{日米同盟と原発}第2回「封印された核の恐怖」 (2)悲劇は「日本の宣伝」<東京新聞>
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【特集・連載】
日米同盟と原発
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/index.html
第2回「封印された核の恐怖」 (2)悲劇は「日本の宣伝」
2012年9月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100005.html
▼全文転載
米、報道を規制
「核の恐怖」を隠そうとしたのは、原爆を投じた米国も同じだった。
広島の原爆投下からちょうど1カ月たった1945(昭和20)年9月6日。東京・帝国ホテルの一室で、米軍将校らが海外の報道陣を対象に、広島の状況に関する非公式の説明会を開いた。戦争が終わり、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入っていた。
説明会で、主に発言したのは米原爆開発「マンハッタン計画」の副責任者、米軍准将トマス・ファレル(53)だった。ファレルは「原爆で死ぬべき者は全員死んだ。現時点で放射能に苦しむ者は皆無だ」と述べ、放射能の影響が長期に及ぶことはない、と強調した。
広島の現地ルポを報じたオーストラリアの記者が原爆投下から数週間後に市内の川で魚の群れが死んだという目撃談をぶつけると、ファレルはこう反論した。「君は日本の宣伝の犠牲になったのかね」
戦争が終わると、日本は一転して広島、長崎の原爆を公式に認め始めた。
終戦翌日の45年8月16日付の新聞は「爆発後、相当の期間、かなり強力なベータ線及びガンマ線などの放射線が存在する。…ある程度以上強い場合 には人体に影響を与えることも考えられる」という仁科芳雄の談話を掲載した。広島で被ばくした劇団女優が頭髪をなくし、ついに死を迎えたという記事も。日 本国内で米国の「非人道性」を糾弾する論調が高まっていた。
ファレルは、帝国ホテルの説明会から6日後の9月12日に開いた記者会見でも「現時点で危険な量の残留放射能は測定できない。放射能で傷害を負った人は爆発時の照射の影響を受けただけだ」と、繰り返した。
米国にとって、予期せぬ結末だったからではない。それどころか、米国は原爆投下前から放射能の影響を分析していた。それを裏付ける文書が米公文書館に残っている。
「戦争兵器としての放射能」と題された43年7月27日付の公文書。戦時中、機密扱いだったこの文書には、マンハッタン計画の一環として、主要科学者たちが放射能の毒性を検討している様子が書かれている。
科学者らは「大量に使われるほど大きな傷害を与える」「(攻撃を受けたら)全軍を避難させ、すぐ爆心地の放射線量を測る必要がある」など、まるで自ら言い聞かせるかのように放射能の恐ろしさを語っている。
報道などを通じ、明らかになりつつあった広島、長崎の悲劇。GHQは45年9月19日、「プレスコード(新聞規制)」を敷き、原爆報道を厳しく制 限した。米国内でも一部の科学者らが核の残虐性に批判の声を上げており、国際的な非難に広がることを恐れた米国は情報統制を一段と強めた。
ファレルの上司で、マンハッタン計画責任者の米軍准将レスリー・グローブス(49)が46年6月19日にパターソン陸軍長官に送った公文書にはこう書かれてある。
「(米国の)医師団による分析が完了するまで、放射能については公式声明を出さないでほしい。強調した表現は、扇情的な報道につながる」
GHQのプレスコードは、占領期の終わるサンフランシスコ講和条約発効の52年4月まで続いた。その間、広島と長崎の被ばく者たちの苦しみは、世間の目から遠ざけられた。
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{日米同盟と原発}第2回「封印された核の恐怖」 (1)死の街ヒロシマ<東京新聞>
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日米同盟と原発
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/index.html
第2回「封印された核の恐怖」 (1)死の街ヒロシマ
2012年9月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100004.html
▼全文転載
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもち ろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実 態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から 米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
原爆認めぬ軍部
1945年10月、原爆の爆風で建物が吹き飛び、がれきに変わった広島市中心部。撮影地点は爆心地から120メートル=広島平和記念資料館提供 |
広島の原爆投下から2日後の1945(昭和20)年8月8日。戦時中、陸軍の要請で原爆開発「ニ号研究」を指揮した理化学研究所の仁科芳雄(54)は東京・羽田から軍用機で、広島に飛んだ。陸軍中佐、新妻清一(35)ら軍の技術将校も同行した。
米大統領トルーマンは投下直後、米国民に向けた声明で、世界初の原爆使用を宣言。仁科らは出発前、旧知の記者を通じて、その内容を知らされた。日本の科学技術では到底無理だった原爆開発に、米国は本当に成功したのか。仁科らの任務は現地で、それを確かめることだった。
広島の上空に差しかかったのは8日夕。低空で2、3周旋回した。窓の下に西日に照った街が広がった。市中心部は焼け果て、2キロ先の家屋まで爆風で壁がえぐられていた。
ニ号研究で仮定した原爆の威力とほぼ一致するすさまじさだった。広島入りする前、ある程度の覚悟を決めていた仁科ですら、その惨状に息をのんだ。戦後の46年に発行された雑誌「世界」への寄稿文で、仁科は当時の模様をこう振り返っている。「死の街の様相を呈していた」
仁科は8日のうちに、鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常(43)に電話で報告した。「残念ながら原子爆弾に間違いありません」
だが、第一人者の仁科が原爆と認めたにもかかわらず、当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした。放射能による被ばくを隠すためだった。投下後も 何十年にもわたり人間を苦しめる原爆。そんな「大量殺りく兵器」で攻撃を受けたことが分かれば、国民はおびえ、戦意を失うのではないか、と恐れた。
そう思っていたやさきの9日、今度は長崎に原爆が落とされた。
仁科とともに広島入りした陸軍中佐、新妻ら軍部は翌10日、ひそかに報告書をまとめている。広島の被害状況などから「原子爆弾ナリト認ム」と明記 した上で「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」と、放射能の危険性をはっきり指摘していた。
草案は新妻が書いた。広島平和記念資料館に保存されている草案には「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」との一文が加えられていた。報告書の存在は戦争が終わるまで公になることはなかった。
