「北の山・じろう」時事問題などの日記

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{日米同盟と原発}国内初の原子炉導入をめぐる動き<東京新聞 TOKYO WEB>

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【特集・連載】
日米同盟と原発

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/index.html
国内初の原子炉導入をめぐる動き
2013年1月23日
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日米同盟と原発

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{日米同盟と原発}幻の「広島原発」 米が一時検討、市長も前向き<東京新聞 TOKYO WEB>

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日米同盟と原発

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幻の「広島原発」 米が一時検討、市長も前向き
2013年1月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000230.html
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 平和利用の名の下に、反核世論の沈静化を狙っていた米国は、被爆地・広島に日本初の原発を建設する計画を検討していた。

 

 きっかけはビキニ事件の翌年、一九五五(昭和三十)年一月二十七日。米議会で行った下院議員シドニー・イエーツ(45)の演説。それによると「日 本人はまたしても核の犠牲になった」とし、日米友好に向けて両政府が共同で広島に原発を建設することは意義深いことなどとした。

 

 当時のアイゼンハワー政権も広島原発の可能性を検討。米国務省の五五年五月の複数の機密文書によると、大統領が「米国の罪を認めることになる」などと反対し、計画はつぶれた。

 

 一方、イエーツ提案はマスコミを通じて日本にも伝えられ、当時の広島市長、浜井信三(49)は地元紙に「原子力の最初の犠牲都市で初めての平和利用が行われることは犠牲者の慰霊にもなる」と前向きなコメントを寄せていた。

 

 浜井のおいで現在七十七歳の医師、砂本忠男は当時の発言について「原発建設で、広島の復興資金が得られると考えていたのだろう。もし害がないなら利用をしたい、と、当時大学生の私に話していた」と振り返る。

 

 広島市立大の田中利幸教授は「米国は広島原発を本気で考えていたのではなく、反核感情を抑えるため、被爆地の中から『原発がほしい』という声を上げさせたかっただけなのではないか」と指摘している。

 

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日米同盟と原発

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (5)木っ端役人は黙っとれ<東京新聞>

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第5回「毒をもって毒を制す」 (5)木っ端役人は黙っとれ
2013年1月23日
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1957年9月、茨城県東海村で開かれた日本初の研究用原子炉の完成式典。壇上で運転開始のスイッチを押すのは正力氏

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◆英国産で決着

 

 一九五六(昭和三十一)年一月五日。正力は地元・富山に向かう車中で記者団に、米国からの原子炉輸入を念頭に「五年以内に原子力発電を実現する」と発言し、世間を驚かせた。

 

 原子力委員長を務める正力の意向は、その前日に開かれた原子力委の初会合でも示されていた。が、「時期尚早」との慎重意見が出て、さらに協議する と決めたばかりだった。それを一晩でひっくり返す発言は、他の委員にとって“寝耳に水”。とりわけ原子炉の自主開発を主張していた科学者たちは一斉に抗議 の声を上げた。

 

 委員の一人で、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(48)は「そんな話は聞いていない。自主開発の精神を冒涜(ぼうとく)する」と反発。湯川はその一年余り後の五七年三月、病気を理由に原子力委を去る。正力への不信感も遠因とされている。

 

 そのワンマンぶりを警戒するのは米国も同じだった。このころのCIA文書は「(米国に原子炉提供を求める)彼の申し出を受けることは、必然的に日 本に原子爆弾を保有させることになる」。米国の思惑を超える正力のスピードに、別の意図が隠されているのではないか、と疑った。

 

 正力の「五年以内」発言からほぼ一週間後の五六年一月十三日。鳩山一郎内閣は日本初の研究用原子炉を米国から輸入することを閣議決定した。茨城県東海村日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に建設され、翌年の五七年九月に完成する。

 

 ただ、研究用原子炉の提供は二カ月前に締結した日米原子力協定に基づき事前に約束していたもの。出力もわずか五十キロワットしかなかった。正力が望んだ大出力で電気を生み出す発電用原子炉の提供について、米国は慎重姿勢を崩さなかった。

 

 米国の姿勢に業を煮やした正力は同じ西側陣営の英国からの輸入を検討する。英国は五六年五月、国産初の発電用原子炉、コールダーホール原発の運転に成功し、国を挙げて海外への売り込みを図っていた。

 

 ただ、コールダーホールは高いコストがネック。正力に仕えた若手官僚グループは「日本と英国では事情が違う。採算はとれません」と忠告した。その一人、伊原義徳によると、正力はこの時「木っ端役人は黙っとれ」と怒鳴ったという。

 

 米国は、正力の“米国離れ”に慌てた。在日米大使館が五六年七月五日付で米国務省に送った文書には「行動派の正力は、研究の努力をするという辛抱ができない。計画を急ぐ余り、高コストの英国炉を導入するという過ちを犯そうとしている」と書いてあった。

 

 さらに当時、日ソ国交回復交渉を進めていた鳩山政権の下で、日本がソ連から原発を導入するのではないかという疑心暗鬼も。五六年九月十二日付のCIA文書には諜報(ちょうほう)員とワシントンにある本部とのやりとりが残されている。

 

 諜報員「ソ連が日本に原子力技術の支援を申し出る危険性をどう考えているか。もしそうなったら、どう反応すればいいか」

 

 本部「ソ連が日本に支援を打診する可能性はかなり高い。日本は決断する前に米政府と話し合うべきだ」

 

 結局、原子力委は五六年十月、英国へ調査団を派遣する。団長は委員長代理で元経団連会長の石川一郎(70)。「まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と主張していた、あの物理学者、嵯峨根遼吉(50)も同行していた。

 

 その一カ月後、調査団の報告を受けた委員長の正力は「コールダーホール原発は輸入に適している」と表明する。自主開発か、海外技術の導入かで揺れた原子力開発はようやく決着。日本初の原発建設が事実上決まった。

 

 「五年以内に原子力発電を実現する」と豪語してからわずか一年足らず。正力ならではの力業だった。

 

 英国から技術導入する東海村の東海原発はそれから十年後の六六年に稼働、原子力の灯(あか)りをともす。その道筋をつけた正力は三年後の六九年、 八十四歳の生涯を閉じた。議員秘書だった萩山は「晩年は原子力熱がすっかり冷めていた。のめり込むとそれ一色になるが、一区切りつくと他のことに目がいく 人だったから」と話す。

 

 日本の政界は鳩山退任後、短命の石橋湛山(72)をはさんで、五七年二月に岸信介(60)が首相に就任する。今の首相安倍晋三の祖父。親米で、再 軍備論者だった岸の登場は原発建設に踏み出した日本で、もう一つの「核」、すなわち核兵器配備の議論を浮上させるきっかけとなる。

 

 <正力松太郎(しょうりき・まつたろう)> 富山県大門町(現・射水市)に土建業者の次男として生まれる。東京帝大を卒業後、旧内務省の警察官僚 となり、警視庁の神楽坂署長や警務部長を歴任。米騒動の鎮圧や政界工作に努めたが、皇太子時代の昭和天皇が狙撃された虎ノ門事件の引責で退職した。

