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長崎原爆:ソ連が写した被爆1年後 自宅バラック、白骨が散乱 78歳被爆者、平和願い語り継ぐ<毎日新聞>

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長崎原爆:ソ連が写した被爆1年後 自宅バラック、白骨が散乱 78歳被爆者、平和願い語り継ぐ
毎日新聞 2013年08月09日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/news/20130809ddm012040038000c.html

 ▼全文転載

 

 「ここのバラックに住んでいました」。ソ連が原爆投下から1年後の1946年9月に撮影していた長崎の 写真。長崎市の被爆者、下平作江さん(78)が指さした先にはバラック群が写っていた。当時11歳。この焼け野原から立ち上がった記憶を呼び起こしなが ら、下平さんは「ソ連は当時、これだけの恐ろしさを知っていたのだから、核兵器を持たない方向へと進むべきだった」と厳しい口調で語った。【樋口岳大、下 原知広】

 写真の焼け野原は長崎市・旧駒場町。被爆前、ここに下平さんの自宅はあった。爆心地から約300メート ル。自宅付近にいた母と姉は黒こげになって死んだ。下平さんは約500メートル離れた防空壕(ごう)で7歳の妹、1歳のいとこと共に被爆した。通っていた 城山国民学校(現城山小)は原爆で壊れ、46年春から山里国民学校(同山里小)に通った。

 その頃、生き残った近所の人たちとバラックを建てて暮らし始めた。下平さんたちのように子供だけが生き 残った家族や、朝鮮人の家族など5世帯が15畳ほどの小屋に身を寄せた。進駐した米軍が捨てた食べ残しの缶詰を拾い、ソーセージを川で洗って口にした。周 囲には白骨が散乱していた。

 蚊帳もなく、妹は蚊に刺された腹をかき、その部分が腐るほどうんでうじ虫がわいた。「取ってくれんね」。妹は泣いたが、暗くて取ってやれなかった。金がなくて医者を呼ぶこともできなかった。妹は17歳の時、貧しさと病気を苦に列車に身を投げて命を絶った。

 後を追おうとした下平さんを引き留めた隆敏さん(昨年3月、83歳で死去)とその後に結婚。同じ被爆者 であり、病に苦しむ夫を内職などで支え、生活は厳しかったが3人の子供に恵まれた。「私と同じ苦しみを味わわせたくない」。40歳ごろから被爆体験講話を 始め、白内障や肝硬変などの病に苦しみながらも平和を願い、自らの体験を伝えてきた。

 「核兵器がある限り、平和は訪れない」。被爆から68年がたち、下平さんが「バラック」と言っても意味を知らない子供が増えた。それでも、下平さんは長崎を訪れる子供たちにバラック生活を語り継ぐ。

 

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