「北の山・じろう」時事問題などの日記

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ラ・アーグ再処理工場事故〜1980年人類絶滅寸前の事故があった

テーマ:再処理工場
★阿修羅♪ >から引用
超・ウルトラ・スーパー恐ろしい話です。再処理工場が事故を起こし、爆発したなら
半径1万メートルの範囲は、全滅というすさまじい被害が、発生するそうです。
それが、現実にフランスのラ・アーグ再処理工場で起こりかけたのです。
この時は、運よく大事故には、至りませんでした。しかし、操業が始まっていたら大事故になっていたと思われます。

「東京に原発を!」 P208〜より
著者:広瀬隆・・・・この著作から抜粋引用しています。
(投稿者 JPLAW 日時 2009 年 10 月 21 日 23:14:43: 8Qw.LQgdpBEaI)
1980年人類絶滅寸前の事故があった
ラ・アーグ再処理工場事故(1〜4)

http://www.asyura2.com/09/genpatu6/msg/282.html
http://www.asyura2.com/09/genpatu6/msg/283.html
http://www.asyura2.com/09/genpatu6/msg/284.html
http://www.asyura2.com/09/genpatu6/msg/285.html

その1
シェルブールの停電事件
 一九八〇年四月十五日の早朝に、恐怖の事件がフランスで起こった。
 パリから直線にして三百キロ、山あいの遠い道のりを経て、ノルマンディー半島の先端まで出ると英仏海峡がある。ここに、シェルブールの港が寂しくたたずんでいる。映画『シェルブールの雨傘』の舞台として描かれた昔の時代ではなく、朝八時半にもなると、人びとは出勤時間を迎え、店舗や工場へ出た。
 なかでも、シェルブール港近くにあるひとつの工場は、さまざまな近代装置を揃えた巨大プラントだという噂だった。工場はすでに機械の運転準備を進め、あと十分後にはプルトニウムを大量に処理しはじめようという時刻を迎えていた。この工場こそ、ほとんど全世界の原子力発電所で発電用に使われ、死の灰の塊と変った燃料を一手に引き受ける、恐怖のラ・アーグ 再処理工場である。恐怖……それは巨大原子炉の大事故、チャイナ・シンドロームさえ、足もとにもおよばないおそろしさ。すでにこの工場が抱えこんでしまった死の灰は、それが外にあふれ出たなら、この惑星の全生命が一瞬にして静止するであろう。そのあとに訪れるのは、永遠の静寂、死の世界である、と言われていた。
 そのような工場がこの地球上に存在し、ほとんどの人間がそれを知らずに生涯を送っている。フランスの文学者も、哲学者も、口角泡を飛ばしながら、その世界を知らずにいた。これはどの奇異、これはどの不思議があろうか。だが、事実だった。パリとロンドンの鼻先、ノルマンディーの港町に、この工場が横たわっている。
≪続く≫


