「北の山・じろう」時事問題などの日記

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非常時の危険性は福島第一原発より高いのは明白。私が大飯原発再稼働に反対する理由(馬淵澄夫)

「現代ビジネス」から全文引用
馬淵澄夫レポート(1)〜(4)
2012年06月15日(金)
非常時の危険性は福島第一原発より高いのは明白。私が大飯原発再稼働に反対するこれだけの理由
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32783

(1)
国民の不安

 先週の金曜日、野田総理が記者会見を行い、大飯原発の再稼働の方針を発表した。現在、福井県においては再稼働に向けた手続きが進みつつあり、今週中にも決定される見込みである。

 政府は、安全は確保されていると結論づけているが、世論調査でも明らかなように、ほとんどの国民は依然として不安を抱いている。

 国民の不安は当然である。

 なぜなら、福島第一原発事故の検証は終わっておらず、その原因は何であったのか、事故発生時の政府、東電の対応に問題がなかったのかについて、未だ結論が出ていない。
さらに、本来であればその検証結果に基づいて、原子力安全委員会など専門家集団によって策定されるべき安全基準は、議論すら始まっていない。

 また、保安院がこれまでの安全基準の延長線上で検討した30項目の安全対策に関し、完了している対策はわずかに過ぎない。このことは、想定されているリスクすら解消されておらず、非常事態が起きる可能性が高いことを意味している。

 そして、その非常事態が起きたときに十分な対応できるかという点についても、極めてあいまいだ。

 大飯原発は橋梁やトンネルが連続する貧弱な一本の道路しかない。福島第一原発の場合は直轄国道である一般国道6号が近傍にあり、アクセス道路がきちんと整備されていた。したがって事故時でも様々な救援活動が可能であった。大飯原発は、半島の先端に位置しているという立地条件もあり、福島第一原発と比較しても、大地震発生時に孤立し、外部からの対応が困難となる可能性が高い、リダンダンシーの低い施設でもある。

 つまり、大飯原発では最悪の場合、事故発生時に、福島第一原発では可能だった外部からの応援は期待できず、発電所内の施設だけで対応せざるをえないのである。

(2)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32783?page=2

 しかしながら、発電所内において、非常時の要となる肝心の重要免震棟やベント施設が整っていないことなどを考えると、安全性が確保されていると到底言えるものではない。非常時の対応能力は、明らかに事故を起こした福島第一原発より低い。

 このような状況にもかかわらず、素人である政治家だけで再稼働を判断しようとしているのだ。くり返しになるが、国民が不安を感じるのは当然である。

漂流する「安全」

 政府が安全と言い切る一方で、国民は不安を抱く。この同じ「安全」というものに対してこれほどの考え方の違いが生じている状況は、明らかに異常だ。

 昨年3月11日の東日本大震災では、絶対起きないと思っていた規模の地震が発生し、これまで絶対大丈夫と信じていた津波堤防が壊れ、絶対安全と言われてきた原発が事故を起こした。

 これによって人々は「安全」に対して自信を失い、「安全」という言葉は虚ろなものとして響き、絶対的な意味を失ってしまった。もはやフワフワとした相対的な存在でしかなくなった、「安全」。

 例えば、30項目の対策の全てが完了していようが、いまいが、同じ「安全」と言い切る政府。

 稼働していようが、冷温停止していようが、燃料棒があるかぎり「安全」は同じだ、と語る人々。

 東日本大震災の津波と隕石が地球に衝突して生じるような津波を、「安全」に関する「想定外」上は同義だと論じる人々。

 もはや「安全」という言葉は、漂流している。このままでは、「安全」は、再稼働に当たっての判断基準にすらならない。

(3)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32783?page=3

 「安全」が、原発の是非を考える上での明確な判断基準であることを取り戻すためにも、一刻も早く、事故の検証に基づき、人類の英知を結集した安全基準の策定が必要である。

 その安全基準の策定に当たっては、人々が「安全」に自信を取り戻し、安心できる国民生活の実現を目標とすることが重要であり、そのためには、専門家の議論だけで決めるのではなく、十分な情報公開と併せた幅広い国民の参加を求めるべきなのだ。

