「北の山・じろう」時事問題などの日記

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証言/避難者孤立 気仙沼の2合庁/乏しい備蓄 避難者困窮<証言/焦点 3.11 大震災「河北新報」

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」から全文転載
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/index.htm
※記事数が多いため、一部転載し、ほかは記事タイトルとURLの掲載です。

河北新報
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証言/避難者孤立 気仙沼の2合庁/乏しい備蓄 避難者困窮
2011年08月29日月曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110829_01.htm
▼全文転載


3月13日午後、救助された県職員がヘリコプターの中から撮影した県気仙沼合同庁舎。津波で孤立し、住民らは空腹と寒さに耐えた=気仙沼市朝日町
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110829015jd.jpg
気仙沼湾を臨んで並ぶ宮城県(右)と国の各気仙沼合同庁舎。どちらも2階まで水が入り、避難した住民たちは孤立した=気仙沼市朝日町
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110829016jd.jpg

http://www.kahoku.co.jp/img/news/201108/110829_syougen.jpg

  気仙沼湾に面した気仙沼市朝日町に、県と国の合同庁舎が並んで立つ。3月11日の地震直後、5階建ての両施設には職員や周辺の住民ら計380人が避難し た。ともに市指定の避難場所ではなく、県も国も大人数の受け入れは想定外。食料や物資はほとんど備蓄されていなかった。「公共施設なら安心できる」。そう 思って逃げ込んだ住民らは、寒さと空腹に耐えなければならなかった。(田柳暁)

◎「公共施設なら安心」のはずが寒さと空腹に襲われ

<確信>
 「普通の揺れじゃない。すぐに津波が来ると確信した」
 元気仙沼本吉広域消防本部消防長の若杉市郎さん(70)は3月11日午後2時46分、県気仙沼合同庁舎に近い気仙沼市川口町の自宅にいた。
 周辺は標高1メートル未満の埋め立て地で、住宅や水産加工場が立ち並ぶ。「高い建物は合庁しかない」。近くの高齢者らにすぐ避難するよう呼び掛けながら、妻と着の身着のまま合庁に向かった。
 県合庁に駆け込んだ直後、真っ黒な津波が2階の天井裏まで押し寄せた。入居する三つの出先機関の職員約70人、周辺の住民や工場従業員ら約220人の計約290人が孤立した。
 駐車場にあった車は木の葉のように浮き、住宅は軒並み流され、送電線の鉄塔も倒れて水しぶきを上げた。

<決然>
 「もう自宅があるとは思わないでください」
 川口町自治会長の池原修さん(68)は庁舎内に座り込んだ人たちに呼び掛けた。声が震えた。
 近くに住む小山利幸さん(84)は50年住んだ自宅が流されるのを見て、言葉を失った。「どうすることもできない。情けなさすら感じた」
 夜、厳しい寒さ。ストーブはお年寄りを集めた部屋の1台しかなかった。数人で肩を寄せ合い、1枚の毛布にくるまった。体に新聞紙を巻き付ける人も。住民たちは庁舎にあった職員用の乾パンや飲料水でしのいだ。
 海上では流れ出た重油に引火し、海を真っ赤に染め上げた。時折ガスボンベが「ボン」と不気味な音を立てた。
  寒さと空腹と恐怖が襲う。「必ず救援が来る。きっと助かる」。県の若手職員は夜通し、避難者に声を掛け続けた。本庁舎との連絡も途絶えがちで、職員の疲労 も濃い。県気仙沼地方振興事務所の木村雅春さん(47)は「避難者に不安な表情は見せられない。決然とするよう職員に諭した」と振り返る。

