「北の山・じろう」時事問題などの日記

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原子力発電所の生い立ち(原発は、どのようにして生まれたのか??)・・①

元々の発端は、旧ソ連が1951年9月に、世界最初の原子力発電所オブニンスクの建設を開始したことが始まりである。
当時は、東西冷戦下にあり軍拡競争を始めとして、あらゆる分野で米ソが競い合っていた時代である。
 旧ソ連政府の狙いは、核エネルギーの平和利用をアピールするとともに、自国の(対アメリカでの)優位性を宣伝する事にあったと推測される。
同時に、非難を浴びずにプルトニウムを作り出す狙いもあったと推測される。

 これに対しアメリカは、核の優位性(核兵器の独占)を考えていたと推測される。アメリカのリアクションは、2年後のアイゼンハワー大統領の国連での
『平和のための原子力』演説で示された。

この間の経緯はハッキリ、私には分からないがアメリカの「核兵器独占」の試みに世界各国の反対があり、核平和利用(=核兵器保有)の流れに逆らえなくなったためでは、ないかと推測する。
 大きな理由は、西側陣営(特にフランス)のソ連の『核への脅威』では
なかったのかと推測する。
※アメリカの同盟国イギリスは、1952年に核実験を実行している。
『核平和利用』は、表向きの看板であって、実際には核兵器開発の隠れ蓑である事は、主要国のその後の『核実験』の実行によって証明されていく。
ちなみに
★アメリカの最初の核実験「ガジェット (爆弾)」1945年7月16日
★ソ連の最初の核実験
RDS-1 1949年8月29日午前7時(現地時間)
★イギリスの最初の核実験(ハリケーン作戦)
1952年10月3日00時00分(GMT)(西オーストラリア時刻同日08時00分)
★フランスの最初の核実験(ジェルボアーズ・ブルー) 1960年2月13日
★中国 (596)  1964年10月16日
中国による初の原子爆弾実験
★インド (微笑むブッダ)1974年5月18日
インドによる初の核分裂爆発実験
(各ウイキペデイアから引用)
となっていて、アメリカが懸念した(?)とおり核実験と核兵器は『拡散』していくのである。
 ソ連の世界最初の「原子力発電所オブニンスク」の建設と言う『原子力の平和利用』という宣伝は、核実験に遅れをとったソ連政府の巻き返しの手段と推測されるのである。
上記、各国の核開発競争を見るなら、『原子力の平和利用』は「お題目」に過ぎないことが良く分かると思う。

 『原子力の平和利用』の内容は、実際にはこのような看板にすぎなかった。
これに敏感に反応したのが、当時の日本政府である。
すぐに予算案が作成され、翌年可決されている。
実際には、具体的な計画はなく、予算はほとんど未消化で繰り越されたと言う事である。
 ここから、日本の原子力への第一歩が始まった。
しかし、実際には水面下でそれ以前から原子力利用の構想は、一部関係者の間に存在していたのである。だからこその電光石火の予算案の可決であった。
 この当たりから、原発の歴史を勉強したほうが、『原子力の平和利用=核兵器開発』の事情が理解しやすいと思う。
日本は、占領統治が終わったばかりであり国民の『核アレルギー』の問題もあった。そのため、一部の政治家主導で、強引に「原子力の平和利用」の道が開かれた事を、知るべきだと思う。
 そして、世界各国が『核実験』を行なうようになり日本にも、核オプションの発想が出てくるのだと推測する。

※日本は、原子力発電が主要な目的だと思われるが、その後「国産ロケット」
の開発に乗り出すことで、暗黙の了解のもとに『核オプション』も残したのであろうと推測する。それが、今となってはプルトニウムの大量保有を疑われ、プルトニウムの処分に困るという皮肉な結果を招いている。

※原子力の平和利用=核開発が、外国では普通の事であったことを知っておくべきだと思うのである。日本では、この点がキレイに隠されていると思う。

★参考資料・・・②へ