思いましたね。

 欲張ってもう一つつけ加えると、書き進めるうちに、危機の全体像を描けないか、と思うようになったこともあります。

 この本を書くに当たって、政府、国会、民間のそれぞれの事故調報告書をそれこそ熟読玩味しましたが、そこここに散らばるデータの原石を直接、危機 の最前線で取り組んだ人々のストーリーとして取り出して、磨いて、誰か一人に光を当てると言うより、群像たちのナラティブを重ねて、危機の全体像に迫って みたい、そして、後世の人々に、福島原発危機の真実はこうだったんだ、と言うようなノンフィクションを書きたいと思うようになりました。

 ジャーナリズムは、個々のストーリーの強さが命ですし、細部に真実が宿る表現形態だと思っています。細部が彩なすモザイクを少し離れて見ると、全体の輪郭が浮かんでくるようになればしめたものです。

国家のため、社会のために
誰が命をかけるのか

――この『カウントダウン・メルトダウン』で、もっとも問題提起したかったことは何ですか?

 いざというときに、国家のため、そして社会のために、誰が命をかけるのかというテーマです。

 

 15日午前5時35分、菅首相東電に乗り込みますね。

 そこで東電社員を前に「君たちは当事者なんだぞ。いのちをかけてくれ」と演説した。 政府として「いのちをかけろ」と命令はできない。そんな権限はない。あくまで「お願いベース」です。

 しかし、それでも菅さんはそれを言った。

 おそらく吉田昌郎所長や当直長たちは「命を賭けてやる」覚悟だったと思います。菅さんに言われたから彼らは踏みとどまったのではないでしょう。ただ、吉田所長たちの覚悟とは、最終的には「玉砕」につながったかもしれない。

 米国の日本に対する不信感の中には、「日本は玉砕するのではないか」との不安感も含まれていたかも知れません。

カート・キャンベル国務次官補は藤崎一郎大使に、「英雄的犠牲」で臨んでほしいと日本側の覚悟を迫っています。

 要するに「決死隊」ということですね。日本側も、自衛隊はその覚悟を持っていたと思います。しかし、米国に言われたこの言葉はとても重かった。

地震が起こったとき、福島第1原発の現場にいた原子力安全・保安院の保安検査官たちは本来なら、事故の際はプラント内にとどまって、独自に本院にプラント情報を伝達しなければならないところです。それができなかった。

 だから、政府は東電の本店から情報をもらうだけとなってしまいました。

 『カウントダウン・メルトダウン』 でも触れましたが、実は、彼らを含むオフサイトセンターからの職員たちの避難問題は、東電福島原発の撤退問題と微妙に絡んだのです。菅政権のやったこと は、一方で、政府の職員を避難させながら、東電の社員には死ぬ覚悟で踏みとどまれと要請するのですから、矛盾しているのですね。

 この問題をめぐって保安院経産省の内部でどんなやりとりがあったのか、私はそこを突き止めたかった。この点はかなりの程度、つかみ出すことができました。

 

 保安検査官の”敵前逃亡”について、「役人だけの判断だけなら、撤退しかありえない。役人は別の役人に死ねとは言えませんから」と経産省の幹部は後に、そう言っていました。これは「国の形」そのものが問われていた危機だったんだ、と改めて思い知った次第です。

 全体を救うため犠牲を求める。

 このテーマを、戦後、日本は、正面から見据えてこなかった。

 もはやそれを避けて通るわけにはいかない、日本、前へ、と背中を押されたような感じがします。

教訓は3つの視点から
導き出される必要がある

――我々は戦後最大の危機を経験したわけですが、その危機の教訓はいま、生かされつつあると思われますか?