 1924(大正13)年、元内務相の後藤新平から融資を受け読売新聞社を買収。プロ野球、読売巨人軍の前身「大日本東京野球倶楽部(くらぶ)」を 設立した。戦時中は貴族院議員も務めたが、大政翼賛会入りしていたため、終戦直後にA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入所。47(昭和22)年に釈放さ れ、経営に復帰し、53年に民間初の日本テレビ放送網を開局した。

 55年2月の総選挙で初当選し、69年に亡くなるまで連続5回当選。この間、鳩山、岸の両内閣で原子力担当国務相や科学技術庁(現・文部科学省)長官を務めた。

 

      ◇

 この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、レイアウトは整理部の渡辺武が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」第6回は2月下旬に掲載予定です。

 

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日米同盟と原発

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (4)「PODAMは協力的」 <東京新聞>

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日米同盟と原発

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第5回「毒をもって毒を制す」 (4)「PODAMは協力的」 
2013年1月23日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000232.html
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正力氏を「PODAM」の暗号名で記した1955年12月9日付のCIA極秘文書のコピー。「HeisnowtalkingaboutbecomingPrimeMinister.(彼は首相になると言っている)」などと書かれていた

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◆注視するCIA

 

 正力松太郎は一九五六(昭和三十一)年一月に発足した原子力委員会で、初代委員長に就任。名実ともに日本の原子力を牛耳るトップとなる。

 

 部下だった総理府(現・内閣府)原子力局長の佐々木義武(46)が業界誌「日本の原子力」に語ったところによると、正力が「俺は副総理のつもりだ から、官邸以外には出ない」と宣言。戦前、海軍の青年将校が首相犬養毅を暗殺した「五・一五事件」の舞台となった官邸奥の部屋に机を構えた。

 

 当時、海の物とも山の物とも知れない原子力。政治家、正力がなぜそこまで熱を上げるようになったのか。

 

 自著「私の悲願」には「日本は天然資源に恵まれていないばかりか、肝心のエネルギー源ともいうべき石炭、石油はすでに底をつき電力の値段に至ってはアメリカの数倍も高く(中略)私はこれをいっきょに解決するには、原子力以外にはないことを知り…」とある。

 

 ところが、五五年十二月十二日の国会会議録によると、正力は衆院科学技術振興対策特別委の大臣答弁で、核燃料を「がいねんりょう」と発言。質問した日本社会党議員から間違いを指摘されるなど、担当大臣の資質が問われる場面もあった。

 

 当時、若手官僚として仕えた現在八十八歳の伊原義徳。後に科学技術庁(現・文部科学省事務次官に上り詰めた伊原は正力から、こんな話を聞かされた。

 

 「おれはプロ野球をビジネスとして確立し、テレビ事業も軌道に乗せた。次は原子力の平和利用に道筋をつけることだ。もたもたしていられない」

 

 伊原は「国民のためにエネルギーをというより、決めたことを早く形にする事業家としての思いが彼を突き動かしていた」と話す。

 

 議員秘書だった萩山教厳(きょうごん)も「本人に原子力の知識は全然、ない」。「正力先生は名誉というか、『自分が切り開いた』という証しを残したかったんじゃないか。のめり込んだ先生の行動力を、原子力を導入したい人たちが利用しただけだ」と振り返る。

 

 正力の懐刀、柴田秀利の妻で、現在八十三歳の泰子によると、柴田が当時を振り返りながら「じいさん、総理になりたがっていたんだよなあ」と漏らしていた、と証言する。

 

 名誉欲か、それとも政治的野心か、今となってはほとんど知るすべはない。が、マスコミ界から政界入りし、原子力の平和利用で旗振り役を務める正力は、米国にとって頼もしい存在だった。日本の反核世論封じ込めを狙う米国の対日戦略に沿うものだったからだ。

 

 首都ワシントンの米国立公文書館に保管されている国務省や米中央情報局(CIA)の膨大な極秘文書。正力は「PODAM(ポダム)」という暗号名 で呼ばれていた。どういう意味かは不明だが、ちなみに元朝日新聞主筆で、自民党副総裁を務めた緒方竹虎(67)の暗号名は「POCAPON(ポカポン)」 だった。

 

 正力が衆院議員初当選からほぼ半年後の五五年八月十一日付のCIA文書には「PODAMは協力的だ。親密になることで、彼が持つ新聞やテレビを利 用できる」。その一カ月後の九月十二日には「PODAMとの関係ができてきたので、メディアを使った反共工作を提案できる」と記されていた。

 

 原子力の担当大臣就任からほぼ二週間後の十二月九日にCIAがまとめた報告書。そこには、正力を映画「市民ケーン」のモデルになった米新聞王、ウィリアム・R・ハーストのような男と分析した上で、こう書かれてあった。

 

 「PODAMの存在感が大きくなっている。彼の関心はテレビから原子力へと拡大し、今では首相になると言っている」

 

 ところが、CIAの言う「総理を狙う男」は予想を上回るペースで原子力にのめり込み、豪腕ぶりを一段と発揮する。米国の描くシナリオが微妙に狂い始めていた。

 

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (3)念願の原子力閣僚<東京新聞>

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日米同盟と原発
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第5回「毒をもって毒を制す」 (3)念願の原子力閣僚
2013年1月23日
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1956年1月4日、発足したばかりの総理府原子力局の看板を掛ける職員

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◆集まる信奉者

 

 東京・日比谷公園で開かれた原子力平和利用博覧会が大勢の来場者でにぎわった一九五五(昭和三十)年十一月。そこからほぼ一キロ先の永田町では戦後政治をめぐる新たなうねりが生じていた。

 

 日本民主、自由両党による保守合同で、自由民主党が誕生。その一カ月前には革新勢力の左右両派が日本社会党を結成していた。「五五年体制」と呼ばれるこの政治構造は、米ソ冷戦期を通じて、自民党の長期独裁政権を許し、米国との同盟関係を深めていくことになる。

 

 自民党結党直後の十一月二十二日に発足した第三次鳩山一郎内閣。正力は念願である原子力担当の大臣ポストを射止めた。

 

 自著「私の悲願」(六五年発刊)で「鳩山首相が防衛庁(現・防衛省)長官を勧めるので、私は原子力をやると言った。首相はキョトンとして『原子力って、何をするのか』と問い返した」と独特の表現でその喜びを書き記した。

 

 一回生の陣笠(じんがさ)でありながら、いきなりの大臣抜てき。新聞、テレビのオーナーを務める正力は、警視庁時代に担当した政界工作などで、三木武吉(71)や大野伴睦(65)ら自民党の大物と知り合い、気脈を通じていた。

 

