「北の山・じろう」時事問題などの日記

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釜本邦茂「逆境をはねのけた不屈のストライカー」<現代ビジネス 2014年08月>

☆サッカー、スポーツだけでなく人生全般において聞くべきところのある話だと思います。前編と後編に分かれていますが、後編を全文転載。

 

現代ビジネス

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[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]
釜本邦茂(サッカー解説者)<後編>「逆境をはねのけた不屈のストライカー」
2014年08月22日(金) スポーツコミュニケーションズ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40171

▼全文転載

 

二宮: 国際Aマッチ通算75得点と、日本代表で数々のゴールを積み上げた釜本さんが、初めて代表入りしたのは1964年、東京五輪の年でした。
釜本: 当時はW杯より 五輪という時代でした。20歳で東京五輪に出場しましたが、右も左もわからなかった。入場行進したのは覚えていますが、あとはあまり記憶に残っていませ ん。僕はもともと“五輪に出たい”という思いでサッカーをやり始めたんです。それが叶ったものの、“世界とはこんなものなのか。自分は、まだ三流選手だ な”と思わされましたね。

二宮: それでも日本代表はベスト8に入りました。グループリーグで優勝候補のアルゼンチンに勝利したのは、まさに快 挙でした。当時の日本代表の強化には、デットマール・クラマーさんが深く関わっていました。“日本サッカーの父”と呼ばれたクラマーさんは、釜本さんに とっても、特別な指導者だったんじゃないでしょうか?
釜本: そうですね。サッカーがうまくなるため、そして強くなるために何をしなければいけないのかを根本的に教えてくれた人です。初めて教わったのが、16歳の時でした。それからもユース代表や、東京五輪に向けた代表の合宿にも来られて、日本のチームを見てくれました。

二宮: 練習も相当厳しかったと聞いています。
釜本: 怖かったです ね。今の選手だったら、ついていけないかもしれませんね。ボールの止め方ひとつで怒られましたから。トラップでボールが少しでもはね上がると、笛が鳴っ て、「なんて止め方しているんだ!」ときつく叱られましたよ。だから選手たちはクラマーが見ている時は、怒られないように一生懸命やるんです。ところがク ラマーがパッと目を離して、向こうに行きかけたら気が緩んで失敗してしまう。でも、それも彼は見逃さないんです。

二宮: まるで背中にも目がついているようですね。
釜本: それほど僕らに 目をかけてくれていたのかもしれません。クラマーと出会ったばかりの頃の僕は、身体は大きかったけれど、技術的にはものすごく下手くそでした。ボールは止 められないし、上手く蹴ることもできない。でも下手くそだからこそ、練習をたくさんしました。そうやって人一倍努力したおかげで、今の自分があるのだと思 います。

 

二宮: 代表でのハイライトは、銅メダルを獲得した68年のメキシコ五輪。この時のチームは最初からメダルを狙っていたんですか?
釜本: いやいや、目標 はベスト8でした。4年前の東京五輪は決勝トーナメント初戦敗退でベスト8。まずはそこに並ぶことが、ひとつの目標でした。当時、日本のメダルを期待する 人もいませんでしたから、ある意味では気楽でしたね。グループリーグの第1戦でナイジェリアを相手に僕がハットトリックをして3対1で勝ったんです。これ で、“日本のサッカーはこういうやり方をすれば勝てる”とわかった。それは堅守速攻です。

二宮: シンプルかつ合理的ですよね。
釜本: 基本的に攻撃は 「釜本、杉山(隆一)の2人で行って来い」と。あとはほとんど守っている。攻める時には、僕と杉山さん、あとは宮本輝幸さんぐらいしか前線にいなかった。 メキシコ五輪で日本は通算で9点入れましたけど、当時の映像を見ても、ゴール前に日本人選手はほとんど映っていない。そんなサッカーだったんです。岡田 (武史)が2010年の南アフリカW杯でやったサッカーも、それと同じようなものですよ。フォーメーションは4-3-3(4-1-4-1)ですよね。両ウ イング(サイドハーフ)の大久保(嘉人)と松井(大輔)は前後の動きばかりして守備に追われましたが、本田(圭佑)がワントップで前線に残っていた。ま た、ベスト4に入ったロンドン五輪では、俊足の永井(謙佑)のスピードを生かしたカウンターサッカーでした。日本が結果を残す時は、シンプルなサッカーな んです。