 私は、この事故と事故対応の教訓は、リスク、ガバナンス、リーダーシップの3つの点から導き出す必要があると思っています。

 まず、リスクです。

 リスクのタブー視、つまり「絶対安全神話」を克服できるようになったかどうかがカギですね。リスクをタブー視することで生まれる「絶対安全神話」 は、さすがに消滅しつつあると思いたいところですが、住民の「小さな安心」を買うために、国家の「大きな安全」を犠牲にする「安心のバラマキ行政」はなお 根強いように感じます。

 次にガバナンスです。

 究極のところ原発危機は、ガバナンス危機だったという気がします。巨大技術化、都市化、グローバル化が進み、絡み合い、巨大リスク社会と巨大リスク世界が生まれてきています。軍事紛争や戦争ではないが、それに劣らないものすごい致死性を持つリスクです。

 

 このような巨大かつ多面性のあるリスクと危機に対応するには、全体を見て、全体を把握し、全体を動かす危機対応力が決定的に重要です。

 日本の場合、ここがもっとも弱い環だという気がします。

 米政府は、福島原発事故の際、日本政府に「政府一丸となって」(whole government approach)取り組むよう強く求めました。日本政府の取り組みがいかにもバラバラで東電任せに映ったのでしょう。原子力ムラは、「ムラと空気のガバ ナンス」のなれ合い、もたれ合いでした。そして「絶対安全神話」の呪縛に囚われていました。だから、真剣勝負の安全規制が生まれませんでした。

 危機が起こった後も、やはりガバナンス危機でした。バラバラ、たこつぼ、縄張り、消極的権限争い、リスク回避。

原子力安全規制のプロや危機管理のプロを育てるには、長年の経験と研鑚が必要になります。しかし、そこには役所が立ちはだかるでしょう。年々 歳々、夏の人事異動を繰り返すのが霞が関官僚機構です。太平洋戦争のときも、わが陸軍は毎年夏の一斉定期人事異動を繰り返していたのです。

 官僚を一つのところに長く置かないのは、官僚機構の組織防衛のためです。ガバナンス面の教訓を生かすのはなかなか大変です。

 最後は、リーダーシップです。

 危機の際、日常モードを緊急時モードに、そしてグッド・ガバナンスへと切り替えるのは、リーダーシップです。危機が起こったとき、どの政府も全知 全能の政府は存在しない。未知との遭遇です。政府だろうが、自治体だろうが、企業だろうが、指導者は、そうした状況の中で、判断、決断しなければなりませ ん。

福島第1原発事故もそうでした。

 事故が起こってしまった後、それぞれに必死になって事故対応をやった。

 

危機管理の最大の敵は
悲観主義と敗北主義

 危機の時のリーダーシップで私が今回感じたのは、それを持っている人は、危機の時こそ、人を褒めて、みんなを元気づけることを心掛けています。吉 田昌郎所長はとても褒め上手です。毎日夕方に開かれる免震重要棟2階の全体会議で、何か一つでもいい知らせがあると、率先して拍手をしてみんなを激励して いました。

 米政府が原子力安全規制のプロ中のプロの切り札として日本に送りこんできたNRC(米原子力規制委員会)のチャールズ・カストー日本サイト支援部 長も、日米合同調整会議で、ちょっとでも進展があるとLet me congratulate.とまず相手を褒めてから、発言していました。

 危機管理の最大の敵は、悲観主義と敗北主義なのです。

 危機の際に「最悪のシナリオ」をつくったのは次の展望を持つためです。菅首相にそれをつくるように要請された近藤駿介原子力委員長は、その時「いまが最悪です」と答えています。

 つまり、「いまを最悪にしましょう」ということでもあるんですね。首相に展望を持ちましょう、と元気づけているのです。

 人間社会が展望を持つには、リーダーの側の能動的な楽観主義が必要なんですね。

 

ふなばし・よういち
1944年北京生まれ。東京大学教養学部卒。一般財団法人日本再建イニシアティブ理事長。元朝日新聞社主筆(2007~10年)・慶應大学特別招聘教授。 1968年、朝日新聞社入社。朝日新聞社北京支局員、ワシントン支局員、アメリカ総局長などを経て、朝日新聞社主筆ハーバード大学ニーメンフェロー、米 国際経済研究所客員研究員、米ブルッキングズ研究所特別招聘スカラー。外交・国際報道でボーン上田記念賞(1986年)、石橋湛山賞(1992年)、日本 記者クラブ賞(1994年)受賞。主な著書に、『通貨烈烈』(88年、朝日新聞社吉野作造賞)、『同盟漂流』(98年、岩波書店、新潮学芸賞)、『ザ・ ペニンシュラ・クエスチョン-朝鮮半島第二次核危機』(06年、朝日新聞社)、『新世界 国々の興亡』(10年、朝日新聞出版社)など。

 

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