 正力の議員秘書を務めた現在八十歳の元自民党衆院議員、萩山教厳(きょうごん)は「大臣就任は正力先生に花を持たせるためじゃない。彼なら何とかしてくれると思い、みんなで持ち上げたんです」と証言する。

 

 実際、大臣就任後、原子力の信奉者らが集まるようになった。萩山によると、後に首相となる若手議員の中曽根康弘(37)は正力を「閣下、閣下」と 呼び、当時、東京・銀座にあった読売新聞本社まで足しげく通っていた。当時、社会党政審会スタッフで、現在八十七歳の後藤茂は、中曽根が「正力さんは私の 言い分を承認して動いてくれた」とうれしそうに話していた、と振り返る。

 

 発足したばかりの日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)研究員で、後にセイコー電子工業社長を務めた現在八十七歳の原礼之助によると、 正力は産業界の原子力推進団体「日本原子力産業会議」(現・日本原子力産業協会)事務局長の橋本清之助(61)や、物理学者の嵯峨根遼吉(49)らとも近 かった。

 

 橋本は戦前、A級戦犯容疑者だった元内相後藤文夫(71)の秘書で、戦後は「原子力界の黒幕」と呼ばれた人物。嵯峨根は戦時中、陸軍の原爆製造計 画「ニ号研究」を主導した科学者仁科芳雄の弟子だった。戦後は米バークレー国立研究所に勤務する一方、中曽根に戦後初の原子力予算を計上するよう助言した 「指南役」としても知られる。

 

 その嵯峨根が当時「運転経験のない国産を造っても誰も買わない。まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と語っていたのを、原は直接聞いている。

 

 日本は五五年五月、米国産濃縮ウランの受け入れを閣議決定。国内では時間をかけても原子炉を自主開発すべきか、それとも即効性のある海外からの技術導入にすべきかで意見が分かれていた。

 

 原子力をめぐる日本の針路がまさに岐路に立っていた時、担当大臣に就任したのが正力だった。嵯峨根の言葉は、後に正力の政治判断に少なからぬ影響を与える。

 

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (2)平和利用で「ばら色」<東京新聞>

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第5回「毒をもって毒を制す」 (2)平和利用で「ばら色」 
2013年1月23日
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1956年1月2日、名古屋市の愛知県美術館(当時)で開かれた原子力平和利用博覧会の原子炉模型を見る大勢の見学者

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◆博覧会に260万人

 

 読売新聞が招聘(しょうへい)した米原子力平和利用使節団の講演会は一九五五(昭和三十)年五月十三日、東京・日比谷公会堂で開かれた。

 

 使節団にはノーベル賞を受賞した米物理学者アーネスト・ローレンス(53)も参加。柴田秀利が米ゼネラルダイナミックス(GD)側に「著名な科学者を帯同させてほしい」と伝えたことを米中央情報局(CIA)の情報で知った米政府の配慮だった。

 

 二千六百人収容の公会堂は超満員で、玄関前には大勢の人だかりができた。講演会を生中継したのは日本テレビ。当時、力道山の試合などプロレス中継で人気を集めていた街頭テレビを急きょ設置する盛況ぶりだった。

 

 米国が「毒をもって毒を制す」と仕掛けた原子力の平和利用キャンペーン。それに応じたマスコミは読売だけではない。五五年十一月、東京・日比谷公 園を皮切りに五七年八月まで全国の主要都市十カ所を巡回する「原子力平和利用博覧会」。国務省が在日米大使館に置く文化交流局(USIS)との共催に名を 連ねたのは、各地の地元紙や有力紙だった。

 

 東京は読売、名古屋は中部日本新聞(現・中日新聞)、大阪、京都は朝日新聞大阪本社、広島は中国新聞、仙台は河北新報など。博覧会が開幕する一カ月前の五五年十月に、日本新聞協会が決めた新聞週間の標語は「新聞は世界平和の原子力」だった。

 

 東京に続く博覧会の開催地となった名古屋は五六年元日から二十四日間、当時テレビ塔近くにあった愛知県美術館が会場だった。高さ八メートルの実物 大の原子炉模型や、新エネルギーを使った列車、飛行機のジオラマなどを展示し、原子力がもたらすばら色の未来を強調する内容だった。

 

 中日は、五六年元日の朝刊社会面トップで「平和と結ぶ“第三の火”」「賛嘆の声わく開会式」など前日に行われた開会式の模様を大々的に報じた。一般入場が始まると、三日の朝刊は「大にぎわいの原子力博」「正月二日で二万超す参観者」と続報を掲載した。

 

 博覧会開催に合わせ、一月五日から夕刊で「無限のエネルギー」と題する十五回の連載をスタートしたほか、子供向けの特集記事も掲載した。

 

 その特集記事には「放射能を照らした食品は二年たっても食べられるから冷蔵庫がいらない」という小学生らしい誤解や、科学研究所(現・理化学研究 所)の研究者の「原子力というと原子ばくだんや原子マグロのようなこわいものだと考えられがちですが、こんなあかるい面に利用できることを知ってもらいた いのがこのはくらん会なのです」とのコメントもあった。

 

 現在八十五歳で、中日OBの川瀬博民は当時、事業局の若手社員として博覧会を担当した。「原爆が投下された日本で、原子力の無限の有効性を理解してもらいたい一心だった」と振り返る。

 

 広島、長崎の原爆投下に続き、五四年のビキニ事件で三度、核の犠牲になった日本。その悲劇は、奇妙なことだが、原子力の平和利用に対する人々の夢を膨らませ、博覧会に足を向かわせていた。

 

 五六年五月に開幕した広島では、原爆の被爆者を追悼する平和記念資料館が会場だった。現在六十八歳の佐久間邦彦が訪れたのは小学六年生の時。母親 に背負われていた一歳の時に被ばくしたが、遠隔操作で放射性物質を扱うロボット「マジックハンド」を見て「危険な放射能も制御できるんだ、と感動した」と 話す。

 

 以来、「原爆と原発は別物」と思いこむようになった佐久間は三菱重工業広島製作所で技術者となり、原発建設にも携わった。しかし、福島第一原発事故を見て「ようやく間違いに気付いた。あの博覧会で、米国の思惑にまんまとはまってしまった」と悔やむ。

 

 ほぼ二年にわたり、全国十カ所で開催された博覧会には二百六十万人の来場者が集まった。USIS東京支部は五六年二月二十二日、ワシントンの米国務省に中間報告を送っている。

 

 東京工業大の山崎正勝名誉教授を通じ本紙が入手したその報告書のコピーは「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)は日本で成功している」とのタイトル。

 

 「日本人は米国がソ連より原子力の平和利用で先行していると信じるようになった」「核実験を継続する必要がある以上、日本人に平和利用を訴える努力を続けるべきだ」

 

 博覧会と時期を重ねるように、政界でも原子力の歯車が動きだす。中心人物は五五年二月の総選挙で初当選した正力松太郎だった。

 

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{日米同盟と原発}第5回「毒をもって毒を制す」 (1)マスコミを取り込め<東京新聞>

