「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

焦点/震災14分後 沿岸支援準備/遠野「扇の要」機能<証言/焦点 3.11 大震災「河北新報」

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」から全文転載
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/index.htm
※記事数が多いため、一部転載し、ほかは記事タイトルとURLの掲載です。

河北新報
トップ >http://www.kahoku.co.jp/
焦点/震災14分後 沿岸支援準備/遠野「扇の要」機能
2011年08月16日火曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110816_01.htm
▼全文転載


遠野市には全国から支援物資が集まり、沿岸部への物資供給でも重要な拠点となった=4月、同市の稲荷下屋内運動場
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110816013jd.jpg
本田敏秋遠野市
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110816014jf.jpg

 民話の里・遠野市東日本大震災以降、後方支援の一大拠点として機能している。被害の大きい岩手県南の沿岸6市町が半径約50キロ圏内にある地理的条件 に加え、震災前から後方支援の構想を掲げ、提言や防災訓練を行ってきた。津波常襲地帯である沿岸部の背後地としての自覚と備えが、「後方支援のモデルケー ス」と評される取り組みを可能にした。(久道真一)

◎背後地、自覚と備え奏功

<運動公園開放>
 3月11日の震災発生からわずか14分後の午後3時。市は遠野運動公園の開放を決めると、照明設備や発電機の設置など自衛隊を受け入れるための準備を進めた。
  翌12日、北東北3県や北海道などから陸上自衛隊の部隊が集結。警察や消防隊も全国から集まり、市を活動拠点にした要員は3月20日時点で約3500人に 上った。陸上自衛隊第9後方支援連隊(八戸市)の佐々木和隆第一科長は「市の協力があり、スムーズに部隊を展開できた」と振り返る。
 素早い対応ができたのは2007年の県総合防災訓練、08年の陸自東北方面隊震災対処訓練で、いずれも会場になったことが大きい。関係機関が津波を想定した後方支援活動をしていた。
 今回、市はコミュニティーセンターなど144の施設を開放。民間宿泊施設の利用も含めると、自衛隊、警察、消防、医療、ボランティアなど250を超す団体が遠野を拠点に活動を展開した。市も独自に救援物資を300回以上被災地に届けた。

<車で1時間圏>
  遠野市は昔から沿岸と内陸の結節点として道路網が整備され、北は宮古市から南の陸前高田市までそれぞれ車で約1時間、ヘリコプターで約15分の距離にあ る。文字通り「扇の要」となっている。物流の大動脈、東北自動車道とは花巻ジャンクション(JCT)を経由し車で1時間弱でつながる。
 そうした地理的特性を生かそうと、元県消防防災課長を務めた経歴を持つ本田敏秋市長の下、市は07年から「後方支援拠点施設整備推進構想」を進め、同年、沿岸7市町とともに協議会を設立。臨時ヘリポートや後方支援棟の整備などを国や県に働き掛けている。
 ことし6月には沿岸被災者の生活再建に向けた「縁(えにし)プロジェクト」に着手。総事業費は4億4000万円で、仮設住宅の整備や被災企業への用地無償貸し出しなど、15の事業に取り組んでいる。
 遠野市からいち早く物資供給を受けた大槌町の平野公三総務課長は「当初、外部に助けを求めることすらできなかったが、遠野市は察してくれた。まだ雪の残る峠越えなど危険を顧みずに、毎日物資を届けてくれた気持ちがありがたかった」と感謝する。
 市沿岸被災地後方支援室の菊池保夫室長は「親類縁者も含め、沿岸部とは昔からいろいろなつながりがある。身の丈の中でやれることをやっていきたい」と話す。

◎救援態勢の在り方/本田遠野市長に聞く/「減災」へ広域連携必要

 各方面から集まった救援部隊・団体を受け入れてきた遠野市。沿岸被災地の支援態勢の構築にリーダーシップを発揮した本田敏秋市長に、後方支援について聞いた。

 ―東日本大震災で、市のスムーズな受け入れ態勢が注目された。
 「震災当初は1日最大6000~7000人の自衛隊、警察、消防が一時、遠野に集結した。それがほぼ混乱なく、この部隊は運動公園、この部隊は高校の体育館といったすみ分けができたのは、過去2回の大規模訓練が大きい。ほぼ完璧に近い受け入れができた」
 「後方支援する自衛隊などの中継基地として協力する遠野の手法は、広域災害における『減災』という課題の一つの重要な切り口になるのではないか」
 ―後方支援の拠点整備構想の策定など、津波対策に取り組んできたのはなぜか。
  「大震災の前に岩手県の沿岸部では過去100年で、3度も大きな津波が押し寄せた。私は県の消防防災課長時代、岩手の災害で一番大変なのは津波だと学ん だ。沿岸部を訪ねて現地を視察した経験などから、後方支援が遠野のまちづくりのコンセプトになるという発想につながった」
 「遠野は藩制時代から人とモノ、内陸と沿岸の交流拠点だった。地盤も安定し、活断層もない。もちろん津波は来ない。周囲から『遠野に津波は関係ないのに』と言われたが『津波が来ないからこそ、遠野の果たす役割がある』と訴えてきた」
 ―救援物資の搬送など市独自の支援活動も、目を見張るものがあった。
  「3月11日は情報源がラジオしかなく、われわれは手も足も出なかった。12日未明、大槌町から1人の男性が助けを求めにきたのが最初のきっかけだった。 すぐに物資を届けさせたが、戻ってきた職員から現地の惨状を聞かされ、自衛隊や警察が集まったから済む話ではないと思った」
 「13日に後方支援活動本部を立ち上げ、沿岸被災地への支援活動を本格化させた。16日には市民ボランティアの募集を開始し、炊き出しや生活用品の搬送、被災者の受け入れなどありとあらゆる活動を職員、市民が一緒に行った」
 ―今後の後方支援の在り方をどう考えるか。
  「例えば宮古市盛岡市でサポートし、大槌町釜石市遠野市で、大船渡、陸前高田両市は一関市と住田町でというようなネットワークができれば、もっと効 率的な支援ができる。それをつくれなかったのが残念。犠牲になった方々のためにも、広域的に新たな仕組みを考えなければならない」

<ほんだ・としあき>神奈川大卒。1970年岩手県庁入り。消防防災課長などを経て2002年の旧遠野市長選で初当選。05年の合併に伴う新市長選に無投票当選し、現在2期目。遠野市出身。64歳。

証言/焦点 3.11 大震災{河北新報・連載記事}
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/index.htm
河北新報
トップ >http://www.kahoku.co.jp/

ご購読案内
http://www.kahoku.co.jp/pub/koudoku/syoukai.htm