「北の山・じろう」時事問題などの日記

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証言/450人が孤立 気仙沼中央公民館/迫る猛火 水・食料枯渇<証言/焦点 3.11 大震災>

証言/焦点 3.11 大震災「河北新報・連載記事」から全文転載
※記事数が多いため、一部転載し、ほかは記事タイトルとURLの掲載です。

河北新報
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証言/450人が孤立 気仙沼中央公民館/迫る猛火 水・食料枯渇
2011年06月20日月曜日
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1071/20110620_01.htm
▼全文転載



2階天井付近まで水に漬かりながらも、約450人が無事救助された気仙沼中央公民館=5月14日、気仙沼市潮見町
http://www.kahoku.co.jp/img/news/2011/20110620007jd.jpg

http://www.kahoku.co.jp/img/news/201106/20110620a10zu.jpg

 東日本大震災の津波襲来時、気仙沼市潮見町の気仙沼中央公民館には近くの保育所に通う0~6歳児の71人を含む約450人が避難した。一部3階建ての公 民館は一時、2階天井付近まで水没し、完全に孤立。そこに猛火が迫った。避難者は極限の状況下で2晩を過ごし、3日目にようやく全員が脱出した。(東野 滋)

◎響く子どもの悲鳴、「このまま焼け死ぬのか…」

<緊迫>
 3月11日午後2時46分。気仙沼市一景島保育所は昼寝の時間だった。当時の林小春所長(59)ら保育士は子どもたちに覆いかぶさり、揺れが収まるのを待った。
 外に飛び出し、0~2歳児を「避難車」と呼ばれる大型の乳母車に乗せる。3歳児以上は歩かせ、約100メートル離れた気仙沼中央公民館に向かった。
 保育所は月1回、避難訓練を行い、強い地震後は公民館を目指すことを徹底していた。「緊迫した雰囲気を感じ取ったのか、子どもたちもおとなしく行動した」と林所長。2日前の3月9日の地震で自主避難したばかりだったことも、順調な避難につながった。
 公民館に着いたのは午後3時前。一番乗りだった。近所の住民や水産加工工場の従業員が続々と集まり始めた。
 騒然とする中、保護者も大勢駆け付けた。子どもを車に乗せて連れ帰ろうとするのを、保育士らは必死に引き留めた。周辺の道路では、海辺から離れようとする車の渋滞が発生していた。

<土煙>
 「大津波警報が出ている。ここの高さでは危ないかもしれない」。2階の和室で誰かが大声を上げた。午後3時半ごろ、子どもらが慌てて3階に移った直後に第1波がやって来た。
 白い波は気仙沼湾に面した工場や倉庫の高い屋根を乗り越え、土煙を上げながらごう音とともに迫った。「きゃー」。子どもたちの悲鳴が響く。公民館は衝撃で激しく揺れた。津波は2階の天井付近まで到達した。
 ラジオは今後の波の方が高い可能性を伝えている。すぐに3階部分の屋上への避難が決まった。
 屋上への避難ばしごは、1段目の高さが大人の男性の背丈ぐらいある。子どもは上れない。若い男性5、6人がおんぶひもを使い、交代で担ぎ上げた。
 地震後に勤務先から公民館に避難した会社員沢井克行さん(27)もその1人だ。「怖くて泣いている子が多かった。体力に余裕のある人が手伝った」と振り返る。
 「ボン、ボン」。屋上に上がると、気仙沼湾に流れ出た重油に火がつくのが見えた。炎は海面のがれきに燃え移り、あっという間に公民館を取り囲んだ。

<不安>
  「このまま焼け死ぬのか」。辺りに充満した煙を避けるため、避難住民らは再び3階に戻り、すすで真っ黒になりながら衣類を鼻と口に当てて耐えた。避難者で 作った名簿によると、公民館に身を寄せたのは446人。備蓄の乾パンや水が子どもと高齢者に優先で配られたが、とても足りない。水は口を湿らせる程度だっ た。
 夜になると、厳しい冷え込みが襲った。毛布も少ない。限られた枚数を床に敷き、数人ずつでうずくまった。隣り合った人の体が密着するほど狭く、一晩中立ちっぱなしの人もいた。
 外の火災は続き、公民館は余震のたびに大きく揺れる。沢井さんは不安を募らせた。「水も食料もなく、子どもが多い。救助まで時間が掛かれば大変なことになる」。誰もが眠れないまま夜が更けていった。

◎SOSメール、世界巡る/都に届きヘリで救出

 地震と津波の発生から一夜明けた3月12日午前9時半、ヘリコプターが気仙沼市潮見町の気仙沼中央公民館上空に現れた。
 胴体に「東京消防庁」の文字。建物周囲の水位は1階まで下がったが、着陸できる場所はなく、避難者をつり上げての救助が始まった。
 東京消防庁のヘリが真っ先に駆け付けたのには理由があった。
 公民館には、同じ区画にあった市の心身障害児施設「マザーズホーム」の職員4人も避難。内海直子園長(58)は11日夕、3階部分の屋上から、携帯電話で家族にメールを送信した。
 「公民館の屋根にいる」「火の海 ダメかも 頑張る」
 メールは転送され、ロンドンに住む長男のアクセサリーデザイナー直仁さん(31)にも伝わった。直仁さんはすぐに短文投稿サイト「ツイッター」に救助を求めるメッセージを書き込んだ。
 直仁さんの投稿は、多くのツイッター利用者が引用して再投稿することで「拡散」。ついには猪瀬直樹東京都副知事の目に留まり、ヘリの派遣につながった。
 内海園長は「降りてきた救助隊員にいきなり『園長はいますか』と尋ねられ、びっくりした。電話がつながらず、救助を求められない中、まさに奇跡だった」と話す。
 途中から自衛隊のヘリが応援に加わったが、この日の救助活動は重病人と高齢者、一部の子ども計約50人を収容して終了。残った約400人は2度目の夜を迎えた。
 誰もが疲労していた。脱水症状で吐いたり、熱を出したりした子どもも多く、ヘリが投下したペットボトルの水を飲ませた。
 「水が引いている」。13日朝、公民館に隣接するグラウンドにヘリが着陸可能になった。降下地点まで木の板で道を作り、その上を歩いて順番に乗り込んだ。
 東京消防庁の最後のヘリが飛び立ったのは午後1時。地上から歩いて脱出した人も含め、446人全員が無事に生還を果たした。
 「子どもを火で死なせるのはかわいそうで、いっそ自分の手で楽にしてあげようとまで考えた」
 5月21日に行われた一景島保育所の退所式で、ある母親が担任に対し、公民館での心境をこう打ち明けたという。
 当時、所長だった林小春さん(59)は「津波からは何とか生き延びたが、火と煙で誰もが本当に追い込まれていた」と振り返り、こう付け加える。
 「とにかく子どもを守ろうと必死だった。でももう一晩、公民館にいたらどうなっていたか分からなかった」

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