大本営は8月15日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまいだった。
こうした軍部の対応を科学者、仁科はどう見ていたのか。
仁科の次男で、現在は80歳の名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)の浩二郎は当時、中学生。玉音放送が流れた15日、広島、長崎の調査を終えて理研に戻った仁科が「『軍人は何度言っても、原爆だと認めようとしなかった。閉口した』と話していた」と証言する。
仁科が原爆直後の現地調査を記録した大学ノート。投下からきのこ雲が上がるまでの様子を記した図が描かれている |
仁科は8日間の現地調査の間、被ばく危険性が高い爆心地付近にあえて足を運び、鉄の破片や小石を拾い集めた。放射能汚染を調べるサンプルだった。
被ばくの症状や田んぼの土壌汚染、変死した川魚など科学者の視点で現場を見つめ、大学ノート2冊に手書きした。ノートは原爆直後を知る貴重な資料として、今も仁科記念財団(東京都文京区)に眠っている。
日本の原爆開発を担った仁科が調査に没頭したのは果たして知的好奇心か、罪滅ぼしか-。生前、誰にも話していないが、次男、浩二郎は「父は死を覚悟していたはず。科学者の責任がそうさせたのだろう」と推測する。
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{日米同盟と原発}「被ばくの公表避けよ」 広島原爆で旧軍部指示<東京新聞>
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【特集・連載】
日米同盟と原発
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「被ばくの公表避けよ」 広島原爆で旧軍部指示
2012年9月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100003.html
▼全文転載
1945(昭和20)年8月6日の原爆投下直後、広島で被ばく状況などを調べた大本営調査団の旧日本陸軍幹部が「人間に対する被害の公表は絶対に避けること」と指示していた。調査団がまとめた報告書の草案に記述が見つかった。
草案は調査団の現場責任者で、原爆投下から2日後に広島入りした陸軍中佐、新妻清一氏(故人)が手書きした。新妻氏が長く自宅で保存し、本人が生前の94年に広島平和記念資料館(広島市)に寄贈した。
草案によると、爆弾はその威力やフィルムが放射線で感光していたことなどを根拠に「原子爆弾ナリト認ム」と結論。被ばく者の症状などから「ベータ線ノ作用アル疑アリ」と、拡散した放射能による被ばくの危険性を指摘しながら、公表見送りを求める一文が加えられていた。
大本営は、この草案を基に45年8月10日、「原爆である」と結論づける報告書をまとめたが、原爆であることは戦争が終わるまで伏せられた。
広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師は「非公表の指示は軍部の意向だと思うが、まさか文書で残っていたとは。国民の戦意喪失や広島への救援活動の停滞を恐れたのだろう。原爆投下直後の大本営の情報統制を裏付ける資料」と話している。
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{日米同盟と原発}戦後復興と原子力をめぐる動き
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戦後復興と原子力をめぐる動き
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110802100009.html
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{日米同盟と原発}極秘文書に科学者81人の思想選別<東京新聞 TOKYO WEB>
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日米同盟と原発
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極秘文書に科学者81人の思想選別
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110802100009.html
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朝永氏、南部氏もリストに
日本の原子力再開をめぐり、当時の政府高官らが1954(昭和29)年2月に作成した極秘文書には、後にノーベル物理学賞を受賞する学者やその恩師らも思想選別の対象になっていた。
2008年にノーベル賞を受賞した京産大の益川敏英教授の恩師として知られる名古屋大教授の坂田昌一(43)。素粒子論をリードした当時若手の科 学者だったが、文書では「極左派」。「保守政府での原子力研究に反対している。左派の一部や中立系の学者の大部分は米国に依存することを排している」と記 載された。
1965年にノーベル賞を受賞した東京教育大(現・筑波大)教授の朝永振一郎(47)は「中立」。日本学術会議で原子力再開を提案した阪大教授の 伏見康治(44)は「原子力に熱心、左」とされた。81人の科学者リストには08年にノーベル賞を受賞した当時33歳の南部陽一郎シカゴ大名誉教授らも含 まれていた。
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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (5)札束でひっぱたく (東京新聞)
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日米同盟と原発
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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (5)札束でひっぱたく
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000262.html
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日本の原子核研究者を思想選別した文書。大学名や専攻とともに「内心は右」「極左」などと書かれている |
初の原子力予算
科学技術振興費の3億円の中に原子炉製造やウラン探査などで、2億7500万円(現在の30億円相当)。54年度政府予算案の審議中で、まったくの抜き打ちだった。原子力予算を盛り込んだ修正予算案は翌4日の衆院本会議で賛成多数であっさり可決される。
原子力予算の策定で中心となったのは改進党で青年将校の異名を持つ中曽根康弘(35)と、TDK創業者としても知られる斎藤憲三(56)だった。
後に首相となる中曽根は51年、日米講和交渉で来日した後の国務長官ダレス(62)に「独立後の日本に原子力研究の自由を認めてほしい」との文書を手渡すなど独立回復の前から原子力の再開に熱を上げていた。
53年7月には米ハーバード大の招きで訪米。ニクソン政権で国務長官を務めるキッシンジャー(30)が主宰する国際セミナーに参加し、ニューヨー クで米財界人と懇談した。自著「政治と人生」で「原子力研究が民間に公開され、経済界が動き始めていた。世界の大勢に遅れてはならないと痛感した」と、当 時を回想している。