<脱出>
 隣接する国の合庁。やはり、気仙沼海事事務所など入居する4機関の職員約40人に加え、周辺住民ら約50人が取り残されていた。
 気仙沼海上保安署が5階に入っていたことが、幸いだった。海保の通信機器や一部の発電機が使えた。署長の高橋昇さん(56)は「電話は通じず、唯一外部との連絡ができたのが無線。避難者の状況を伝え、骨折した人の救助を要請することができた」と語る。
 波をかぶった避難者には海難救助者用の着替えを提供した。海保や海事事務所が職員向けに備蓄していた非常食を少しずつ分け合った。
 県合庁では12日午後から13日朝にかけて約200人が二手に分かれ、避難所に向けて徒歩で脱出した。「膝元まで水に漬かりながらがれきの中を歩き続けた。住み慣れた街なのに、ここがどこなのか分からない状態だった」と若杉さんは言う。
 高齢者らは庁舎に残って救助を待ち、国合庁にも高齢者や女性がとどまった。
 自衛隊や東京消防庁のヘリコプターが、二つの合庁から住民を救助したのは地震から2日後、13日だった。

◎住民用食料、想定せず/防寒具、職員用でしのぐ

  気仙沼湾沿いに立つ県と国の合同庁舎(気仙沼市朝日町)。気仙沼市の指定避難場所ではなく、避難者向けの食料や毛布などの備蓄はほとんどなかった。県合庁 は市指定の一時避難ビルになっているが、備蓄の義務はない。国合庁は一時避難ビルにも指定されていない。災害時、市町村の公共施設が近くになく、住民が避 難する可能性がある県や国の施設はどう備えるべきなのか。
 一時避難ビルは、津波の際、近くに高台がない沿岸部の住民が緊急的に身を寄せる施設。気仙沼市が1982年に県内で初めて導入した。
 市は鉄筋コンクリートで3階建て以上といった要件を満たした施設の管理者に受け入れを要請。承諾を得られた県合庁やホテル、民間ビルなど計15カ所を一時避難ビルに指定していた。
 市は「あくまで一時的な避難。津波の危険がなくなった場合、速やかに学校などの指定避難場所に移動するよう求めている」と説明する。備蓄については「各自が持ち込むのが原則。一時避難用に間借りしているので、備蓄を強く要請できない」と言う。
 県合庁では職員用に乾パンや飲料水があったが、住民への提供は想定していなかった。庁舎5階の食堂にあったタマネギやコメを使っておかゆを作り、配るのがやっと。1階にあった非常用電源も津波に沈み、利用できなかった。
 国合庁は、各機関が職員向けに一定量を備蓄していた。気仙沼海上保安署では十数人いる署員の1週間分を保管。水を注ぐだけで食べられるアルファ米やひもを引くと加熱できる弁当もあり、住民が温かい食事を口にすることもできた。
 毛布や布団は両庁舎とも不足した。近くの水産会社や庁舎内の宿直室などから持ち寄ったり、職員用の防寒着を着たりして寒さをしのいだ。
 県合庁に近い川口町自治会は、津波の恐れがあるときは県合庁に身を寄せることを決め、避難訓練を繰り返してきた。昨年2月のチリ大地震津波のときも、一部の住民が避難した。
 自治会長の池原修さん(68)は「一時避難の場であったとしても、最低限の食料や水はあると思っていた。今回のように津波の規模が大きくて、数日間移動できないことも考えられる」と備蓄の必要性を訴える。
 国合庁1階にあるハローワーク気仙沼相談員で、国合庁で2晩を過ごした梅津由美さん(61)も「津波のときは身近で安全な高い場所に逃げるのが当然。管理が県だとか国だとかいわず、備蓄すべきではないか」と指摘する。
 宮城県地域防災計画では、食料などは市町村が備蓄することになっている。県や国は住民向けの備蓄を施設ごとにする考えはないという。
 一時避難ビルの在り方について気仙沼市は「ビルの高さや、波の強さに耐えられるかなどの検討が、今後必要になる。長期間とどまることも踏まえて課題を整理したい」と話している。

証言/焦点 3.11 大震災{河北新報・連載記事}
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/index.htm
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