「河北新報」連載特集「二つの被ばく地」から全文転載
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(2)葬られた街/帰還権なき強制移住/消せぬ懐郷の思い
2012年08月16日木曜日
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▼全文転載
森に沈むプリピャチ中心部の建物。5万人が暮らした街が無人となって26年がたつ
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<162地区の墓標>
検問を抜けると、風景が変わった。畑がなくなり、森が深くなる。人影も消えた。
ウクライナの首都キエフから北に車で2時間。チェルノブイリ原発の30キロ圏は事故26年後の今も、ベラルーシ側の一部を除き、一般の立ち入りが禁じられている。
事故当時、30キロ圏に住んでいた11万6000人は強制移住させられた。時折、廃屋が見える。汚染のひどい家は壊されて埋められた。その跡がこんもりと、墓場の土まんじゅうのように連なる。
原発まで十数キロ。事故処理の基地になっているチェルノブイリ市には、「希望の小道」というモニュメントがあった。
強制移住で消えた162の居住区の標識が200メートルにわたり立ち並ぶ。花も供えられている。まるで墓標だ。長泥(福島県飯舘村)、赤宇木(浪江町)、夫沢(大熊町)。福島第1原発事故で放出された放射性物質が降り、住民が避難を強いられた地域の名が浮かぶ。
高層のアパート群が森に沈み掛けていた。原発から3キロの街プリピャチ。「古代遺跡だな」。視察団から嘆息が漏れた。
<面的除染せず>
5万人が暮らした原発職員のベッドタウン。平均年齢は26歳で毎年、赤ちゃんが1000人生まれた。若い、活気のある街だった。
キエフ・チェルノブイリ博物館での説明を思い出す。「原発はウクライナの誇りだった。プリピャチの人は将来に自信を持って暮らしていた」
その街が無人となり、26年が過ぎた。メーンのレーニン大通りは草木が茂り、獣道寸前だ。壁がはがれた劇場。無言の遊園地。赤さびたイルミネーションの中、鎌とハンマーをかたどる旧ソ連の国章だけがアルミ製なのか、銀に輝いていた。
旧ソ連は89年まで大規模な除染を行ったが、膨大な経費の割に効果が薄く、大量の廃棄物が発生する問題もあって中止した。被災地が広がるウクライナ、ベラルーシ、ロシアの3国は現在、面的な除染はしていない。高い汚染地は除染ではなく、移住が原則だ。
「元の居住区に住民が戻った例はない。26年で家もインフラも壊れた。帰還させる案は全くない」。ベラルーシ非常事態省の担当局長は断言した。ウクライナ政府も30キロ圏への帰還は数百年間は許可しない考えで、「半分は永遠に立ち入りが制限される」とする。
<住民が選択を>
ロシアの被災地支援策に詳しい現代経営技術研究所(東京)の尾松亮主任研究員はこう提言する。「被災者の権利は幅広くした方がいい。移住権と帰還権をセットで設定するべきだ」
日本の避難基準は年間20ミリシーベルト。それを下回る地域にも一定の基準を設け、移住か居住かを住民が選べるようにする。
その上で、一方通行の「出ていく権利」だけでなく、線量や土壌汚染が低減した将来、古里の復興に尽くせるよう、復帰を支援する仕組みも用意しておく。帰還権は旧ソ連3国にはない概念だ。
土地が国有だった旧社会主義国では、郷土への愛着が日本と比べて薄いとみる向きもある。でも、それは違った。
「家に帰れない絶望。それが一番つらい」。プリピャチからの避難者は昨年11月、福島県の民間調査団に答えた。年に一度、古里への墓参が許される正教の春の招霊祭。立ち入り禁止区域は大勢でにぎわう。懐郷の思いは葬れない。
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