中曽根は西海岸サンフランシスコ近郊の米バークレー国立研究所で働く物理学者、嵯峨根遼吉(47)も訪ねている。中曽根の著書によると、原子力再 開に何が必要かと尋ねたところ、嵯峨根は「長期的な国策、予算と法律、安定的な研究の保証」と答えた。これが、中曽根らの原子力予算のヒントになった。
嵯峨根は日本の物理学の祖、長岡半太郎を実父に持ち、戦時中は原爆製造計画「ニ号研究」に参加。後に渡米した経団連会長の石川一郎(68)も嵯峨根に会っている。その石川は56年に発足した原子力委員会の初代委員長代理に就任した。
原子力予算をめぐり、野党の社会党は反対した。が、当時政策担当の書記だった現在87歳の後藤茂は「予算がついてからは党派を超えて推進するようになった。日本の復興を原子力に託すようにね」と証言する。
しかし、科学者らにとっては寝耳に水だった。何の相談もなく、政治主導で原子力研究が再開されることに当時、日本学術会議の会長になっていた茅(かや)誠司(55)らは、中曽根や斎藤に「学界軽視だ。予算がついても着手するのは難しい」と撤回を求めた。
物理学者、武谷三男(42)は著書「原子力と科学者」で、中曽根が「学者がボヤボヤしているから、札束でほっぺたをひっぱたいて目を覚まさせる」 と言い返したと記すが、当の中曽根は一貫して否定。「原子力開発10年史」(65年刊行)の寄稿文でも「そんな軽挙な発言をしたことはない」と書いてい る。
ただ、55年5月の衆院予算委員会公聴会では「先生方の力では打開できない。政治の力でなくてはならぬ」と発言している。
東京工業大の山崎正勝名誉教授を通じ本紙が入手したコピーによると、その日本語文書は「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者につい て」の題名。原子力予算が計上される直前の54年2月24日、日本政府高官の手によって作成された。その年の9月27日に在日米大使館を通じ国務省へ提供 されたことを示す記載があった。
文書は「原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである」と指摘。日本人科学者81人をリストアップし 「左」「中立」「右」などと、思想選別してあった。日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(47)は「表面は中立、内心は右」と記されていた。
日米両政府が日本の原子力再開で、科学者の動向に神経をとがらせていたことを示す内容。表紙に作成者とみられる文部省(現・文部科学省)政務次官 の福井勇(50)と通商産業省(現・経済産業省)工業技術院長の駒形作次(50)の名前と肩書が手書きのアルファベットで記されていた。
しかし、原子力予算が世に出た時期とほぼ同じ54年3月1日、太平洋のはるか南東沖で、日米を揺るがす大事件が起きていた。
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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (4)仕組まれた「わな」 <東京新聞>
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日米同盟と原発
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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (4)仕組まれた「わな」
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000260.html
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平和を隠れみの
1953(昭和28)年12月8日、米ニューヨークで開かれた国連総会。この年の1月に就任した米大統領アイゼンハワー(63)が世界を揺るがす歴史的な演説を行った。
「核による軍備増強の流れを逆に向かわせられれば、もっとも破壊的な力が、人類に恩恵をもたらすようになる。平和利用は夢ではない」
核保有国が持つ天然ウランや核分裂性物質などを国際社会が共同管理する画期的な提案だった。世界は米国自ら核の独占を放棄し、原子力の平和利用を目的に核技術を提供すると受け止めた。米メディアは「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」とたたえた。
しかし、それはとても平和と呼べるものではなかった。米国が従来の核戦略を180度転換したのは、ソ連に対する軍事上の理由にすぎない。
国連総会の4カ月ほど前の53年8月、ソ連は内陸部のセミパラチンスク実験場で水爆実験に成功した。米国が太平洋のエニウェトク環礁で世界初の水 爆実験を行ってからわずか9カ月だった。原爆の成功が米国の4年遅れだったのに比べ、ソ連の核開発能力は格段にスピードアップしていた。
ソ連の水爆実験成功から1カ月後、米国の原子力政策を担う原子力委員会(AEC)の委員長ストローズは米軍幹部の情報を大統領にメモで伝えてい る。カンザス州のアイゼンハワー大統領図書館にあるそのメモは「私たちには蓄積があるが、ソ連は急速な発展を遂げている」などと記されていた。
ソ連は核兵器だけでなく、発電用として51年9月、モスクワ郊外のオブニンスクで原発建設に着手。その原発技術を中国やチェコスロバキア、ポーランドなど同じ共産主義国へ提供する原子力外交を仕掛けており、米国は核独占の優位性が崩れつつあった。
「アトムズ・フォー・ピース」演説の1カ月ほど前、米国は「ニュールック」と呼ばれる新たな大量報復戦略を決定している。原爆などの核兵器を「最 終兵器」から「通常兵器」に転換する軍拡路線だった。当時の国家安全保障会議(NSC)の文書には「戦争時には、ほかの武器と同じように核兵器も使えるも のとみなす」などと記述されている。
アイゼンハワーは大統領在任中、就任時に1000発だった核兵器をその20倍以上の2万2000発に増やしている。「アトムズ・フォー・ピース」 の本当の狙いは平和利用の名の下に原子力技術を積極的に提供することで、世界の核アレルギーを和らげ、大量の核配備を進めることだった。
アイゼンハワー大統領図書館に保管されている国防総省の心理作戦コンサルタント、ステファン・ポッソニー(39)が52年10月にまとめた報告 書。「原子力が平和と繁栄をもたらす建設的な目的に使われれば、原子爆弾も受け入れられやすくなるだろう」との助言が記されていた。
それから半年ほどの53年3月末にワシントンで開かれたNSCの特別会合。極秘メモによると、この中で、大統領と国務長官ダレス(65)は「核兵 器使用に対するタブーを壊さなければならないという意見で一致した」。ダレスは「今の国際世論を考えると原爆は使えないが、この世論を打ち消すためにあら ゆる努力をすべきだ」と述べたという。
世界を駆けめぐった原子力の夢。それは米国が冷戦下で仕組んだ「わな」でもあった。しかし、その夢にすがるように日本の政界は慌ただしく動きだす。米国が広島、長崎に原爆を投下してから8年の歳月が流れていた。
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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (3)被ばく教授、涙の演説 <東京新聞>
