「北の山・じろう」時事問題などの日記

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社説09月18日(火) 原発ゼロ 空手形に終わらせるな<信濃毎日新聞

信濃毎日新聞
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社説09月18日(火)
原発ゼロ 空手形に終わらせるな
http://www.shinmai.co.jp/news/20120918/KT120916ETI090011000.php
▼全文引用

 

 政府が原発の将来の姿などを示した新エネルギー戦略を決定した。「2030年代に原発稼働ゼロを可能とする」との目標を盛り込んでいる。

 「原発ゼロ」を掲げた点は評価できるが、はっきりしない表現や矛盾した内容が目につく。経済界などが反発しており、努力目標に終わる恐れがある。実現には、法律に裏付けられた目標と具体的な工程表が欠かせない。

 次期総選挙の争点でもある。各党が曖昧さを排した明確な理念と政策を打ち出し、さらに論議を深める必要がある。

   <法律の裏付けが要る>

 新戦略の特徴の一つは、原発ゼロ目標を打ち出したことだ。

 (1)40年運転制限を厳格に適用(2)原子力規制委員会の安全確認を得たもののみ再稼働(3)原発の新設・増設はしない―の3原則を掲げ、「30年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」と宣言した。

 政府は、30年の総発電量に占める原発の比率について、「0%」「15%」「20~25%」の三つの選択肢を掲げ、全国11都市で意見聴取会を開いたり、意見公募をしたり、かつてない規模の「国民的な議論」を試みた。

 新エネルギー戦略は、脱原発を望む強い世論に後押しされ、ようやくまとまったといえる。

 だが、「30年代」「可能とするよう」の表現は玉虫色だ。脱原発に向けた具体策も先送りされた。22年末までに全原発を閉鎖する法律を成立させたドイツのメルケル政権と比べ、野田佳彦政権の方針の危うさは一目瞭然だろう。

   <核サイクルを棚上げ>

 このままだと、政権が代われば方針が反故になりかねない。まして民主党には「公約破り」の前例がある。本気で原発ゼロを目指すというのであれば、首相は 根拠となる法律の成立に「政治生命を懸ける」べきだ。脱原発を掲げる他の政党とともに、国会で成立にこぎつけてもらいたい。

 新エネルギー戦略の特徴の二つ目は、核燃料サイクルの維持を盛り込んだことだ。

 青森県六ケ所村の使用済み核燃料の再処理工場を継続し、同県を廃棄物の最終処分地にしないとの約束を明記している。一方、福井県高速増殖炉「もんじゅ」は、廃棄物を減らす研究施設にするとした。存廃について不透明となった印象は拭えない。

 原発で使用されたウランやプルトニウムを再処理し、利用するのが、核燃料サイクルである。このサイクルを担う主な施設が、青森県の再処理工場だ。「もんじゅ」は使った以上のプルトニウムを生産する「夢の原子炉」と位置付けられてきた。

 だが、再処理工場は高レベルの放射性廃液をガラス固化体にする過程に問題が生じ、本格操業に入れないままだ。「もんじゅ」も、ナトリウム漏れ事故をはじめトラブルが絶えず、再稼働にめどが立っていない。

 再処理工場は着工から19年、「もんじゅ」は27年である。巨額の投資を続けても、技術的な壁を越えられない現状に、核燃料サイクルは破綻しているとの声が高まり、見直しが求められていた。

 青森県は核燃料サイクル路線からの撤退によって、使用済み核燃料や高レベルの放射性廃棄物の最終処分地になることに強い警戒感を抱いている。再処理事業の継続には、国策に協力してきた同県への配慮がある。

 核燃料の再処理など原発の技術は、米、英やフランスとの連携で進められてきた。関係国とのこれまでの経緯も、サイクル路線維持の背景とみていいだろう。

 だが、「30年代にゼロ」というのであれば、その時点で核燃料は不要になる。燃料確保の観点からは、核燃料サイクルにこだわる理由はなくなる。

   <曖昧さ排した論議を>

 原発ゼロを宣言しておきながら再処理を続ければ、核兵器の原材料となるプルトニウムの生産と受け取られる懸念がある。原子力の平和利用という点でも、国際社会に対して説得力を欠く。

 中途半端な姿勢をあらため、政府・民主党は路線転換に向けた姿勢を示すときである。踏みこんだ決断を求めたい。

 福島第1原発の事故から1年半。大事故を起こしながら、原因や責任の所在も明確になっていない。再稼働や核燃料サイクルの是非、将来のエネルギー計画などをめぐる国会の議論も、国民の目から見て不十分だ。

 「曖昧な日本」という言葉が思い浮かぶ。作家の大江健三郎さんがノーベル文学賞を受賞した際の講演「あいまいな日本の私」からの連想である。あれだけの事故を起こしながら、多くのことが曖昧なまま時が過ぎてきた。

 野党の責任も大きい。原発停止を求めて、かつてない規模のデモが起きている。国会は、国民の声を正面から受け止めているのだろうか。事故を踏まえた新たな制度の構築は、国会の責務である。