その2
 その朝の時刻に、いきなり工場の電気がパタリと止まった。一斉に、すべての電気が切れたのである。工場内に、血の凍るような戦慄が走った。
 それはただの停電と呼ぶべきものではなかった。モーターの音が切れ、ポンプが回転を止め、ファンがゆっくり静止すると、電灯のあかりもなくなった建物は浅い静寂のなかに置かれてしまった。
 だがこの静寂は、人のまわりに観察された現象だ。
 高レペルの廃液は、ポンプで送り出される水によって冷却されていた。そのポンプが回転を止めると、廃液が自分で音を立てはじめた。液体のなかから湧き出てくる熱がどこへも伝えられず、次第に内部にこもってくる。
 この電源は、フランス全土に向けた高圧送電線のネットワークから送られていたもので、ちょうどこの工場に向かう一本に故障が起こった。しかしこのような事態は、当然予測されていた。
 主電源が切れると、ただちに電源スイッチが切り替えられ、非常時のために用意されていた自家発電機が、轟然と音を立てて回りはじめた。工場のなかに灯りがともり、すべての機械が回復すると、モーターが再びうなり出し、ポンプが大量の水を送りはじめ、ファンが回り出した。
 高レペルの廃液は、早くもすでに冷却され、表面から立ちのぼる爆発性のガスがファンで外へ送り出された。工場内に走った緊張は、一瞬のうちに解かれたのである。
 そうこうするうち、故障を起こした主電源もようやく修理が終り、もと通り、こちらが再び電気を送りはじめた。もはや、心配することは何もなかった。しかし、あろうことか、この修理が予期せぬ事態を招いたのである。
 主電源が回復したのに、自家発電機のスイッチを切らなかった。
 自家発電機は相変らず轟然たる音をたて、工場に電気を送り続けていた。その同じ回路に、もうひとつ、主電源からの電気が流れ込めば、どのような結果が引き起こされよう。あってはならないことだった。巨大な電圧が両方からドッと作用した。
 その結果、主電源のトランスが破壊され、おそろしい電圧を受け止めきれずに工場じゅうのあちこちで猛烈な火花が散ると、やがてその部分が火を噴きはじめ、遂に末期的な事態が襲いかかってきた。実際、電気の流れが至るところで切断されてしまったのである。
 そのため、自家発電機も完全にストップした。ラ・アーグ再処理工場は、このふたつ以外に電気を送り込む術を持っていなかったが、そのふたつが同時に破壊されてしまった。
 すでにこのとき、全世界破滅の時限爆弾は秒読みに入っていた。だが、このような緊迫した状態ではあり得ない不思議な静けさが、工場を支配したことも確かだった。これは、重大事故だ。そのようなとき、工場内には警報が洪水のように鳴り続け、人びとに「緊急避難」の放送がおこなわれるだろう。しかしラ・アーグでは、警報も停電していた。
 放射能を監視する計器類も止まっていた。記録計のペンも動かなかった。一体全体、工場でどのようなおそろしいことが進行しているか、一切わからないのだ。しかし何かが起こっていることは間違いないという無気味な恐怖に襲われた人びとは、この工場が抱え込んでしまった廃棄物の量を思い起こしていた。もしこのまま手を打つことができないまま事態が進行すれば、広島に投下された原爆を何万ダースも集めた量に匹敵する"死の灰”が、すっぽり地球を包むことになるだろう。
 高レペルの廃液は、今度こそグツグツと音を立てはじめた。人びとが最もおそれていた事態に近づいていったのである。液体が沸騰しはじめ、なかに含まれていたセシウムが蒸気となって出はじめていた。これは、致死性の猛毒ガスだった。そのガスが、もうもうとタンクから立ち昇った。
≪続く≫


その3
 しかしわれわれは、まだ生きている。読者は健在だ。
 この工場火災は、危機一髪のところで大惨事を免れたのである。
 不幸中の幸い、というべきことが三つあった。第一に、この工場から二十キロという近い距離にフランス軍の兵器庫があり、偶然にも、そこに緊急発電装置があった。これを自動車に積み込んで工場まで運び、息せいて配線し終えたとき、まだ悪夢は起こっていなかったのである。それから一時間後には、廃液タンクの冷却が再びはじまり、沸騰していた溶液を辛うじてもとのように静まらせることができたのである。偶然の発電機の存在による幸運があった。
 第二に、この四月十五日は、春の季節を迎えていた。名画『シェルプールの雨傘』のもの悲しいラスト・シーンをご記億の方は、このノルマンディー地方が冬には深い雪に覆われ、かじけるような寒さに見舞われることに思い当たるだろう。実際、二月でもあれば、人びとは冬着に身を包み、自動車で町を往還する。その自動車が山あいの道を楽に走れるようになるのは、ようやく雪が消え、春を迎えた四月のことである。この火災が二月の厳冬期に起こっていたなら、トラックが山間の雪道を走りぬいて兵器庫から発電機を運び込むのに、どれほど手間どったか……あるいは、到着しなかったのではないか、と報じられている。春四月の幸運だった。
 第三に、停電が起こったのは、午前八時三十分ごろだった。プルトニウムを処理する作業がちょうど準備中で、いよいよこれから危険な作業をはじめようという矢先の出来事だったのである。プルトニウムの処理がスタートしていれば、この原爆材料はコンピューターで厳密にコントロールされ、細心の注意を払って“核爆発”を起こさない状態に保たれていなければならない。コンピューター、それは電子計算機とも呼ばれるものだ。
 工場が停電に陥ったとき、この電動式の機械は完全に停止していた。あと十分後に予定されていたプルトニウム処理がはじまっていれば、かなり高い確率をもって核爆発が起こっていたと推定されている。兵器庫から緊急発電機が運び込まれ、プルトニウム処理の安全装置に電気が流れはじめたのは、ようやく三時間後のことだ。用意されていた当日のプルトニウムの処理量は三十キログラムに達していたが、それは、長崎に投下された原爆をはるかにしのぐ量である。原爆一個つくるには、四キログラムあれば充分だという。この三十キロが爆発していれば、工場すべてが吹っ飛んでいたであろう。
 運転開始直前の時刻による幸運だった。
≪続く≫