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/index.html
第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (3)被ばく教授、涙の演説
2012年11月7日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201211/CK2012110702000259.html
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1961年の退官記念講義で教壇に立つ三村教授=広島県竹原市の市歴史民俗資料館提供 |
警戒する科学者
日本学術会議の総会は1952(昭和27)年10月23日、東京都内で開催された。
政治主導で原子力研究の再開を目指す自由党の衆院議員、前田正男(39)の提案に賛成したのは阪大教授の伏見康治(43)と学術会議副会長の茅(かや)誠司(53)だった。2人は政府内に原子力問題を検討する委員会の設置を共同提案し、総会の了承を求めた。
後に学術会議会長を務め、参院議員にもなった伏見は戦前、阪大で原子核物理を専門とする若手研究者だった。終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ) が研究室にあった原子核の実験装置「サイクロトロン」を破壊した現場にもいた。その時の心境を自叙伝「時代の証言」の中で「爆破をぼうぜんと眺めた。涙を 流した」とつづっている。
伏見もエネルギー源として原子力の平和利用を夢見ていた。戦後、海外の論文を読みあさり、研究仲間からも助言を得て「日本にも原子炉はできる」と確信していた。茅は伏見の出身校、東大理学部の学部長だった。
「工業発展に原子力発電は不可欠だ」。会場でそう説明する伏見に、丸坊主の男が発言を求め、激しく反論した。広島大教授の三村剛昂(よしたか)(54)だった。
三村は広島原爆の被ばく者。爆心地からわずか1・8キロの自宅を出た瞬間、放射能と爆風を浴びた。崩壊した家屋のがれきに埋まり、2カ月ほど生死をさまよった。首筋にはまだ痛々しいやけどの痕が残っていた。
「私は原爆をよく知っている。その死に方たるや実に残酷なもの」と三村。「発電、発電と盛んに言われるが、政治家の手に入ると、25万人がいっぺんに殺される」とまくし立てた。
「米ソのテンション(緊張)が解けるまで、いな(否)世界中がこぞって平和的な目的に使う、こういうようなことがはっきり定まらぬうちは日本は やってはいかぬ。こう私は主張するのであります」「原爆の惨害を世界中に広げることが日本の武器。文明に乗り遅れるというが、乗り遅れてもいい」
感情むき出しで訴える三村の目には光るものがあった。後に「涙の大演説」と語り継がれた。総会では三村に支持が集まり、原子力研究の再開を目指した阪大教授、伏見らは提案を撤回。結局、学術会議内に臨時の委員会を設け、議論を続けることになった。
現在80歳の名古屋大名誉教授、沢田昭二は広島大大学院時代に三村の指導を仰いだ一人。恩師の心境を「普段は原爆の話はしなかったので、よほどの危うさを感じていたのだろう」と推し量る。
三村教授の演説を記録した日本学術会議の速記録。「米ソのテンションが解けるまで、日本はやってはいかぬ」などと書かれてある |
原子力再開をめぐる学術会議の議論は振り出しに戻った。ただ、人類破滅につながる核兵器への抵抗は強かったが、科学者の多くは原子力そのものを否 定したわけではなかった。むしろ核の惨劇を知る唯一の被爆国、日本こそ率先して原子力の平和利用に取り組むべきだ、との意見が若手を中心に出ていた。
物理学者の武谷三男(41)もそう。総会直後、雑誌「改造」への寄稿にこう書いた。
「平和的な原子力の研究は日本人が最もこれを行う権利を持っている。ウラニウムについても諸外国は日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜をはかる義務がある」
武谷は戦時中、陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」に参加したメンバー。75年に自らが代表を務める「原子力資料情報室」を設立するなどその後は反原発運動に身を投じたが、その武谷ですら当時は原子力の平和利用に理解を示していた。
この「被爆国ゆえに」の論理は、皮肉にも原子力再開を許す世論の下地をつくる。
核戦争の恐怖が現実味を増す米ソ冷戦下。軍事転用に歯止めをかける原子力の平和利用は敗戦を教訓に世界平和を目指す戦後日本の理念にもかなうものだった。
アサヒグラフや映画「原爆の子」などで原爆の恐ろしさを再確認した日本人は「二度と繰り返すまい」との思いを募らせた。しかし、その思いが強ければ強いほど奇妙なことに平和利用への夢を膨らませていく。
一方、学術会議は核兵器の危険性か、原子力の平和利用かでなお揺れ続けた。科学者らの態度が煮え切らないうちに、国際情勢は1年後、風雲急を告げる。震源地は海の向こう米国だった。
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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (2)研究再開ののろし <東京新聞>
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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (2)研究再開ののろし
2012年11月7日
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政治主導で突如
衆院経済安定委員長も務める前田は科学者の国会といわれる日本学術会議との会合で、科学技術庁(現・文部科学省)の設立を提案する。「総理府の外 局とし、長官には国務大臣をあてる」と概要を説明し「原子力と航空機の研究開発」が目的と明言した。政治主導による原子力研究の再開を意味していた。
占領中、連合国軍総司令部(GHQ)の指示で中断された日本の原子力研究。戦前は、原爆製造計画「ニ号研究」などで軍部が主導した。戦後になって再開を許されると、今度は政治が表舞台に出てきた。後に科技庁長官や原子力委員長を務める前田の狙いは何だったのか。
前田の長女で、現在70歳の酒井浩子は「父は『日本が戦争に負けたのは科学技術が劣っていたから』といつもこぼしていた。戦後復興には科学技術の底上げが欠かせないと考えていたようです」と証言する。
科技庁構想をぶち上げる前年の51年、前田は米政府の招待で渡米している。国防総省の科学技術振興院や、後に世界的な原子炉メーカーとなるゼネラ ル・エレクトリック(GE)の研究施設などを視察した。大蔵省(現・財務省)官僚の大平正芳(41)も一緒だった。大平はこの後政界入りし、首相に上り詰 める。
科技庁構想は米国の意向にもかなっていた。前田は帰国後、52年5月号の「日本産業協議会月報」への寄稿文で、ホワイトハウス高官の発言をこう引用している。
「白亜館の連絡員は『国防省に科学研究振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究と委託研究の有効利用を図っている。このことは米国だけでなく、自由主義国家に推し進めていきたい』と述べた」
