「北の山・じろう」時事問題などの日記

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この国と原発:第8部・自民党、再び 戦後政治と原子力 平和利用、源流は核武装<この国と原発・毎日新聞

毎日新聞
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(連載特集)
この国と原発 2013年
http://mainichi.jp/feature/20110311/konokunitogenpatsu/archive/
この国と原発:第8部・自民党、再び 戦後政治と原子力 平和利用、源流は核武装
毎日新聞 2013年04月08日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130408ddm010040196000c.html
▼全文転載


原発と核に関する主な出来事
http://mainichi.jp/graph/2013/04/08/20130408ddm010040196000c/001.html
原発と核に関する主な出来事
http://mainichi.jp/graph/2013/04/08/20130408ddm010040196000c/002.html

(1)

 1955年に原子力基本法が成立して以降、2011年の東京電力福島第1原発事故に至るまでのほとんどの期間、原子力政策を担ってきたのは自民党 政権だった。そこにはエネルギー政策や電力業界だけでなく、米国の核戦略や日本の安全保障といった複雑な要素が絡む。自民党政権と原子力の関係を改めて振 り返る。【日下部聡、青島顕、福島祥】

                         

 ◇始まりは米国 対ソ戦略を反映

                         

 世界初の原子炉が実験に成功したのは1942年、米シカゴでのことだった。発電のためではなく、原爆の開発計画「マンハッタン計画」の一環としてだ。原発の源流には核兵器がある。

                         

 日本が本格的に原発推進にかじを切ったのは、敗戦から10年後の55年。そこには米国の政策が色濃く反映していた。

                         

 「原爆という暗い背景を持つ米国としては、力の誇示だけではなく、平和への願望をも示したい」。アイゼ ンハワー米大統領は、その2年前の53年12月8日、国連総会で行った「アトムズ・フォー・ピース」(原子力の平和利用)演説で、ソ連(当時)も含めて核 物質を国際的に管理し、電力などに利用することを提唱した。これが国際原子力機関IAEA)設立のきっかけとなった。

                         

 「劇的雰囲気」「しばし拍手がやまなかった」と、当時の毎日新聞は演説会場の高揚ぶりを伝えている。

(2)

 だが、大統領はその2カ月後の54年2月、「自由世界防衛のため」として、同盟国に原子力技術を優先的に与える方針を表明する。理想主義的な国連演説をよそに「平和利用」は米国の対ソ戦略に組み込まれた。

                         

 これに機敏に反応したのが、当時改進党の若手衆院議員だった中曽根康弘元首相(94)だった。中曽根氏らの主導で同年3月2日、初めて原子力開発予算案が提出され、4月に成立した。

                         

 ◇反核感情の除去 メディアも後押し

                         

 ところが、予算案提出の前日に米国が南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験でマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくしていたことが同年3月16日の読売新聞報道で発覚。東京都杉並区で始まった原水爆禁止の署名運動は瞬く間に広がり、翌年8月までに3000万人を突破した。

                         

 日本人に反米意識が広がることに強い危機感を抱いた米国は、日本人の反核感情を取り除くことに腐心した。

                         

 読売新聞社主から衆院議員に転じた正力松太郎氏が後押しした55~57年の原子力平和利用キャンペーンもその一つだ。しかし、原爆への嫌悪感は根強く、日本人に「核兵器は悪だが、原子力は善」という感覚をもたらすことになった。

                         

 55年には米国からの研究用原子炉と、そのための濃縮ウラン導入を主目的とした日米原子力協定が結ばれ、原子力基本法など関連3法案も成立。日本は原子力開発に向けて走り出した。

(3)

 「資源に恵まれない日本にとって、原子力を活用する以外に繁栄の道はない」。実験炉が初めて臨界に達した57年8月、毎日新聞の社説はそう説いた。

                         

 ◇軍事転用の伏流 「技術的能力は保持」

                         

 その後、70年ごろまで原子力は専ら「夢のエネルギー」と認識されるようになる。66年には日本初の商 業用原発日本原子力発電東海発電所(茨城県)が運転を始め、70年には大阪万博に合わせて同敦賀発電所(福井県)、翌71年には東京電力福島原発(福島 県、現福島第1原発)が相次いで運転開始した。

                         

 この間、原発の米国依存は決定的になっていた。

                         

 東海原発は英国製黒鉛炉だったが、68年の日米原子力協定改定で30年間分の濃縮ウランが米国から提供されることになり、以降に建設された日本の原発にはすべて米国系の軽水炉が導入された。

                         

 そしてこの頃、原発と核兵器を結びつける検討が政府内部でひそかに進められた。64年の中国の核実験が引き金だった。

                         

 「当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(能力)は常に保持する」。69年に佐藤栄作政権下で外務省が作成した内部資料「わが国の外交政策大綱」には、そう書かれている。

                         

 ◇複雑な方程式 展望なき核燃サイクル

                         

 「技術的ポテンシャル」を担うのはウラン濃縮、原発の使用済み核燃料の再処理、そこで得られるプルトニウムを使う高速増殖炉の開発といった技術だ。

(4)

 こうした「潜在的核抑止論」と呼ばれる考え方は前面に出ることはなく、外務省や政治家の一部に伏流した。再処理の主眼はあくまでエネルギーの自給に置かれた。青森県六ケ所村に集中する核燃料サイクル施設はその「産物」といえる。

                         