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日米同盟と原発
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第5回「毒をもって毒を制す」 (1)マスコミを取り込め
2013年1月23日
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 1955(昭和30)年、戦後日本の原子力開発は大きく動きだす。米国産濃縮ウラン受け入れの閣議決定、日米原子力協定の締結、原子力基本法の制 定…。この年、現在に続く原子力政策の原型がほぼ固まり、翌56年、ついに英国から技術導入する日本初の発電用原子炉、東海原発(茨城県東海村)の建設が 事実上決まる。ビキニ事件後の反核世論が一転、原発へ傾いた背景として、日本のマスコミを巻き込んだ米国の原子力平和利用キャンペーンと、政界入りした読 売新聞社主の正力松太郎(1885~1969年)の存在は見逃せない。「原発の父」と呼ばれる正力、米国、マスコミの動きなどから、原発建設に至る経緯を 探った。(敬称略、年齢は当時)

 

◆すし店での密会

 

神奈川県・逗子の正力氏(左から2人目)の自宅で、日テレ開局に関わった米国人技術者らと食事する柴田氏(右端)。1950年代前半ごろの撮影とみられている=親族の奥田謙造さん提供

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 一九五四(昭和二十九)年三月の「ビキニ事件」から半年以上はたっていた。国鉄新橋駅に近い東京・銀座のすし店で、後に日本テレビ専務となる柴田秀利(37)は、旧知の米国人男性と席を並べていた。

 

 ビキニ事件の記憶がまだ生々しく、世間の関心は「原爆マグロ」など魚介類の放射能汚染に向けられていた。ところが、二人はそんな風潮を気にせず、トロを肴(さかな)に杯を重ね「わさびなくして、すしなし」「いや、タバスコに勝る辛みなし」などと、冗談を言い合った。

 

 柴田が日テレ退社後に記した自著「戦後マスコミ回遊記」(八五年発刊)によると、この米国人は知人を通じての知り合い。自らを「ワトソン」と名乗り、柴田が米中央情報局(CIA)職員かと尋ねたところ「違う、僕は米国務省の人間である」と答えていた。

 

 たわいもない「わさび・タバスコ論争」が一段落した後、ワトソンはビキニ事件後の日本の反核世論に懸念を漏らす。「何か妙案はないか、考えてくれ」と水を向けると、柴田はこう応じた。

 

 「日本には『毒をもって毒を制す』ということわざがある。原爆反対をつぶすには原子力の平和利用を大々的にうたい上げるしかない」

 

 回遊記によると、ワトソンはこの助言に感激。「よろしい、それでいこう」と話し、柴田をぎゅっと抱きしめたという。

 

 米ソ冷戦当時、米アイゼンハワー政権は「反共の砦(とりで)」日本の反核世論が反米運動や左翼運動につながることを警戒。この世論沈静化を対日戦略の要と考えていた。

 

 CIA説を否定したワトソン。しかし、首都ワシントンの米国立公文書館に保管されているCIAの五四年十二月三十一日付の機密文書には「柴田は自 分がやりとりしている相手がCIAだとは知らない」との記述がある。ワトソンがCIAかどうかは不明だが、いずれにせよ柴田の言動は米諜報(ちょうほう) 機関からマークされていた。

 

 当時、新興テレビ局の関係者にすぎなかった柴田。その柴田に米国はなぜ注目したのか。

 

 柴田は愛知県瀬戸市生まれ。実家は瀬戸物の販売業を営んでいた。少年時代、近所の英国人牧師から英語を学んだ。読売新聞に入り、得意の英語を生かして連合国軍総司令部(GHQ)の取材担当記者を務めた。

 

 その柴田の名が一躍有名になったのは四六年の読売争議。経営側についた柴田は、左傾化する社内勢力を抑え込む立役者となった。この際、取材で知り合ったGHQや時の首相、吉田茂(68)の力を借りたとされる。

 

 その七年後の五三年、読売は民放初の日テレを開局する。柴田はこの時も、渡米してテレビ技術を導入するなど中心的な役割を果たした。反共精神と米国に幅広い人脈。柴田は社主の正力松太郎(68)から絶大な信頼を得るようになっていた。

 

 日テレで柴田の秘書を務めた現在七十歳の飯沼不二子。「正力さんは会社に着くなり『柴田を呼べ』と言うのが口癖でした。他の重役も参加する御前会議が終わると、二人だけで部屋にこもることも多かった」と話す。

 

 日本の世論形成に影響力を持つ新聞、テレビのオーナー、正力とその懐刀の柴田。ビキニ事件の対応で手をこまねいていた米国が見逃すはずがなかっ た。当時、米政権中枢に提出した米CIA極秘文書には「大手日刊紙とつながりを持つため正力と柴田を取り込むべきだ」との助言が盛り込まれていた。

 

 柴田がワトソンに「毒をもって毒を制す」と語った、あのすし店の密会があった翌年の五五年元日。読売新聞は朝刊一面で、世界初の原子力潜水艦 「ノーチラス号」を建造したゼネラルダイナミックス(GD)社長ジョン・ホプキンス(61)率いる米原子力平和利用使節団を招聘(しょうへい)する、と報 じた。

 

 GD側との交渉をまとめたのは、やはり柴田。掲載前日の大みそか、柴田が仲介役の米実業家に送った手紙のコピーが残っている。英文タイプで書かれ たその手紙には、お礼とともに「共産主義者の反米運動は激化している。何も手を打たなければ中国やソ連の攻勢を許してしまう」と記されていた。

 

 使節団は民間交流だった。が、後に公開された米公文書で、CIAや米原子力委員会(AEC)など米政権も関与していたことが判明している。

 

 使節団招聘の記事からほぼ二カ月。五五年二月二十七日投開票の総選挙に、柴田が仕える正力は無所属で富山2区から初出馬する。政界入りを目指し、掲げた公約は「原子力の平和利用」だった。

 

【特集・連載】日米同盟と原発
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{日米同盟と原発}安保闘争と原子力をめぐる動き<東京新聞 TOKYO WEB>

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安保闘争と原子力をめぐる動き
2013年2月26日
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{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (5)「原爆製造は可能」<東京新聞>

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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (5)「原爆製造は可能」 
2013年2月26日
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核兵器保有の可能性について、内閣調査室や関連機関が作成していた報告書=志垣さん所有

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カナマロ会発足

 

 一九六〇(昭和三十五)年の安保改定で、米国の「核の傘」に入った日本。だが、池田勇人(64)をはさんで、六四年十一月に岸の実弟、佐藤栄作(63)が首相の座に就くと、核保有をめぐる議論が再び高まる。

 

 きっかけは隣の中国。東京五輪が開かれていた六四年十月十六日、毛沢東(70)率いる中国は原爆実験に成功し、米ソ英仏に次ぐ五番目の核保有国になった。

 