前田のおいで、地盤を引き継いだ現在75歳の民主党参院議員の前田武志(元国土交通相)は当時、中学生。米国製のトランジスタラジオを土産にもらった。「すごく刺激を受けたようで、エネルギー源として原子力が必要だと言っていた」と振り返る。
日本は戦後復興が急速に進み、産業用を中心に電力供給が追いつかない状態。都市部などでは停電が頻繁に起こった。欧米の最先端技術を知る経済界の一部からは水力、火力を補う電力源として原子力を利用すべきだ、との意見が出ていた。
ところが、政治主導で原子力研究の再開を目指す前田の提案に、学術会議の科学者らは警戒を強めた。「経済優先・軽武装」を掲げた戦後の吉田内閣は このころ「再軍備」へとかじを切っていた。独立前の対米講和交渉で、自衛隊の前身となる保安隊を52年10月に5万人規模で設けることを米国に約束。前田 の提案は、その保安隊が発足するわずか4カ月前に行われた。
「逆コース」と呼ばれる政策転換の中で、政界から突如として浮上した原子力研究。科学者らは「本当の目的は核兵器の開発ではないか」と疑い、反発 を強めた。戦前の軍部主導による「ニ号研究」で戦争の加担を強いられた苦い教訓もあった。前田の提案を受け、52年10月に開かれた学術会議の総会は大荒 れになった。
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{日米同盟と原発}第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (1)忘れ去ることなり <東京新聞>
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【特集・連載】
日米同盟と原発
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第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (1)忘れ去ることなり
2012年11月7日
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▼全文転載
1952(昭和27)年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は7年ぶりに独立を回復した。連合国軍総司令部(GHQ)の占領中に禁止さ れていた諸政策がようやく封印を解かれ、その中には原子力研究も含まれていた。戦後の焼け野原から立ち直り、後に世界が「エコノミック・ミラクル(経済的 な奇跡)」と驚く高度経済成長の入り口に立った当時。国際情勢に目を転じれば、米国とソ連の対立激化で核戦争の恐怖が現実味を増しつつあった。戦後復興と 米ソ冷戦を時代背景として、日本がどのようにして原子力再開への第一歩を踏み出したのかを探った。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
映画「原爆の子」の一場面=近代映画協会提供 |
原爆もはや歴史
1952(昭和27)年4月28日、念願の独立を果たした日本。プレスコード(新聞規制)がなくなり、国内外のメディアは自由な報道が許された。7年間の占領中、タブーとされた広島、長崎の惨状が報道などを通じ、ようやく国民に広く知れ渡った。
その年の8月6日。広島に米軍の原爆が投下されてまる7年の節目に合わせ、写真誌「アサヒグラフ」は「原爆被害の初公開」と題する特集号を発行し た。「特集するのは猟奇趣味の為ではない。冷厳な事実、すなわち歴史が、それを命ずるのである」。そう巻頭に記す雑誌は当時としては異例の70万部を売っ た。
全26ページ。原爆投下直後の広島、長崎の被ばく者らの写真で埋め尽くした。顔が焼けただれ、あおむけに寝かされた人や手の皮が剥がれ、手当てを受ける少年…。
目をそむけたくなるような生々しい27カット。編集部内でも発売の是非をめぐり、激論が交わされた。当時の副編集長が「ぐらふ記者」(59年発 刊)に寄せた回想文によると、文学座の劇作家としても活躍した編集長の飯沢匡(ただす)(43)=本名・伊沢紀(ただす)=のひと言で発売が決まった。
「やりましょう。むごたらしさを余すところなく、世界の人に見せてやりましょう」
写真を撮影したのは朝日新聞大阪本社の写真部員、宮武甫(はじめ)(38)ら数人のカメラマンだった。宮武は中部軍管区司令部の宣伝工作隊の同行カメラマンとして原爆投下の3日後に広島入りし、丸2日間、被ばく者にレンズを向けた。
終戦後、爆心地に入った報道機関の多くはGHQの検閲で映像や写真を没収されたり、自主廃棄を余儀なくされた。ところが、宮武は家族にも内緒で7 年近くも大阪市の自宅にフィルムを保管していた。宮武の長男で現在71歳の賢(まさる)によると、その時の経緯を、退職後の76年8月の社内報にこう書い たという。
「進駐軍から『原爆関係の写真を提出せよ』と命令があった。デスクからフィルムは一切焼却してくれと申し渡されたが、聞き流して自宅の縁の下に隠しおいたため、没収の難は免れた」
賢は当時小学生。居間にあった雑誌をめくり「原爆の恐ろしさを初めて知った。父が撮ったと分かり、二度驚いた」。「父は報道カメラマンとして、戦争のむごさを世に伝える義務があると思ったのだろう」と話す。
アサヒグラフの発行と同じ日、今年5月に100歳で死去した新藤兼人(40)の映画「原爆の子」も封切られた。反核をテーマにした作品は公開直後から反響を呼び、どの映画館も長蛇の列をつくった。
アサヒグラフ、原爆の子…。これまで知らされなかった原爆の事実に国民は衝撃を受け、関心を高めた。が、当時の日本は朝鮮特需に沸き、急ピッチで 進む戦後復興のまっただ中。焼け野原やバラックがビル群へ変わるなど敗戦は目に見えて遠のき、7年ぶりにクローズアップされた原爆も過去の悲劇として記憶 に刻まれた。
現在81歳の新原(にいはら)昭治は当時、九州大生だった。アサヒグラフを読んで原爆問題に関心を持ち、卒業後は長崎放送で関連番組を制作。今は原水爆禁止日本協議会の専門委員を務めるが、新原のように関心を持った若者はまれだった。
「友人と話しても『あ~、こんなことがあったのか』という感じだった。若者の間では原爆はもう歴史になっていた」と証言する。
原爆の惨状が広く世に知られた52年は日本の実質経済成長率が11・7%と、3年連続で二桁成長を記録。この年、ラジオは1000万世帯以上に普 及し、翌53年2月にはNHKがテレビの本放送を開始する。庶民は「豊かさ」を実感し、よりよい暮らしを求める「未来志向」の中で誰もが一生懸命働いた。
ラジオドラマ「君の名は」が放送を開始したのもこのころ。「放送が始まると、銭湯の女湯が空になる」とのエピソードも残るこの国民的な番組の冒頭ナレーションは当時の日本人の心境と重なるようにこう語った。
「忘却とは忘れ去ることなり」
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{日米同盟と原発}ビキニ事件と原子力をめぐる動き<東京新聞 TOKYO WEB>
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日米同盟と原発
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ビキニ事件と原子力をめぐる動き
2012年12月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502100007.html
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日米同盟と原発