二宮: 確かにそうかもしれませんね。で、メダルが見えてきたのは?
釜本: いやいや実は最 後まで獲れると思っていなかったんです。当時FIFAの役員を務めていたクラマーが、準決勝・ハンガリー戦の前の晩、食事の席で「金メダルの色はエエ色を している。だからオマエらそれを目指していけ!」と言ったんです。しかし、結果的に金メダルを獲得したハンガリーには0対5で負けました。すると次の日、 3位決定戦の前にもゲキを飛ばしに来たたんです。「手ぶらで帰るか、銅メダルを持って帰るか。銅メダルもエエ色をしているぞ」と。それで、僕らもその気に なって、“最後にひと踏ん張りするぞ”となったんです。

二宮: とはいえ、相手はメキシコです。ホスト国の意地もあり、簡単に勝てるチームではありません。
釜本: メキシコとは、五輪の半年前にメキシコ遠征した時に試合をしているんですよ。その時は0対4で負けました。それで向こうは“負けるはずはない”と思っていたのではないでしょうか。

二宮: あの試合で釜本さんは17分、39分と前半に2点取ったんですよね。いずれも杉山さんとのホットラインからでした。
釜本: 実はハンガリー との準決勝で、プレー中に後ろから右足のふくらはぎを蹴られて、痛めていたんです。3位決定戦はその翌日でしたから、ほとんど練習もできなかった。やられ た時はどうってことなかったのですが、時間が経つにつれ、段々足も重たくなっていきました。それもあって、前半を終えてロッカールームに戻った時に、クラ マーから「もう1点取ってこい」と言われましたが、「いえ、足が痛いので」と返したのを覚えています。

 

堅守速攻で掴んだ銅メダル

二宮: 万全ではない中での2ゴールとは、すごい。結局、試合はそのまま2対0で勝利し、釜本さんは銅メダルの立役者となりました。
釜本: サッカーは、2対0のリードが一番危ないと言われています。メキシコ戦の勝利は、後半開始早々に、GKの横山(謙三)さんがPKを止めたのが大きかった。あれを入れられていたら、勝敗の行方はわからなくなっていたと思いますよ。

 

二宮: メキシコ五輪で釜本さんは7得点で得点王に輝き、大会後には、ヨーロッパなど海外のクラブからオファーも来たそうですね。
釜本: 実は五輪前にも 誘いはあったんです。68年1月に西ドイツのザールブリュッケンへとサッカー留学をしたところ、滞在中にその町にあるブンデスリーガ2部の1.FCザール ブリュッケンが、1部のチームと練習試合をしたことがあったんです。その時にチームから「試合に出てくれ」と言われました。出場給は1試合で5万円もらえ たんですよ。

二宮: 当時としては、悪くない条件ですよね。
釜本: そうですね。そ こで2試合に出場したんです。そのうちの1試合は0-1で負けている場面から、ラストパス出して1点をアシスト。さらに終了間際に1点を入れて、試合は 2-2で引き分けた。それをチームの幹部が喜んで「五輪が終わったら、すぐこっちに来てくれ」と言われましたね。

二宮: メキシコ五輪での活躍もあって、釜本さんの評価はさらに高まりました。しかし、五輪の翌年、25歳の時にウイルス性肝炎にかかり、海外移籍も破談になりました。病気の原因は?
釜本: 過労ですね。メ キシコ五輪が終わった後、天皇杯で僕の所属していたヤンマーが初優勝したんです。それで企業の宣伝も兼ねて、東南アジアの国々へ遠征に行きました。当時、 サッカー界でも東南アジアへ行って肝臓を悪くし、入院した人がたくさんいましたが、僕もそのひとりでした。それで“サッカー人生も終わりかな”と思ったこ ともありましたね。

 