 佐藤政権内で「核の傘による抑止力だけでは不十分」との見方が広がり、首相直轄の内閣調査室(内調、現・内閣情報調査室)は極秘裏に核保有の可能性について研究を始める。

 

 当時、内調の調査主幹で、現在九十歳の志垣民郎は「中国の核実験が起きて大変な危機感を持った。学者の意見を聞くうちに核を持てるかの検討だけでもしてみようということになった」と、そのいきさつを振り返る。

 

 内調の研究会は六八年一月に正式発足。中心となったのは東京工業大教授の垣花秀武(47)と永井陽之助(43)、上智大教授の前田寿(49)とろう山道雄(39)。四人の頭文字を取って「カナマロ会」と名付けられた。

 

 カナマロ会は東京・六本木の国際文化会館で定期的に会合を重ねた。外部講師として、国際政治に詳しい京都大助教授の高坂正尭(33)や旧海軍出身の軍事評論家関野英夫(57)、日本原子力発電の技術者今井隆吉(38)らも加わった。

 

 志垣の手元には当時の極秘資料が多数保管されている。

 

 その一つで、志垣が「影響を受けた」と証言するのが国際政治学者の若泉敬(34)が内調に提出した報告書「中共の核実験と日本の安全保障」。中共は、共産主義国家・中国のことを指す。

 

 報告書はカナマロ会が誕生する前の六四年十二月に書かれていた。中国の核実験からわずか二カ月後の早さだった。若泉は後に首相佐藤のブレーンとして、沖縄返還交渉の密使を務めている。

 

 その報告書は「わが国はあくまでも自ら核武装はしない国是を貫くべきである」としながらも「十分その能力はあるが、自らの信念に従ってやらないだけ」という意思を国内外に示す必要がある、と提言している。

 

 能力がありながら、やらないだけ-。それは、非核政策をとりながら、核兵器に転用可能な技術を温存する「潜在的な核保有国」を目指すとの主張だった。報告書は、そのための具体的な方策として、原発の建設やロケット開発などに取り組むべきだとした。

 

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 世界唯一の被爆国でありながら戦後、原発建設へと踏み出した日本。核の悲劇を繰り返すまいと、原子力の平和利用を信じた国民の知らないところで、政権を支えるブレーンらは原発と核兵器を結びつける議論をひそかに進めていた。

 

 カナマロ会は六八年と七〇年に検討結果を二冊の極秘報告書「日本の核政策に関する基礎的研究」にまとめた。非公開の報告書は、わずか二百部しか印刷されず、内閣官房や省庁幹部、自民党議員など限られた人間にしか配られなかった。

 

 本紙が入手したその報告書によると、六六年に稼働した東海原発の使用済み核燃料などを念頭に「(日本が)プルトニウム原爆を少数製造することは可能」と記されてあった。

 

 内閣調査室の調査主幹だった志垣によると、報告書は当時の内調室長を通じて、首相の佐藤の手にも渡った。志垣は「室長は技術的に製造可能だと強調して報告したが、首相から『核武装はなかなか難しいんだよ』とたしなめられたと聞いた」と話す。

 

 佐藤は、報告書ができる前の六七年十二月、衆院予算委員会で、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を打ち出していた。

 

 一方、内調とは別に外務省も核保有を独自に検討していた。

 

 六八年十一月二十日付の外交政策企画委員会議事録には「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」「ロケット技術が発達すれば、原子爆弾さえ開発すれば軍事に利用できるわけだね」など、幹部クラスのやりとりが記されている。

 

 当時、外務省科学課長として議論を仕切った現在八十三歳の元フランス大使、矢田部厚彦は「日米同盟を考えると、当時も今も核武装は現実的ではない」としながらも「可能性のあるふりをすることが抑止力になる。その方法が科学技術を高めることだった」と明かす。

 

 日本は五九年、ロケット技術の開発方針を決定している。この時、所管する科学技術庁(現・文部科学省)の長官は五四年に戦後初の原子力予算を議員提案した中曽根康弘(41)だった。

 

 元科技庁次官で、現在八十八歳の伊原義徳は六〇年代初めに、自民党議員がロケット予算について「あれはあれだから、よろしく頼むよ」と話し合うのを耳にした。「核爆弾の搭載手段として期待していたのでしょう」と推察する。

 

 佐藤栄作の長男で、現在八十四歳の龍太郎は、佐藤が首相になる前から「ロケット開発の父」と呼ばれた東京大教授糸川英夫(52)と親交が深かったことを明かした上で「おやじにとって科学技術の家庭教師のような存在だった」と証言する。

 

 原発とロケットの開発に取り組むべきだ、と提言した若泉報告からほぼ三十年後の九四年。日本は初の純国産ロケット「H2」の打ち上げに成功する。

 

 この間、原発も猛烈な勢いで列島各地に建設された。二度にわたる石油ショックと、佐藤の後を継いで七二年、首相に就いた田中角栄(54)の登場が引き金だった。その田中は「日本列島改造論」を掲げ、原発を利権化していく。

 

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{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (4)デモは終わった就職だ<東京新聞>

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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (4)デモは終わった就職だ 
2013年2月26日
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1960年6月15日、国会周辺の安保反対デモ。デモの一群が国会敷地内になだれ込み、中央玄関の前庭を一時埋め尽くして気勢を上げた

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うっぷん晴らし

 

 安保闘争は一九六〇(昭和三十五)年六月十八日、国会前に三十三万人を集める戦後最大の反体制運動になった。ところが、翌十九日、日米安保条約の改定が自然承認されると、ほとんどの学生は潮が引くように運動から去った。

 

 学生や労組中心の闘争には反核団体も参加した。ところが、なぜだか原発はテーマにならなかった。

 

 名古屋大の学生だった現在七十七歳の森賢一は、原水爆禁止運動から安保闘争に身を投じた一人。「当時の原水爆禁止世界大会で、欧米の出席者は『原 爆も原発も根っこは同じ』と反原発を主張していた。だけど日本側は平和利用まで反対する必要はないと受け入れなかった。核兵器と原発は別物と考えられてい た」と話す。

 

 東京大OBで当時、学生運動の指南役だった現在八十歳の政治評論家、森田実は「僕は放射能を制御できない危険性や軍事転用の可能性を指摘したが、相手にされなかった。平和利用を持ち上げたメディアのせいだ」と不平を漏らす。

 

 このころ、茨城県東海村で英国の技術を導入した国内初の商業炉、東海原発が着工したばかり。

 

 「安全性や核廃棄物の問題は当時から指摘されていたが、技術で克服できると考えていた」と証言するのは東大助手としてデモに参加した現在八十二歳 で、物理学者の小沼通二(みちじ)。「核のごみの問題がいつまでも尾を引くと見抜けず、安保闘争に結び付けられなかった」と悔やむ。

 

 闘争には、三井三池争議の炭鉱労働者も加わった。その一人、現在七十五歳の中原一は「デモの学生は三池まで応援に来てくれたが、安保が終わると、インフルエンザの流行みたいにサーッと引いた」。

