「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

日本の巨大メディアを考える(その7)(その8)「オラさん」の日記

★マスメデイア問題を考える上で参考になると思いましたので、ご本人の承諾を得て転載します。著者は、趣味人倶楽部の「オラさん」です。この日記には、転載・引用の制限は、ありません。利用する場合は、ご自由にどうぞ。

★私は、特定の政党や個人を応援するものでは、ありません。その人や団体の意見・主張が妥当であるか??聞くべきものがあるか??正しいか(部分的に)??を、基準に記事を、引用したり転載したりしています。この点、誤解のないようにお願い致します。



日本の巨大メディアを考える(その1)「オラさん」の日記
2012-05-30 19:30:20
http://ameblo.jp/kitanoyamajirou/entry-11264309005.html

日本の巨大メディアを考える(その2)「オラさん」の日記
2012-05-30 21:02:51
http://ameblo.jp/kitanoyamajirou/entry-11264765503.html

日本の巨大メディアを考える(その3)「オラさん」の日記
2012年05月30日 22時25分
http://ameblo.jp/kitanoyamajirou/entry-11265102750.html

日本の巨大メディアを考える(その4)「オラさん」の日記
2012年05月31日 20時52分 
http://ameblo.jp/kitanoyamajirou/entry-11267243438.html

日本の巨大メディアを考える(その5)(その6)「オラさん」の日記

2012年05月31日 20時52分 
http://ameblo.jp/kitanoyamajirou/entry-11267243438.html


★趣味人倶楽部「オラさん」の日記から全文転載
日本の巨大メディアを考える(その7)
2012年06月05日 19時10分
http://smcb.jp/_ps01?post_id=4275762&oid=269022(会員限定)

(昨日からの続きです)

 最近のことで言えば、原発の問題があります。日本のすべての大手新聞が、1970年代には、電力業界に買収され、原発推進のキャンペーンに、軒並み連座しました。

 原発列島化をすすめたのは、財界、政界、官僚、御用学者、巨大メディアからなる「原子力村のペンタゴン」です。(ペンタゴン=(五角形の意)アメリカ国防総省の通称。アメリカ国防総省の建物が、正五角形をなしているから言う。)

 今日の深刻な事故を引き起こした責任の一端を、日本の巨大メディアも負っているわけです。原発事故のあと、日本の巨大メディアが、その責任を本格的に、自己検証したと言えるでしょうか。ここでも、自分が犯した報道への真剣な反省があるとは、到底言えません。

9.メディアに健全で積極的な活力が残されていた時代
 
 それでも、日本のメディアは、1970年代の前半ごろまでは、公正な報道、「権力のチェック機関」と言う点から見て、積極的な活力もありました。

 例えば、毎日新聞が1968年から69年に企画した、安全保障問題の政党討論会です。5つの政党に「組閣」をさせ、他の4党が「野党」になって、質問を行うという方式で討論が行われ、この企画では5つの政党を、国会の議席に関係なく、平等に扱って行われました。

 当時、日本共産党の衆院の議席数は5議席でしたが、まったく平等に扱った。共産党の「内閣」の顔ぶれは、「首相」となった宮本顕治さん、「閣僚」となった不破哲三さん、上田耕一郎さんは、そろって当時は非議員、国会議員は松本善明さん、渡辺武さんの2人でした。それでも「共産党への質問戦」も同じように平等に扱われ、新聞の紙上で長い連載となりました。

 また、1960年代の末から70年代の前半にかけて、日本共産党が国政選挙で躍進を重ねると、政界に新風を吹き込んだ日本共産党の活動に、メディアも大きな注目をよせ、事実を事実として受け止めた報道を行いました。

 さらに、1973年の田中角栄内閣のときの小選挙区制の企てには、ほとんどのメディアが、「民主主義に反する」として、批判的キャンペーンを張り、小選挙区制の策動を許しませんでした。そのころあたりまでは、いろいろな弱点を持ちながら、健全さを発揮した時期もあったのです。


 今日の「私の俳句」

 ・初胡瓜ひとまづ棘に触れてみる
2012年06月05日 19時10分



★趣味人倶楽部「オラさん」の日記から全文転載
日本の巨大メディアを考える(その8)
2012年06月06日 00時00分
http://smcb.jp/_ps01?post_id=4276584&oid=269022(会員限定)