揺れる「地震動評価」基準

 「安全」を考慮する上で最も工学的に詰められるべき「地震動評価」についても、相変わらず人為的な判断に委ねられたままであるのが現状である。
例えば、東北地方太平洋沖地震以降、多くの活断層の発見が相次ぎ、また連動性の考えを変更することによって、原発のみならず防災上想定される地震外力がどんどん増大する傾向にある。

 これまでの調査、評価、基準のどこにどのような問題があったのかも明らかにされない状態で行われつつあるこの突然の方向転換に対し、「安全側への移行」だから歓迎する、という姿勢でいいのだろうか。

 少なくとも3.11以降の短期間に学問として新たな発見があったのでもなく、新たな理論が構築されたわけでもない。東北地方太平洋沖地震以前も、津波の痕跡、新たな活断層などの事実は存在し、これらに基づいて理論的な想定が可能だったにもかかわらず、人為的な判断で想定してこなかっただけなのだ。

調査の精度、調査結果の評価の仕方で容易に結果が変わりうるような方法で、人為的に地震外力を判断している状況は、依然として想定外の地震動に関する大きなリスクが存在していることを示している。

 例えば、先月、内閣府が発表した首都直下地震の被害想定を算出する際におこなった地震動などの評価手法は、原発で用いている評価手法とは全く異なるものだ。

 人為的な判断による想定外を減らすため、早急に地震動に関する調査手法、評価手法などの判断根拠について、基準を改めて明確にするべきなのである。

 その意味で保安院が、活断層の連動性に関して、これまでは連動しないとしていた原発との間隔5kmを超える活断層について再評価を始めたことは安全上評価できる。

 しかしながら、近年実際に発生した大規模地震を見る限り、活断層と地震の関係は必ずしも相関が高くない。実際には、活断層が発見されていない場所で発生し、また大規模地震が発生してもその規模に見合った断層が生じていないし、さらには地質調査が困難な沿岸部での地震発生が多いのである。

 つまり、大規模地震は活断層の場所にかかわらず、どこでも発生しうることを考慮すると、現在の原発の安全基準における地震動の評価手法は、活断層による地震動評価に過度に依存しており、原発と活断層の距離によって地震動を減衰させるその手法は、非常に大きなリスクを含んでいると考えざるを得ない。

(4)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32783?page=4

 首都直下地震の被害想定での地震動の評価手法において様々な震源を想定した上で、被害が最悪のケースを採用したように、原発における地震動の評価に当たっても、最悪となるケース(直下で地震が発生)を想定した上で、安全対策に反映させるように、安全基準を見直すべきなのだ。

再稼働の判断

 これだけリスクの高い原発をなぜ安全と言い切り、なぜ再稼働させなければならないのか、その意義について野田総理は、会見の中で「国民の生活を守る」ことを判断の基軸とした。

 たしかに、日本は資源小国で、エネルギー供給に関するリスクが大きいことから、電力の需給に関して一定の余裕をもって対応せざるを得ないことを考えると、当面の間、原発を全く再稼働しないという選択肢をとることは難しい。

 しかしながら、事故後の福島の状況や日本経済が受けた多大な影響を考えると、原発の再稼働に当たっては、「安全」を最優先に考えるべきであり、野田総理の判断基準には異論がある。

 総理は、計画停電によって命の危険にさらされる人が出ると会見で述べているが、原発がひとたび不測の事態に陥ると、より広範囲に命の危険にさらされる人が出るのである。どのようなリスクが存在するのかについても、併せて国民に示した上で判断すべきであろう。

 以上のことから、今回の再稼働に向けた動きは、時期尚早であり、規制庁発足後に、安全基準を整備し、安全対策の実施状況を考慮し、専門家の意見を踏まえた上で、再稼働の可否を判断すべきである。

 それが、私が党で募られた再稼働反対の署名に名前を連ねた理由である。



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