 

 「おれたちの生活がかかっていた」という炭鉱問題は忘れ去られる。石炭は時代遅れのエネルギーとされ、その後を埋めたのは安保闘争が見過ごした原発だった。

 

 六〇年、西田佐知子が歌う「アカシアの雨がやむとき」が流行した。「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」-。

 

 退廃的な歌詞と西田の乾いた声は条約を阻止できなかったデモの敗北感と重なり、安保時代の歌として今も語られている。

 

 安保改定直後の六月下旬、雑誌「週刊文春」は「デモは終わった さあ就職だ」との特集記事を掲載し、世間を驚かせた。

 

 当時若手記者として取材したのは現在八十二歳の作家、半藤一利。「デスクから指示され、半信半疑で大学に行ったら、就職説明会場は満席。当時の学生らにとって安保闘争は政治運動というより、うっぷんを晴らすガス抜きの場だった」と振り返る。

 

 二〇一一年の福島第一原発事故後、国会を取り囲む脱原発デモ。「安保は組織の動員、脱原発は一般市民の意思。決定的に違う」としながらも、半藤は先行きに気をもむ。

 

 原発推進に積極的な自民党が政権に復帰したことで運動が下火になれば「目的を果たせないと一気に引いてしまう安保闘争と同じになる」と話す。

 

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{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (3)最後にほほえみたい<東京新聞>

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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (3)最後にほほえみたい 
2013年2月26日
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1960年6月24日、国会突入デモで亡くなった東大生、樺美智子さんの「国民葬」と銘打って行われたデモ行進

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 日米安保条約の改定をめぐる国会審議は、社会党(現・社民党)など野党の反発で紛糾が続いた。

 

 労組団体の総評(現・連合)や原水爆に反対する市民団体、大学自治会の学生らも列島各地で集会を開き、国会前では「安保批准反対」を叫ぶデモが繰り返されていた。

 

 米大統領アイゼンハワーの初来日を一カ月後に控えた一九六〇(昭和三十五)年五月二十日未明。与党の自民党は過半数を占める衆院で強行採決に踏み 切り、条約改定を承認する。大統領来日までの国会承認を目指し、参院の議決がなくても三十日後に自然承認される「衆院の優越」の適用を計算した岸の執念 だった。

 

 しかし、国会に五百人もの警官を動員するなど強引な国会運営に批判が強まり、逆に安保闘争を勢いづかせた。

 

 「アメリカの核の傘に入り、冷戦に巻き込まれる軍事同盟には反対だった。岸政権への反感がエネルギーとなり、運動は一気に広がった」。そう振り返るのは当時、反対デモに参加していた現在七十一歳の元参院議長、江田五月

 

 国会や首相官邸の周辺では連日、学生らが腕を組んで左右に蛇行する「ジグザグ行進」を展開。デモは東京・渋谷にある岸の自宅前にも押しかけた。

 

 当時、岸の秘書を務めた現在八十六歳の堀渉は「まだ幼かった(現首相の)安倍晋三さんが遊びに来て『アンポ、ハンターイ』とデモのまねをしていました」と語る。

 

 衆院の強行採決からほぼ一カ月後の六月十五日。国会を取り囲んだ四千人の学生が敷地内になだれ込み、警官隊と衝突。東京大文学部四年の樺(かんば)美智子(22)が死亡した。安保闘争で死者が出たのは初めてだった。

 

 警察は「学生の転倒が原因の圧死」と発表。人の波に押されて転んだ樺が、後列の学生によって踏まれた事故死と断定した。

 

 しかし、樺の同級生で二、三列後ろにいた現在七十五歳の長崎暢子は「警察官の暴行が原因だと思う」。「彼らは学生の頭を警棒でボカボカ殴り、見えないところで腹を突いてきた」と証言、自身も頭を殴られ、二日間入院した。

 

 後方にいた東大教養学部一年の江田も「前方で、樺さんと警察官が対峙(たいじ)していた」。樺は東大生を束ねるリーダーの一人で、以前から顔を覚えていたという。

 

 当時、民間病院の内科医だった現在八十七歳の丸屋博司法解剖に立ち会った国会議員を通じて入手した情報から「腹部への強い衝撃と首を絞められた窒息によって死亡した可能性がある」との見解を示した。だが事故死とする警察の見方は覆らなかった。

 

 安保闘争が生んだ「悲劇のヒロイン」として語られた樺。有志らが「国民葬」と銘打った樺の葬儀が東京・日比谷公会堂で行われたのは、日米両政府が改定後の新条約を批准した翌日の六月二十四日だった。二万二千人が参列し、遺影を掲げて国会までデモ行進した。

 

 しかし、ともに文学や歴史を愛し、気の合う友人だった長崎は「樺さんは革命というよりも、当時の日本にはなかった女性の社会進出や男女同権に関心を持っていた」と話す。

 

 父親は大学教授だったが「樺さんは『いいところの娘さん』と出自で判断されるのを嫌がった。きれいな服装の女子学生が増える中で、目立たないように地味な服ばかり着ていた」。大学院への進学を望んでいた樺が「私には決まった人がいる」と恋愛話を打ち明けたこともあった。

 

 東京・多磨霊園の墓碑に刻まれた樺の詩。彼女が高校生の時に創作したその詩からは、控えめだった少女の面影が浮かび上がる。

 

誰かが私を笑っている

 

(中略)

 

でも私は

 

いつまでも笑わないだろう

 

いつまでも笑えないだろう

 

それでいいのだ

 

ただ許されるものなら

 

最後に

 

人知れずほほえみたいものだ

 

 <日米安全保障条約> 正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。連合国軍占領中の1951年にサンフランシスコ 講和条約とともに結んだ旧条約を改定し、60年1月19日に署名・調印、6月23日に発効した。日米同盟の中核となる条約で、現在まで続いている。米国の 日本に対する防衛義務や「極東の平和と安全の維持」を理由に米軍が日本国内の基地を使うことが明記されている。60年の改定時に続き、70年の条約延長時 にも反対闘争が勃発。学生が「ヘルメットとゲバ棒」で武装して戦ったが、内ゲバが起きるなどして退潮した。

 

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{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (2)「岸に賭けよう」 <東京新聞>

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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (2)「岸に賭けよう」 
2013年2月26日
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1957年6月19日、ワシントン郊外のゴルフコースで、クラブで前方を指しながら話しかけるアイゼンハワー米大統領と岸信介首相(左から2人目)=AP

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米から選挙資金

 

 ソ連との対決姿勢を強める米国にとって、熱烈な反共主義者の岸は頼もしいリーダーだった。

 

 米陸軍情報部は、巣鴨拘置所の釈放直後から岸をマークしていた。一九五三(昭和二十八)年九月十八日付の情報ファイルには「岸は親しみやすく西洋的に振る舞い、スコッチウイスキーを飲む」などと好意的に記され、将来の首相候補と分析していた。