順風満帆な競技人生を襲った病魔


二宮: 順風満帆に来ていたサッカー人生で初めて味わった挫折。69年の6月に入院しましたが、釜本さんの不在は日本サッカー界にとっても大きな打撃でした。
釜本: その頃は、70 年のW杯予選を控えていました。僕は“早く代表チームのキャンプに合流しなくてはいけないのに……”と焦りましたね。でも、イライラしても仕方がない。医 者からも「完治すれば、またサッカーはできる」と言われたので、サッカーのことをしばらく忘れて治療に専念したんです。ただ1カ月半もベッドで寝ていたの で、体力も著しく落ちましたし、足もすっかり細くなってしまいましたね。

二宮: 筋力も落ちてしまったと?
釜本: それまでトレーニングで鍛えたものが全部失われたような感じでした。実際、復帰直後の試合で相手にガツンと当たられた時、吹っ飛ばされたんです。自分のいい頃を知っているわけですから、これはショックでしたね。

二宮: それでも不屈の精神で、病気と闘いながら70年から2年連続で日本リーグJSL)の得点王に輝きました。71年にはエースとして、チームをJSL初優勝に導いていますね。
釜本: なんとか結果を 出すことはできましたが、イメージに身体がついていっていなかったですね。ケガにも悩まされました。大きなケガはなかったものの、ヒザを痛めるなどという ことが多くなった。そこからコンディンションを戻すまでの1、2年は、選手として一番つらい時期でした。

 

二宮: ところで釜本さんは、現役時代“こいつには勝てないな”と思ったストライカーはいますか?
釜本: 現在のように情 報が溢れていた時代ではなかったので、そんなに海外の選手のことは知りませんでした。66年イングランドW杯で活躍したペレ(ブラジル)、エウゼビオ(ポ ルトガル)、ウーヴェ・ゼーラー(西ドイツ)ぐらいですかね。ドイツに留学に行っていた時には、図書館で昔の試合のフィルムを見て、“自分はどういう選手 になれるか”と勉強をしていましたが、正直ペレのプレーは“到底、こんな選手にはなれない”と思いました。自分の目標は66年イングランドW杯得点王のエ ウゼビオです。彼のプレーを毎日のように見ていました。やっていることは非常にシンプル。ボールを受けて、ディフェンスをかわしてシュートする。ただ、そ れだけでした。余計なことはやらないんです。

 

いいFWは“余計なことをしない”

二宮: ドイツを代表するストライカーと言えば、“爆撃機”と呼ばれたゲルト・ミュラーです。ミュラーも余計なことをやりませんでしたね。
釜本: 彼が仕事をする のは、ゴール前だけですよ。だからボール回しの練習をやると、パスが上手くないから、すぐにボールを取られて、中のディフェンスばかりやることになる。実 はクラマーが僕に「ドイツにこういう選手がいる」と紹介したのがミュラーです。「下手くそだが1試合で必ず1点入れるFWだ。逆にテクニックはあるが、点 を入れられない選手もいる。オマエだったらどっちを選ぶか?」と聞かれました。「そりゃあ、1試合で1点入れる方を選びますよ」と答えると、「そりゃい い」と納得していたようでした。

二宮: クラマーさんは「FWはハンターだ」と語ったそうですね。ストライカーの本質を言い当てるいい言葉です。
釜本: そうならなきゃいかん、ということです。ゴール前で慌てて、バタバタするようではチャンスもモノにできない。冷静に一発で仕留めろと。

二宮: 残念ながら日本では、なかなかそういったタイプのFWが出てきませんね。
釜本: まずFWとしての自覚を持たせてやらないといけないですよね。“オレがストライカーだ”という気概をね。これまでは、そういった“オレがオレが”というタイプの選手がいても、FWではなく中盤の選手ばかりだった。

二宮: 優れたFWがいないのならば、育てればいい。GKコーチという役職があるのですから、FWコーチもあっていいのでは?
釜本: 僕もそう思いますね。要はいかにシュートに結びつけるか、そこだけなんです。来たボールをゴールに向かって蹴る。センタリングにダイビングヘッドやボレーで合わせる。どんなシチュエーションであれ、シュートを打てるような練習をさせるべきですね。

 