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{日米同盟と原発}原爆より膨大な水爆エネルギー <東京新聞 TOKYO WEB>
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日米同盟と原発
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原爆より膨大な水爆エネルギー
2012年12月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000203.html
▼全文転載
一方、米国が1952年11月に世界で初めて実験した水素爆弾は、水素の原子核が衝突して一体化する「核融合」を利用。核融合に必要な超高温、高圧の力を加えるため水爆内部で小型の原爆を爆発させるので、エネルギー総量は膨大になる。
ビキニ環礁で実験した水爆「ブラボー」の破壊力は、広島原爆の約1000倍。史上最大の水爆はソ連が61年10月に実験した「ツァーリ・ボンバ(皇帝の爆弾)」で広島原爆の3000倍以上とされる。
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{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (5)「平和利用」の大義 <東京新聞 TOKYO WEB
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日米同盟と原発
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第4回「ビキニの灰」 (5)「平和利用」の大義
2012年12月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000202.html
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◆動きだす産官学
1955年1月4日、外務省でビキニ事件の見舞金支払いで合意し、握手する重光外相(左)とアリソン駐日米大使 |
広島、長崎に続いて三度、核の犠牲になった日本。ところが、その悲劇はかえって、原子力の平和利用を勢いづかせた。
ビキニ事件が明るみに出た半月後の一九五四(昭和二十九)年四月一日、衆院は「原子兵器の使用禁止」などを求める緊急決議案を全会一致で可決。しかし、決議には「原子力の国際管理とその平和的利用を促進する」などの文言もあった。
議員を代表して提案理由を説明したのは、須磨弥吉郎(61)。前月に戦後初の原子力予算を議員提案したばかりの中曽根康弘(35)と同じ改進党だった。
国会会議録によると、須磨は「二度ならず三度までも原子兵器の惨害を受けた日本は最大の発言力を有する」とした上で「この動力を平和産業に振り向 けることができるなら、世界が原子生産力による第二産業革命ともいうべき新時代を開拓し、本当の意味の平和を樹立できる」と述べた。
一方の科学者。「科学者の国会」と呼ばれる日本学術会議はこの時期、中曽根らの原子力予算を「時期尚早」と、反発していた。
五四年四月二十三日の総会で発表した声明文は「今日の国際情勢は人類の平和と幸福に貢献するという確信をもってこのエネルギー源の研究を進められるにはほど遠い」としながらも、原子力開発の条件に「公開、民主、自主」を掲げた。
これは後に平和利用三原則として、現在に至る日本の原子力政策の基本となる。学術会議は、原子力そのものを否定したわけではなかった。
第五福竜丸の無線長、久保山愛吉の死去から約二カ月後の五四年十一月十五日、東京で開かれた「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」。
米国側からは原子力委員会(AEC)の専門家七人が出席。表向きはビキニ事件で高まった人体や食品の放射能汚染に関する意見交換が目的だったが、日本側にとっては原子力開発に向けた被ばく管理や対策などの情報収集の狙いもあった。
会議が開かれる一カ月前、通商産業相(現・経済産業相)の愛知揆一(47)と自由党の参院議員宮沢喜一(35)が極秘に訪米。米政府から原発に関する文献や資料などの提供を受けていた。宮沢は後に首相に上りつめる。
日米会議の資料によると、AECの生物物理課長ワルター・クラウスは、国立衛生試験所や気象研究所の研究者、大学教授ら日本の専門家を前に「数カ月間、放射能に汚染された魚を一匹食べたところで、人体に悪影響はない」と発言した。
会議から一カ月半後の五四年十二月三十一日。厚生省(現・厚生労働省)はビキニ事件を機に続けていた南方沖で水揚げされたマグロの放射能検査を突 然打ち切った。各都道府県に通知した文書には「人体に対する危険を及ぼす恐れがまったくないことが確認された」と記してあった。政府による事実上の事件の 幕引きだった。
その一週間前の十二月二十五日のクリスマス。原子力予算を使った海外調査団が欧米に向け羽田空港を飛び立った。メンバーは通産官僚や大学教授、後に原子炉を手掛ける日立製作所などの重電メーカー幹部ら産官学の十四人だった。
日本を震撼(しんかん)させたビキニ事件。ところが、原水爆に反対する世論のうねりは皮肉にも原子力の平和利用へ口実を与えることになった。それこそ反核、反米運動を鎮めるため日本へ原子力技術を提供する米国が描くシナリオに沿うものだった。
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{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (4)「原因はサンゴの粉じん」 <東京新聞 >
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日米同盟と原発
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第4回「ビキニの灰」 (4)「原因はサンゴの粉じん」
2012年12月25日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000201.html
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◆沈静化急ぐ米国
ビキニ事件をきっかけに戦後最大規模の市民運動に発展した反核運動。ところが、米国は自らの非を認めず、真相解明を求める日本側に十分な情報提供をしなかった。
事件発覚から半月ほどたった一九五四(昭和二十九)年三月三十一日。米大統領アイゼンハワー(63)の記者会見に同席した米核政策の責任者、原子 力委員会(AEC)の委員長ルイス・ストローズ(58)は「日本の漁船は明らかに(米軍が事前に通告した)危険区域内にいた」と述べ、むしろ第五福竜丸の せいと決めつけた。
米国とソ連の核競争がエスカレートしていた冷戦下、ストローズらは第五福竜丸の被害より、ソ連に最新鋭の水爆技術が流出する方を心配した。事件直後、ストローズは極秘で乗組員らの身辺調査を米中央情報局(CIA)に依頼していた。
広島市立大の高橋博子講師を通じ、本紙が入手した五四年四月二十九日付のCIA極秘文書には、ストローズの疑問に対する受け答えが記されていた。
Q・共産主義の宣伝に利用する計画だったか?
A・事前計画を示す行動はない。
Q・帰港前にソ連船と接触したか?
A・スパイ活動の証拠はない。
Q・治療をしている医師は政治的に疑わしいか?