その4
 再処理工場が大爆発を起こすと、どうなるだろう。
 これは要するに、原子力発電所を百基とか一千基とか束ねて、それが同時にメルトダウン→ガス爆発(または核爆発)の経過をたどるもの、と理解してよい。
 その結果は、すでに西ドイツで解析されている。西ドイツのレポートによると、万一冷却装置が不能になると爆発によって工場の周囲百キロの範囲で、全住民が致死量の十倍から二百倍の放射能を浴びて即死、つまりチェルノブイリからキエフの範囲、あるいは東海村から東京の範囲が即死地帯となる。最終的死亡者の数は、西ドイツ全人口の半分にのぼる可能性がある、というのだ。
 このレポートが西ドイツのケルン原子炉安全研究所から内務省に提出されたのが一九七六年七月、いまから十年以上も前のことであるから、その当時より原子炉の数も規模もずっと大きくなっている今日では、蓄えている死の灰が桁違いに大きく、「致死量の及ぶ範囲は一万キロを超える」というのが定説になっている。
 一万キロ?
 地球の一周が四万キロだから、前後左右に一万手口の範囲をカバーすると、地球の半分を覆いつくす範囲の人間が死んでしまう。国民の半分どころではない。地球の半分だ。しかしラ・アーグの再処理工場から一万キロの円を描くと、左の桧(投稿者注:転記の都合下の図)のように、人類のほとんどがこの世から姿を消す。

 一万キロ?一万をさかさに読むと万一……
 その万一のことが、この一九八〇年代にフランスで起こりかけたのである。
 これほど大変な事故が起きかけたというのに、それを知っている人は、全世界でも数少ない。これは、火災発生と同時に、フランスの大統領ジスカールデスタンが完全な報道管制を命じたからである。わが国で「あわや大事故」と報じた毎日新聞の日付が、火災から二ヵ月も後の六月十一日である。さまざまな民間情報から、ようやく事件の全貌がわかってきたのである。
 しかしわが国の原子力産業は、このような人類史上の大事件をほとんど報じていない。飛行機のニアミスがあれば、プロレス新聞まがいの見出しが社会面を飾るが、原子力の危険性は故意に隠されているのではないか。東海村の再処理工場がラ・アーグエ場をモデルに設計されているので、そのような事件が世間に伝われば、大問題となる。加えて、東海村を桁違いに大きくした第二再処理工場がすでに計画されているこの時点で、ラ・アーグの事件はあまりに「まずい」のだ。
 当事者でさえこの事件を知らされていない。たとえば実際に再処理工場を動かしている“原発シンジケート”の下部集団である。原子力発電所そのものの内部で、いわゆる運転員や作業者が、黙々と原子力に肉体を捧げている現場に目を向けてみよう。
 彼らは電力会社の従業員として、入社した時から社内教育を受ける。一人ずつに教科書が手渡され、原子力安全論を吹きこまれる。一例を引くと、東京電力では『原子力の周辺』と題した教科書が採用され、そのなかで再処理工場の大惨事が論じられているが、
 ───すると、万一水の循環が止まったら?

「そうですね、熱目のフロのお湯ぐらいには温度が上がりますが、沸騰するなどということはありませんよ」


 と書かれている。事実フランスのラ・アーグ再処理工場では、放射性廃液が沸騰し、全世界が死滅寸前の重大事に直面していたが、電力会社はその危険性を社員に教育していないのである。したがって運転員も作業者も、あるいは重大な点検と整備をおこなう下請け作業者も、彼らの妻子を含めた地元民も、原子力の危険性を「熱目のフロのお湯」のレペルでしか認識できないのである。その教科書の内容こそ、日常接する大新聞に流れこんで多くの人を洗脳してきた安全論の危険な正体でもある。
「東京に原発を!」 P208〜より
著者:広瀬隆