 

 首相就任後に岸がぶち上げた、あの「核保有合憲」発言。米国立公文書館で保管されている五七年六月十七日付の国務省極秘文書には「われわれの核配備への要求に対する、日本の首相の初めての啓発的な態度だ」と、その歓迎ぶりが記されてあった。

 

 「ニュールック」と呼ばれる軍事戦略を模索していた当時の米アイゼンハワー政権。それは、原子力の平和利用を推進する「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を隠れみのに被爆国・日本を含む西側陣営に核兵器を配備する作戦だった。

 

 ところが、日本はマグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験で被ばくした五四年のビキニ事件で反核世論が高まっていた。岸が首相に就任する前の五六年十二月三日、国務省高官が国防総省へ送った書簡は日本への配備の難しさを認めた上で、こう記されていた。

 

 「日本の指導者へ通常兵器についての教育が進めば、彼らは核兵器の有用性を受け入れ、さらにそれを望むかもしれない」

 

 米国がそんな期待を膨らませていた時、首相に就いたのが岸だった。

 

 五七年六月五日に行われた国務長官ダレスと大統領特別補佐官フランク・ナッシュ(47)の会議メモ。ダレスが「岸に賭けようと思っている」と打ち明けると、ナッシュは「在日米大使館から得た情報ではそれが最良にして唯一の方法です」と答えていた。

 

 その二週間後に訪米した岸を、大統領アイゼンハワーはゴルフに招待し、ラウンド後は並んでシャワーを浴びた。日米の対等関係を演出した。

 

 岸が望んだ日米安保条約の改定は、米国に日本への核配備を許したわけではない。しかし、在日米軍が日本を防衛するという大義は、手詰まり感のあった米国の対日戦略に新たな道を開くものだった。

 

 実際、米国は安保改定後、米艦船の航行や寄港などを通じ、日本近海に核兵器を持ち込んでいる。こうした間接的な手法を通じて米国は核配備とほぼ同等の抑止力を手にし、ソ連や中国ににらみをきかせた。

 

 訪米からほぼ一年後の五八年四月、岸は対米外交の成果をひっさげ、解散・総選挙に打って出る。与党の自民党は過半数を大きく上回る二百八十七議席を獲得。安保改定を実現する条件を整えることになるが、ここでも米国の影がちらつく。

 

 米国務省が二〇〇六年に公表した外交文書集は、この総選挙で米中央情報局(CIA)が関与していた事実をこう記している。

 

 「アイゼンハワー政権はCIAに対し、数人の親米の保守政治家へ秘密裏に資金提供する許可を出した。支援を受けた候補者たちは、米国人ビジネスマンからの資金だとしか伝えられていなかった」

 

 文書は、CIAから資金を受け取った政治家名を明らかにしていない。ただ、安保改定を目指す岸や米国への追い風になったことは確かだった。

 

 六〇年一月、再び渡米した岸はアイゼンハワーとの間で安保改定に調印する。後は自民党が多数を占める国会での審議、承認を残すのみとなった。

 

 ところが、岸と米国のシナリオは最終章で大きく狂いだす。日本が核戦争に巻き込まれるのではないかという国民の不安はやがて戦後最大の反体制運動へ発展し、列島を熱くする。

 

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{日米同盟と原発}第6回「アカシアの雨 核の傘」 (1)昭和の妖怪<東京新聞>

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第6回「アカシアの雨 核の傘」 (1)昭和の妖怪
2013年2月26日
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 一九六〇(昭和三十五)年、首相岸信介(一八九六~一九八七年)は、日米安全保障条約の改定を果たす。米ソ冷戦下、新たな同盟関係を結び日本は米 国の「核の傘」に入った。「反米」「反核」を掲げ日本中を席巻した安保闘争は岸を退陣に追い込んだが、原発には触れずじまいだった。六四年に中国が核実験 に成功すると、直後に首相に就いた岸の実弟、佐藤栄作(一九〇一~七五年)の下で、核兵器に転用可能な原発技術を利用した「潜在的な核保有」がひそかに検 討される。原発と核兵器が政権の裏側で結びつく経緯と、その背景を探った。 (文中・表の敬称略、肩書・年齢は当時)

 

「核保有は合憲」

 

 初代原子力委員長の正力松太郎(72)が、英国からの技術導入で日本初の原発建設を表明した六カ月後の一九五七(昭和三十二)年五月七日。参院内閣委員会は、首相岸信介(60)の発言に騒然となった。

 

 病に倒れた石橋湛山(72)の後を継いで三カ月足らず。首相として初の国会審議に臨んだ岸は、核兵器の保有が戦後の平和憲法に触れるのかと質問され、こう答えた。

 

 「核兵器と名前がつけば、いかなるものもこれは憲法違反と、こういう法律的解釈につきましては…(中略)…その自衛力の本来の本質に反せない性格を持っているものならば、原子力を用いましても私は差しつかえないのじゃないか、かように考えております」

 

 自衛のための核保有なら「合憲」という考え方だった。広島、長崎に原爆を投下されてから十二年。戦後の首相が公の場で核保有に言及したのは初めてだった。

 

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 戦前、東条英機内閣で商工相を務め、日米開戦の詔書に署名した岸。A級戦犯容疑者から首相にまで上り詰めたのは戦後唯一だった。野党が改憲、再軍備を唱えるタカ派、岸の登場を警戒した直後に、いきなり飛び出した「核保有合憲」発言だった。

 

 戦前、商工省の革新官僚としてならした岸が政界への足がかりをつかんだのは、満州への赴任時代。日本が中国東北部に築いた満州国で副首相にあたる総務庁次長になった。

 

 当時、満州に顔をそろえた総務庁長官の星野直樹関東軍参謀長の東条英機満州鉄道総裁の松岡洋右(ようすけ)、日産創業者の鮎川義介と並ぶ実力 者の一人とされ、その五人はそれぞれの名前をもじって「二キ三スケ」と呼ばれた。満州人脈は戦後、岸の政治活動にも生かされた。

 

 生前の岸をインタビューし「岸信介証言録」(二〇〇三年発刊)をまとめた現在七十三歳の東京国際大名誉教授、原彬久(よしひさ)は「星野直樹は『岸は立派な政治家になって満州を卒業した』といろいろな皮肉を込めて語っていたが、まさにそうだろう」と話す。

 

 戦後は、大物右翼との黒い交際がうわさされた。岸は原のインタビューで、東京・巣鴨拘置所巣鴨プリズン)時代をきっかけに、政財界の黒幕とされた児玉誉士夫(46)や笹川良一(58)と付き合いがあったことを認めている。

 

 エリート官僚、満州の支配者、A級戦犯容疑、右翼との親交…。清濁併せのむ岸は戦前、戦後の政界を渡り歩き、六〇年の首相退任後も影響力を発揮した。後に「昭和の妖怪」とあだ名され、その華麗なる血筋は現在の首相、安倍晋三まで脈々と続いている。