A・日本の外務省も調べているが、報告は受けていない。
米国は、反共の砦(とりで)、日本で起きた反核のうねりが反米や左翼運動に発展することを懸念した。
アイゼンハワー大統領図書館に、国家安全保障会議(NSC)の作戦調整委員会が四月二十四日にまとめた「好ましくない日本人の態度を正すための活動リスト」が保管されている。
そこには「核兵器への誤った考えを根絶するため、冊子や映画で宣伝する」「患者の症状は、放射能ではなくサンゴの粉じんが原因ということにする」-など、ビキニ事件の沈静化に向けた二十項目に及ぶ対日工作が列挙されていた。
その四カ月後に開かれた八月十二日のNSC議事録によると、この会議で、米国は他国へ原子炉導入を働きかけることを決め、その有力候補として「決定的に資源が不足し、エネルギー消費が多い」日本を挙げていた。
国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と呼ばれる演説を行った大統領アイゼンハワー。平和利用を目的に国際社会へ米国の核技術を提供するとの趣旨だったが、反核運動を封じ込める対日戦略にも利用していた。
翌九月、ニュージャージー州で開かれた製鋼労働者組合の大会。出席したAEC委員のトーマス・マレーは「日本に原発を建設することは、悲惨な記憶を一掃させることになる」とあいさつした。
反核運動が激しさを増した五四年十月、米国はようやく日本政府に最大二百万ドル(七億二千万円)を支払うことを申し出た。事件の犠牲者に対する補 償金ではなく見舞金。責任を棚上げし、世論を鎮めるのが狙いだった。年が明けた五五年一月、駐日米大使ジョン・アリソン(49)が外相重光葵(67)にあ てた書簡にはこうある。
「二百万ドルの金額を受諾するときは、日本国並びにその国民および法人が原子核実験から生じた身体又は財産上のすべての傷害、損失または損害について米国またはその機関、国民もしくは法人に対して有するすべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解する」
米核戦略を総括するAECが久保山の死因に関する見解を示したのは事件から一年以上すぎてから。それでもなお米国は自らの非を認めていない。
AEC生物医学部長ジョン・ビューワーが五五年四月六日付で記した内部メモは、こう記されていた。「久保山は被ばくしたが、死亡時に内部被ばくの損傷はなかった。感染性の肝炎が死因とみられ、肝炎がなければ彼は生きていただろう」
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{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (3)食卓から魚が消えた <東京新聞>
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第4回「ビキニの灰」 (3)食卓から魚が消えた
2012年12月25日
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◆被ばく 迫る恐怖
ビキニ事件が新聞報道で伝えられた翌日の一九五四(昭和二十九)年三月十七日、東京の築地市場では競り値が暴落した。「東京都中央卸売市場史」によると、十七日朝の取引は産地にかかわらずマグロが半値、近海のヒラメや干物の価格まで値を下げた。
厚生省(現・厚生労働省)は翌十八日、「入荷する鮮魚は食用として不安がない」との大臣声明を発表。しかし、値崩れは止まらず、築地市場は十九日、競りの中止に追い込まれた。市場がこうむった被害総額は一カ月間で当時の額で一億八千万円(現在の十九億円相当)に達した。
「原子マグロ」の言葉に代表される風評被害で、全国あちこちの鮮魚店やすし店は休業に追い込まれ、庶民の食卓から刺し身や焼き魚が消えた。
ビキニ事件の発覚から半月ほどたった五四年四月二日。築地市場で開かれた「買出人水爆対策市場大会」で、東京都内の鮮魚店主ら五百人が怒りの声を上げた。
米国は第五福竜丸の被ばく後もビキニ環礁で水爆実験を行い、今後も続行する方針だった。会場で「魚屋殺すにゃ三日はいらぬ ビキニ灰降りゃお陀仏(だぶつ)だ」と書いたビラを配り、政府や米大使館に原水爆禁止を求める署名活動を始めた。
集会を呼び掛けたのは東京・杉並区の鮮魚店「魚健」の主人、菅原健一(48)。菅原の六女で、現在七十歳の竹内ひで子は当時小学六年生。「父が『もう日本の海を汚されるのはごめん。おまえたちの誰も核戦争に巻き込みたくない』と口癖のように話していた」と振り返る。
戦時中、広島、長崎の原爆で世界唯一の被爆国となり、核の恐怖を身をもって体験した日本。しかし、広島、長崎の被害が爆心地を中心とする限られた 地域だったのに対し、ビキニ事件がクローズアップしたのは「海→魚介類→人体」の食物連鎖を通じて誰もが被ばくするという放射能汚染の深刻さだった。
政府が五月から実施した調査船「俊鶻(しゅんこつ)丸」の測定で、汚染範囲が幅広い海域に及んでいたことも拍車をかけた。四方を海に囲まれ、日常的に魚を食べる日本人にとり、核実験による海洋汚染は見過ごせない問題となった。
菅原らの訴えに真っ先に反応したのは、同じ杉並区に住む女性たちだった。子どもの命を守ろうと、母親や若い女性らが駅前や大通りに机を並べて署名集めに協力した。
戦後間もない当時、女性らの街頭活動は珍しかった。彼女らがガリ版で作った手書きのビラに、活動の様子がつづられている。
「足が疲れて交番で休ませていただいていると、お巡りさんも快く署名された」「戸別訪問で『署名で水爆はなくならないでしょう』と話す奥さんを説得したら、家族七人全員が署名してくれた」
杉並の運動は当時、普及台数一千万台を超えたラジオや前年二月に放送を始めたテレビなどのニュースを通じて全国に広まり、八月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が発足。会には日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(47)も参加した。
第五福竜丸の無線長久保山愛吉の死去からおよそ二週間後の十月五日、署名は被爆地の広島、長崎などを含め全国千二百万人に上った。翌五五年八月に広島で開く第一回原水爆禁止世界大会までには人口の三分の一に相当する約三千万人の署名が集まった。
米ワシントンの国立公文書館には一連の運動を報じた日本の新聞記事の英訳文が所蔵されている。米陸軍情報部が当時、在日米大使館を通じて収集したものだった。米国は日本の反核運動が反米運動につながることを恐れていた。
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{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (2)俺たちで終わりに <東京新聞>
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第4回「ビキニの灰」 (2)俺たちで終わりに
2012年12月25日
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1954年9月25日、東京都渋谷区の火葬場で、亡くなった久保山さんの遺影と遺骨を手に歩く妻と娘ら |
◆久保山の「遺言」
「邦人漁夫、ビキニで原爆被害?」「降灰の放射能受けて」「危険を知らぬ船員たち」-。中部日本新聞(現・中日新聞)は一九五四(昭和二十九)年三月十六日付の朝刊社会面トップで、第五福竜丸の被ばくを大々的に報じた。