原発マネー」で総なめにされた大手新聞に猛省を求める

 昨日の日記で、「大手新聞が電力業界に買収され、原発推進のキャンペーンに軒並み連座した」という内容のことを書きましたが、このもっと詳しい話が聞きたいとのコメントがありましたので、調べましたところ、ありました。

 日本共産党創立89周年記念講演会(2011年8月1日)での、「危機をのりこえて新しい日本を」と題する、志位委員長の講演の中に、その部分がありますので、それを引用したいと思います。

原発マネー」で総なめにされた大手新聞に猛省を求める

 私が、深刻だと考えるのは、巨大メディアが、「原子力村」と呼ばれる利権集団の一員に加わっている、という事実であります。

 ここに持って来たのは、電力10社で構成する電気事業連合会で、広報部長を務めた鈴木建氏の回顧録『電力産業の新しい挑戦─激動の10年を乗り越えて』(日本工業新聞社、1983年)と題する本であります。1970年代、電力業界が、巨額の広告料で、大手新聞を次々に買収していった経過が、当事者の口から赤裸々に語られています。

 それは朝日新聞から始まりました。1974年8月から、電力業界の10段のPR広告が、毎月欠かさず「朝日」に掲載されるようになります。

 そうしますと、「早速読売新聞が飛んできた」(笑い)と鈴木氏は書いています。「読売」の広報担当者はこう求めました。「原子力は私どもの社長の故正力松太郎さんが導入したものである。それをライバル紙の朝日にPR広告をやられたのでは、私どもの面目が立たない」(笑い)。こうして、「読売」にもPR広告が載るようになりました。

 「朝日」「読売」とつづきますと、鈴木氏によると、「毎日新聞も馳せ参ずる」(笑い)。「毎日」からも広告の要請が来るようになりました。しかし、「毎日」は当時、原発に反対するキャンペーン記事を掲載していました。鈴木氏はこう啖呵を切ります。「御社ではいま、原子力発電の反対キャンペーンを張っている。それは御社の自由である。・・・・反対が天下のためになると思うなら、反対に徹すればいい・・・。広告なんてケチなことは、どうでもいいではないですか」(どよめきの声)。こう言われて、「毎日」は、原発の記事を「慎重に扱う」と約束し、「毎日」にもPR広告が載るようになりました。

 こうして「原発マネー」は、大手新聞を総なめにしていったのです。

 私が、先日、外国特派員協会でこの話をしましたら、特派員の皆さんは強い関心を持ったようで(笑い)、「一問一答」で最初に出された質問は、「『朝日』が電力業界の買収の最初のターゲット(標的)になったと聞きました。私たちは『朝日』はリベラルと認識していたのですが」というものでした。私は、「大型広告が『朝日』から始まったのは、(電力業界側が)『朝日』がそのような新聞だと、一般に見られていたことを考慮してのことだと思います」と答えました。

 「朝日」には、どんなPR広告が掲載されていたのか。今日は証拠物件(笑い)を持って参りました。これは、1975年8月27日付の朝日新聞に載せられたPR広告です。10段の大きい広告です。大見出しは「原子炉が爆発しないのはなぜか」(どよめきの声)。何と書いてあるか。「原子炉は原爆とはまったく違った性格のものです」、「原子炉の安全設計は、“取り越し苦労”といえるほど、念入りに行われています」、「たとえ、すべての制御装置が働かなくなったとしても、大事故を起こすことはありません」(どよめきの声)。こういうものを出していたんですね。

 「朝日」は、PR広告が掲載されると、自分自身でも原発推進のキャンペーンを張るようになります。1976年の7月から9月にかけて「核燃料─探査から廃棄物処理まで」と題する48回の連載記事が掲載され、この1冊の本(『核燃料 探査から廃棄物処理まで』、朝日新聞科学部・大熊由紀子著、1977年、朝日新聞社)に纏められました。読んでみますと、目を覆うばかりの「原発安全神話」が掲載されております。

 原発事故が起こった後、これらの大手新聞の中には、原発の危険を多少とも伝える報道を始めているところもあります。しかし、自分たちがやってきたことへの猛省が必要ではないでしょうか。(つづく)
2012年06月06日 00時00分