 

 五七年五月、政界を揺さぶった岸の「核保有合憲」発言。実はこの一カ月後、岸はワシントンで開かれる米大統領アイゼンハワー(66)との日米首脳 会談を控えていた。最大のテーマは当時、駐留米軍に日本防衛の義務がなかった日米安保条約の改定。発言はそれに向けた地ならしの意味合いを持っていた。

 

 二年前の五五年八月に開かれた外相、重光葵(68)と米国務長官ジョン・ダレス(67)との日米外相会談。当時、岸も日本民主党(現・自民党)幹事長として同席した会談で、日本側は安保改定の意向を初めて申し出た。

 

 米国務省の公表文書によると、ダレスはこの時「もしグアムが攻撃されても日本は米国を防衛してくれるのか。日本が十分な戦力を持つならば状況は 違ってくるだろう」と条件をつけている。岸は「証言録」で「(ダレスは)木で鼻をくくるような無愛想な態度」だった、と回想している。

 

 「核保有合憲」発言は、日本の発奮を求めたダレスへの回答か。それとも、改憲論者で自前の防衛力を主張する岸の狙いは、もっと深いところにあったのか。その真意について、岸は生前明確にしていない。

 

 その岸は、首相として初めての正月を迎えた五八年一月、茨城県東海村で完成したばかりの国内初の研究用原子炉を視察している。この時の気持ちを、 自著「岸信介回顧録」(八三年発刊)で「平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる」と記している。

 

 いずれにせよ、米国は岸の「核保有合憲」発言を好意的に受け止めた。五七年六月の日米首脳会談で、日米委員会の設置が決まり、安保改定は具体的に動き始める。それは米ソ冷戦下で、米国の核兵器によって守られる「核の傘」に入ることを意味していた。

 

 岸信介(きし・のぶすけ) 1896(明治29)年、山口県山口町(現・山口市)で長州藩士の家系、佐藤家の次男に生まれる。5歳下の三男は後の首相、佐藤栄作。10代で父方の岸家に養子入りした。

 東京帝国大法学部卒業後、農商務省(後の商工省)入省。1936(昭和11)年から3年間、中国東北部に日本が築いた満州国の運営に携わった。41年に東条英機内閣の商工相に就任し、戦時中の軍需産業や物資調達を取り仕切った。

 終戦後はA級戦犯容疑者として3年間、巣鴨拘置所などに収監されたが起訴を免れ、53年に衆院議員に当選。55年の保守合同で自民党初代幹事長となり、57年2月に首相就任。日米安全保障条約改定をめぐる混乱を受け、安保批准後の60年7月に退任した。

 79年まで衆院議員を9期務め、日韓外交などに尽力。87年に90歳で死去した。娘婿に外相などを歴任した安倍晋太郎、孫に現首相の安倍晋三と現衆院議員の岸信夫がいる。

 

【特集・連載】日米同盟と原発
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{日米同盟と原発}原発を核武装潜在力に 64年に首相ブレーン報告書<東京新聞>

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日米同盟と原発
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原発核武装潜在力に 64年に首相ブレーン報告書
2013年2月26日
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▼全文転載

 佐藤栄作首相のブレーンで、沖縄返還交渉の密使を務めた国際政治学者の若泉敬氏(故人)が、1964(昭和39)年に中国が核実験に成功した直 後、その対応策として核兵器に転用可能な原子力技術を高めるべきだとする報告書をまとめていたことが分かった。首相直属の内閣調査室(内調、現・内閣情報 調査室)に提出され、佐藤政権下で核保有をめぐる水面下の政策論議につながった。

 

若泉氏が1964年12月に内閣調査室の依頼で作成した報告書「中共の核実験と日本の安全保障」

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 若泉氏は報告書で、日本が非核政策を維持しながら、核武装の潜在能力を持つべきだと主張。核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という佐藤首相が唱えた67年の「非核三原則」にも影響を与えた可能性が高い。

 報告書は当時、内調の調査主幹を務めていた志垣民郎さん(90)=東京都世田谷区=が保管していた。

 本紙が入手したその報告書は「中共の核実験と日本の安全保障」のタイトル。内調への提出は、中国(中共)の核実験から2カ月後の64年12月2日付。

 冷戦下、中国が核保有国入りしたことは日本の安全保障の新たな脅威とされたが、報告書はその影響は防衛面よりも「心理的、政治的なものである」と指摘。「わが国はあくまでも自ら核武装はしないという国是を貫くべきだ」とした。

 

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 ただ「何時(いつ)でもやれるのだという潜在的な能力」を持つ必要があるとし「原子力の平和利用に大いに力をそそぐと共に、他方では日本が国産の ロケットによって日本の人工衛星を打ち上げる計画を優先的に検討するよう提案したい」とし、原発建設や宇宙開発に取り組むよう提言していた。

 佐藤政権下の核保有論議では、内調のまとめた2部構成の「日本の核政策に関する基礎的研究」(1968、70年)や外務省の「わが国の外交政策大綱」(69年)が極秘報告書として作成されていたことが分かっている。

 いずれも憲法9条日米安全保障条約との関係から、日本の核保有に否定的だが「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(潜在能力)を常に保持する」(外交政策大綱)などと指摘していた。

 若泉報告は、これら報告書より数年も早く、志垣さんは「大いに影響を受けた」と話している。

  

 

◆核政策動機記す

 

 日米関係史に詳しい名古屋大の春名幹男客員教授(ジャーナリズム論)の話

 若泉氏は佐藤首相のブレーンとして、現在も日本の基本政策である「核政策4本柱」(非核3原則の厳守、核軍縮、米の核抑止力依存、原子力の平和利 用)を起草し、首相が1968年1月に国会で初めて表明した。今回見つかった報告書にはこの4本柱の動機が鮮やかに記されている。若泉氏は当時30代の若 さで、日本の核政策の針路を形成したことになる。

 

◆現実主義の視点

 

 「若泉敬と日米密約」などの著書がある日本大の信夫(しのぶ)隆司教授(政治学)の話

 若泉氏についての研究は多いが、中国の核実験直後にこうした報告書を作成していたことは知られていない。原子力技術を軍事利用と結び付ける視点は 現実主義者の若泉氏ならではだろう。この原発と軍事の関係こそ、福島第1原発事故後の現在も政治が原発ゼロを進めることのできない隠された理由になってい る。

 

 若泉敬(わかいずみ・けい) 1930年、福井県生まれ。防衛庁(現防衛省)防衛研究所の研究員を経て、京都産業大教授となり、67年ごろから佐 藤栄作首相の密使として外務省とは別ルートでの対米交渉を担当。「緊急時に米軍が核兵器を持ち込める」という密約と引き換えに、72年の沖縄返還の実現を 導いた。94年に自著「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」で核密約の存在を暴露し、沖縄への謝罪の念を書き記した。96年死去。

 

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