二日前の十四日、静岡県焼津市へ戻った乗組員二十三人はその日のうちに、市内の協立焼津病院(現・焼津市立総合病院)で診察を受けた。このうち、 重傷と診断された機関長の山本忠司(27)と甲板員の増田三次郎(27)の二人は東京大学付属病院へ送られ、残り二十一人も焼津病院に入院した。いずれも 「急性放射能症」と診断された。
航海中、船内の異変を外部に漏らさなかった最年長の無線長、久保山愛吉(39)は焼津病院に入院した二十一人の一人。帰港直後の十四日午前、久保 山は妻すず(32)の実弟で現在八十六歳の椿原(ちんばら)松男と会い、真相を打ち明けた。「原爆らしきものを見た。キノコ雲もすごいもんだ」
椿原は「真っ黒い顔をしていた。みんなで晩飯を食おうと約束していたのに…」と振り返る。
新聞がビキニ事件を報じた翌十七日、米国はようやくビキニ環礁の水爆実験を認める。厚生省(現・厚生労働省)は、焼津病院に東大医学部の医師ら八人からなる調査団を派遣。米国も放射線の専門医師や研究者ら十四人が現地に入った。
久保山ら二十一人は焼津病院から約十日後、放射能に侵された骨髄組織の治療を受けるため医療設備の整った東大病院と東京第一病院(現・国立国際医療研究センター)へ移った。移送は在日米軍がチャーターした軍用機だった。
東京第一病院で、久保山を当時診察した医師、熊取敏之(32)らが五五年に「ビキニ放射能症の臨床並に血液学的観察」をまとめている。
操舵(そうだ)手で、現在八十五歳の見崎進(27)は久保山と同室で、ベッドが隣だった。「八月下旬になると、症状が悪化した久保山さんは奥さん や母親が見舞いに来ても手で振り払い、部屋で暴れていた。『ああ、死ぬのか』『次は俺の番だ』と思って怖くなった」と振り返る。
その久保山は九月二十三日、息を引き取った。死因は急性放射能症と肝炎による多臓器不全だった。
「原水爆の被害者は俺たちだけでたくさんだ。俺たちで終わりにしてもらいたい」
乗組員二十三人のうち、現在までに死亡が確認されたのは久保山を含め十五人。そのうち、ほぼ半分の七人が肝臓がんなどで六十歳の還暦を前に亡くなった。八人いる生存者も今なお被ばくの恐怖や後遺症に苦しんでいる。
操機手だった現在八十歳の池田正穂は退院後、近所の人たちから「放射能がうつる」などと避けられた。偏見から逃れようと漁師を辞め、京都の染め物 会社やトラック運転手など住まいや職を転々とした。ビキニの灰で黒ずんだ手の甲をさすりながら「六十年たっても放射能は得体(えたい)が知れん」と漏ら す。
大石は「放射能の影響を過小評価している点ではビキニも福島も同じ」。肝臓がんを患った経験から「被ばくの本当の怖さは症状が後から出てくること。福島の人たちも長期にわたって影響が出ることも考えられ、国はしっかり調査を続けるべきだ」と話す。
放射能の恐ろしさをまざまざと見せつけたビキニ事件。その影響は他の漁業者や庶民の食卓にまで飛び火する。
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{日米同盟と原発}第4回「ビキニの灰」 (1)第五福竜丸の衝撃 <東京新聞>
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第4回「ビキニの灰」 (1)第五福竜丸の衝撃
2012年12月25日
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一九五四(昭和二十九)年三月一日、太平洋のビキニ環礁沖で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験に巻き込まれた「ビキニ事件」。船は大 量の放射能を含む「死の灰」を浴びて二十三人の乗組員全員が被ばく。さらに幅広い海域で汚染された魚が見つかるなど、その被害は庶民の食卓にまで及んだ。 世論が激しく反発する中、日米両政府は被ばくの恐怖をひた隠し、事態の沈静化を急ぐ。広島、長崎の原爆からわずか九年、再び核の犠牲になった日本。それで もなお原子力開発へ突き進んだのはなぜか。その背景を探った。 (文中・表の敬称略、肩書・年齢は当時)
◆西から昇る太陽
戦後初の原子力予算二億七千五百万円(現在の三十億円相当)を盛り込んだ政府の修正予算案が衆院本会議で可決される三日前だった。
東経一六六度、北緯一二度。「地上の楽園」といわれ、美しいサンゴ礁の広がるビキニ環礁は百六十キロ西にあった。二〇一〇年、世界遺産に登録され るビキニ環礁は当時、国連の信託統治下。ところが、実質的な支配力を持つ米国は第二次大戦後の一九四六年以降、周辺住民を移住させ、原爆などの核実験場に していた。
第五福竜丸が出港する三カ月ほど前の五三年十月、米海軍はビキニ環礁の周辺海域を危険区域に指定し、日本政府に伝えた。公式発表はないが、近く核 実験を行うという事実上の通告だった。第五福竜丸も海上保安庁を通じてこの情報を入手していた。念のため操業地点を警戒区域の境界から三十キロ沖合に離 し、万一に備えていた。
第五福竜丸の乗組員は二十三人。十~三十代の若い男たちばかりだった。生存者の一人で現在八十五歳の見崎進は当時、二十七歳の操舵(そうだ)手。 見崎によると、船はその日午前四時から漆黒の海へはえ縄を投げ入れ、漁を始めた。「波は穏やかで、見上げると空いっぱいに星が輝いていた」
船に異変が起きたのは三時間余り後、大海原に薄日が差し始めたころだった。甲板で朝飯を済ませ、船首へ向かって歩いていた見崎は左手に目もくらむような強烈な光をみる。「昼間のようにパッと明るくなった」
その十分後。海底がせり上がるように「ゴゴゴゴー」という地鳴りを上げ、それまでなぎだった海面が波打ち始めた。西の空から不気味な入道雲が船に迫り、船内は騒然となった。
このころ、現在八十歳の池田正穂は甲板下の機関室で機械を点検中だった。当時二十一歳。若い操機手だった。
池田は「上の方で先輩らが『太陽が昇ったぞ』『バカ野郎、西から上がるか』などと言い争っている声が聞こえた」と証言。「早く逃げろ」という怒声で、慌ててエンジンのスイッチを入れたのを記憶している。
午前十時ごろ、池田が外気を吸いに甲板へ上がると、まるで銀世界だった。が、気温二六度の太平洋上で、雪なぞ降るわけがない。得体(えたい)の知れない白い粉が甲板に一センチも積もり、歩くと長靴の跡がくっきり残った。
見崎は閃光後も甲板に残っていた。長袖を着ていたが、露出した頭や首筋、手などに白い粉を直接浴びた。二、三日後、首の後ろが激痛に襲われ、手の甲に水膨れができた。腹痛と下痢が続き、帰港間近には髪の毛も抜けた。「普通じゃねえ」と思った。
他の乗組員も似たような症状を訴えた。誰もが白い粉のせいと思ったが、怖くて口に出せなかったという。
強烈な光、地鳴り、白い粉…。すべては米国がこの日、ビキニ環礁で実施した水爆実験が原因だった。
米国は軍事機密を理由に水爆実験を公表しなかったが、最年長の無線長、久保山愛吉(39)は気づいていた。船の異変を無線で知らせれば、傍受した米軍に拿捕(だほ)されると思い沈黙を通した。
「船がドカンと受けたのを米国に知られたら連行される」。操機手の池田は、久保山が漏らしたひと言を今も覚えている。
三月十四日、第五福竜丸は焼津港に戻った。その二日後、新聞報道をきっかけにビキニ事件が明らかになり、国民を震撼(しんかん)させる。戦後日本が平和利用の名の下に原子力開発への一歩を踏み出す時期とまさに重なっていた。
【特集・連載】
日米同盟と原発
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