 同施設は電力各社が出資して設立した日本原燃が運営。トラブル続きでいまだに完成しない再処理工場の建設費は当初予定の3倍の2・2兆円にまで膨らんでおり、事業を中止すれば電力各社は深刻な打撃を受ける。

                         

 一方で青森県は、県内を最終処分場にしない条件で再処理工場を受け入れており、再処理を中止すれば使用済み核燃料を「発生元にお返しする」(三村申吾知事)との姿勢だ。

                         

 こうした事情が絡まり合って、核燃サイクル事業は進み続ける。外交や安全保障に深く関係する施設を民間企業が運営する不合理。「ごみ捨て場」を決めないまま原発を推進してきた矛盾--。

                         

 脱原発を実現するには、この複雑な方程式を解かねばならない。

                         

 ◇自民党の政策 再稼働視野、依存は減 推進の動き活発


(5)

 安倍晋三首相は1月30日の衆院本会議で、民主党の「30年代に原発ゼロ」方針について「ゼロベースで見直す」と表明。さらに2月28日の施政方 針演説で「安全が確認された原発は再稼働する」と明言した。ただ、自民党は昨年末の衆院選向けの「総合政策集」で、原発への依存度低減を目指す方針は掲げ ている。また、原子力規制委員会の判断と独立性の尊重もうたう。

                         

 これは、新規制機関を環境省外局とする案を出した民主党政権に対抗し、独立性の高い「(国家行政組織法の)3条委員会」とする案を提出し、受け入れさせた経緯があるためだ。福島事故への菅政権の対応を「政治介入」と批判してきたことが背景にある。

                         

 規制委は今のところ、活断層の有無などについて事故前の規制機関に比べて厳格な判断を示しており、安倍 政権もその判断を待たざるを得ない状況だ。また、自民党も賛成して昨年6月に成立した改正原子炉等規制法は、原発の運転期間を原則として40年間に制限し ている。これに従えば、現在50基ある原発は40年には5基となる。例外規定の検討もされているが、多数の新増設は考えにくいことから、原発が今後減って いくことは確実とみられる。

                         

 一方、原発推進団体は自民党の政権復帰で動きを活発化させている。

(6)

 企業経営者や有識者による「エネルギー・原子力政策懇談会」の有馬朗人(あきと)会長(82)=元文相=らは2月25日、安倍首相や茂木敏充経済 産業相と面会して「責任ある原子力政策の再構築~原子力から逃げず、正面から向き合う~」と題した提言書を提出。「我が国が置かれている現実を冷徹に分析 し、原子力を含めた望ましいエネルギーミックスを」などと働きかけた。

                         

 提言書には有馬氏のほか今井敬・元経団連会長(日本原子力産業協会会長)、勝俣宣夫丸紅相談役(勝俣恒久・前東電会長の弟)らが名を連ねる。同会は12年3月にも当時の野田首相原発早期再稼働などを求める提言書を出していた。

                         

 また、作家の神津(こうづ)カンナ氏(54)が代表を務める任意団体「フォーラム・エネルギーを考える」は衆院選翌日の昨年12月17日にホームページを刷新。神津氏は「空気や感情論に左右され、方向感覚を失って漂流しないように」などと呼びかけている。

                         

 ◇民主党の政策 世論に押された「ゼロ」 軸足定まらず

                         

 民主党は2009年の政権交代直後は原発推進の立場だったが、福島第1原発事故3カ月後の11年6月、菅直人首相(66)は閣僚らで構成する「エネルギー・環境会議」(エネ環会議)を発足させ、原発も含むエネルギー政策の見直しに着手した。

(7)

 また、野田佳彦首相(55)に交代後の同9月には、エネ環会議に提示する案を検討する経済産業省総合資源エネルギー調査会基本問題委員会の24委 員のうち7人に明確な脱原発派を起用。議論はすべてネット中継し、視聴者のコメント投稿も受け付けるなどの新たな手法を導入した。

                         

 一方で野田政権は昨年6月、関西電力大飯(おおい)原発の再稼働を決定。この前後から首相官邸前で脱原発を求めるデモが大規模化する。7、8月にはエネ環会議が過去に例のない討論型世論調査を実施。その結果「30年代ゼロ」に圧倒的支持が集まった。

                         

 こうした世論に押される形で野田政権は「原発ゼロ」に傾き、9月に「30年代に原発稼働ゼロが可能となるよう、あらゆる政策資源を投入する」とする「革新的エネルギー・環境戦略」を決める。

                         

 しかし、青森県や米国、経済界への配慮から核燃料サイクルを継続する方針を示し「原発ゼロに向けた道筋は不断に見直す」との文言も加わるなど、軸足の定まらない印象を与えることになった。

                         

 「国民に開かれた議論をしようとした試みは評価できる」と、総合資源エネルギー調査会基本問題委員の環境ジャーナリスト、枝広淳子氏(50)は話す。枝広氏は福田・麻生両内閣で「地球温暖化問題に関する懇談会」委員を務めたこともある。

(8)

 「エネルギー問題は1~2年で答えは出ない。政府からの『説明』ではなく、市民やNGO、経済界も含めて話し合いで合意点を見つけられる場を常設する必要がある。少なくともあの議論の形を後退させてはいけない」

                         

 しかし、基本問題委は政権交代で事実上終了。安倍政権原発を含むエネルギー政策を議論する場として再開した総合資源エネルギー調査会総合部会のメンバーは15人に縮小され、うち脱原発派は2人に減った。

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