微差が大きな違いを生む

二宮: 近年、日本は強豪国との比較で「個の強さが足りない」とよく言われています。いい選手は体勢が崩れても軸足がブレませんが、日本の選手はまだそこまでいっていないような印象を受けます。釜本さんの現役時代も軸足が安定していました。
釜本: 親からもらった ものが優れていたのかもしれませんが、僕らはやはりトレーニングをしていましたよ。人が見ていないところでやっていました。今でもサッカー教室などで、子 どもたちに言うんです。「家に帰って、シャワーを浴びる前の10分でいい。腹筋、腕立て、スクワット、何でもいいから、他の人が遊んでいる時にやりなさ い」と。そうすれば、自然と身体は強くなります。また、「足を振る練習をしなさい」とも。野球選手は家に帰って素振りをするじゃないですか。あれはいかに バットを速く振るための練習。サッカーの選手も足を速く振る練習をすべきだと思うんです。

二宮: それならひとりで、いつでもどこでもできますし、お金もかからない。
釜本: そうですよ。筋力を強くしなければいけない時に、「器具がないとできない」と言い訳をする人がいる。そんなことを言ったら、我々の時代は何もありませんでしたよ。

二宮: 今は科学的なトレーニングも進歩してきていますが、みんな同じことをやっていたのでは抜け出すことはできないと?
釜本: 例えば僕と二宮 さんが同じ練習をしていたとしますよね。どちらが身体的な要素が強いかとなってくる。同じことをやっていたら、差はつかない。“この人よりもオレは強くな るんだ”と思ったのならば、他でやる努力をしなければいけませんよ。“釜本が10回なら、オレは20回やる!”とかね。それが個を強くするやり方じゃない かなと思うんです。勉強でも、学校で授業を受けた後に、家で30分や1時間勉強をする人もいるし、しない人もいる。塾で勉強するのもいい。ただ、何をしに 塾行くのか。他の人より勉強するということじゃないんだったら、行く必要なんてない。サッカーも一緒ですよ。練習が終わって、家に帰って来た時、他の人が 何もしなくても、自分だけは毎日やる。半年も経てば、その差が出てくるはずです。

二宮: 今では多くの日本人選手が海外のクラブに移籍するようになりました。もし釜本さんが生まれるのがもう少し遅くて、選手としての全盛期を今、迎えていたら、大金を稼ぐことができたかもしれませんよ。
釜本: いやいや、どう ですかね(笑)。それはやってみないと、わからないですよ。ただ今の選手たちは、僕らの時と違って、国内にはプロリーグがある。活躍すれば、海外のビッグ クラブへ行くチャンスも広がってきた。そういう意味では、いい時代になったのかもしれません。だからこそ選手たちには、もっと上を目指して頑張ってほしい ですね。

二宮: 最後に、改めて『炭火塩だれとりマヨ丼』の感想はいかがですか?
釜本: 本当にうまい。僕は鶏肉もネギも好きですから、最高の組み合わせです。現役時代の僕と杉山さんぐらい相性が良いんじゃないでしょうか(笑)。

二宮: 絶妙な例えですね(笑)。
釜本: それに、からしマヨネーズがいいスパイスになっている。大変、気に入りました。家族や友人にも是非、薦めたいと思います。

(おわり)

釜本邦茂(かまもと・くにしげ)
1944年4月15日、京都府生まれ。山城高校早稲田大学を経てヤンマーに入社。日本サッカーリーグJSL)では251試合に出場し、202得点を記 録した。64年に日本代表入りを果たし、同年の東京五輪に出場。68年メキシコ五輪では7ゴールを挙げて得点王に輝き、銅メダル獲得に貢献した。84年に 現役を引退した後は、JSLのヤンマーやJリーグガンバ大阪の監督を務めた。96年からは日本サッカー協会JFA)の理事、副会長などを歴任。 2005年に日本サッカー殿堂入りを果たし、08年にJFA名誉副会長に就任。10年からJFA顧問を務める。国際Aマッチ通算 76試合、75得点。男子歴代最多得点を誇る。


▲転載終わり

[虎四ミーティング~限界への挑戦記~]
釜本邦茂(サッカー解説者)<前編>「求む! 一貫性のある監督選考」
2014年08月08日(金) スポーツコミュニケーションズ
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