「北の山・じろう」時事問題などの日記

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発信箱:「公害の世紀」に別れを=二木一夫<毎日新聞>

毎日新聞
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発信箱:「公害の世紀」に別れを=二木一夫
毎日新聞 2013年06月20日 大阪朝刊
http://mainichi.jp/opinion/news/20130620ddn005070028000c.html
▼全文転載

 

 戦前にも公害反対運動は、いくつかあった。愛媛県の別子銅山の煙害は、半世紀近くにわたる農民闘争の末に解決している。

 精錬所から出る亜硫酸ガスで農作物の被害を受けた農民らが県への陳情などを始めたのは1890年代初めだ。精錬所が無人島に移ると、かえって被害範囲は広がった。農民らは県、国会、政府に請願し、企業との間で協議会が設置された。

 両者は農商務相の裁定で、損害賠償と操業制限に関する契約を結んだものの、その実現を巡って協議会は続く。企業が煙害除去設備を完成させて、反対運動が終結したのは、無人島移転から34年後の1939(昭和14)年のことだ。

 大正デモクラシーが公害運動の世論を形成したとも言え、戦争の色が濃くなると、その動きは影を潜めた。 工業都市に発展した兵庫県尼崎市は、ばい煙に悩まされていたが、「挙国一致、戦力増強が最優先で、公害に対する苦情など口に出来なくなった」(尼崎商工会 議所80年史)。高度成長期も産業優先で市民の健康は二の次にされる。

 尼崎公害訴訟の原告団は「道路の公共性か、住民の生命か」を問い、判決は後者を選ぶ。だが、国側は法廷で「大気汚染より家庭のガスコンロの方が深刻」と憤らせる発言までして抵抗した。

 原告団は和解後、そういう相手を同じテーブルに着かせて話し合いを重ね、環境対策の継続を約束させた。景気動向で通行量は増減し、対策が進んでいるかの検証はこれからも欠かせない。

 合意書調印までに原告の半数が亡くなり、81歳の松光子団長は「一字一字に一人一人の命が書き込まれている」と言う。「公害の世紀」から決別する共同宣言であってほしい。(論説委員)

 

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