「北の山・じろう」時事問題などの日記

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原爆投下と原発事故―核との共存から決別へ

朝日新聞社説から全引用

原爆投下と原発事故―核との共存から決別へ
2011年8月6日(土)付
http://www.asahi.com/paper/editorial20110806.html

人類は核と共存できるか。

 広島に原爆が投下されて66年の夏、私たちは改めてこの重く難しい問いに向き合っている。

 被爆体験をもとに核兵器廃絶を世界に訴えながら、核の平和利用を推し進める――。

 核を善悪に使い分けて、日本は半世紀の間、原子力発電所の建設に邁進(まいしん)してきた。そして福島第一原発で制御不能の事態に陥り、とてつもない被曝(ひばく)事故を起こしてしまった。

■平和利用への期待

 こんな指摘がある。

 日本は、広島・長崎で核の恐ろしさを身をもって知った。なのにその経験を風化させ、いつしか核の怖さを過小評価したために再び惨禍を招いたのではないか。

 歴史をさかのぼってみる。

 かつては被爆者自身も核の平和利用に期待を寄せていた。

 1951年、被爆児童の作文集「原爆の子――広島の少年少女のうったえ」が刊行された。平和教育の原典といわれる本の序文で、編纂(へんさん)した教育学者、故長田新(おさだ・あらた)さんは書いている。

 「広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない」

 長田さんの四男で、父とともに被爆した五郎さん(84)は当時の父の心境をこう解説する。

 原爆の非人道性、辛苦を克服しようと父は必死に考えていた。原爆に使われた技術が、平和な使途に転用できるなら人間の勝利であると――。

 平和利用への期待は、被爆体験を省みなかったためではなく、苦しみを前向きに乗り越えようとする意思でもあった。

 53年12月、アイゼンハワー米大統領の演説「原子力の平和利用」を機に、日本は原発導入に向け動き出す。54年3月、日本初の原子力予算が提案された。

 その2週間後、第五福竜丸が水爆実験の「死の灰」を浴びたことが明らかになる。原水爆禁止運動が全国に広がったが、被爆地の期待も担った原発が後戻りすることはなかった。

■影響の長期化は共通

 それから57年――。

 広島、長崎、第五福竜丸、そして福島。ヒバク体験を重ねた日本は、核とのつきあい方を考え直す時に来ている。それは軍事、民生用にかかわらない。

 放射線は長い年月をかけて人体にどんな影響を及ぼすのか。原爆についていま、二つの場で議論が進む。

 一つは原爆症認定訴訟。国は2009年8月、集団訴訟の原告と全面解決をめざす確認書をかわし、救済の方針を示した。

 しかし昨年度、認定申請を却下された数は前年の倍以上の5千件に及んだ。多くは原爆投下後、爆心地近くに入り被爆しても、放射線と病気との因果関係が明確でないと判断された。

 被爆者手帳をもつ約22万人のうち、医療特別手当が受給できる原爆症に認定された人は7210人と3%強。前年の2.8%から微増にとどまる。

 もう一つの場は、原爆投下後に降った黒い雨の指定地域を広げるかどうかなどを考える厚生労働省の有識者検討会だ。

 広島市などの調査で、放射性物質を含んだ黒い雨の降雨地域が現在の指定地域の数倍だった可能性が浮上した。指定地域にいた人は被爆者援護法に基づく健康診断などを受けられる。

 健康不安に悩む多くの住民の声を受け、国は指定地域を科学的に見直す作業を続けている。

 一方、原発事故が起きた福島では長期にわたる低線量放射線の影響が心配されている。

 福島県は全県民を対象に健康調査に着手した。30年以上にわたって経過を観察するという。

 まず3月11日から2週間の行動記録を調べ、場所や屋外にいた時間などから被曝線量を推計する。

 被爆と被曝。見えない放射線の影響を軽減するため、息の長い作業が続く点が共通する。

■次世代への責任

 核エネルギーは20世紀の科学の発達を象徴する存在である。

 私たちは、一度に大量の人間を殺害し、長期にわたって被爆者を苦しめてきた核兵器の廃絶を繰り返し訴えてきた。

 世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。ひとたび制御を失えば、人間社会と環境を脅かし続ける。その安全性のもろさが明白になった以上、原発から脱却する道も同時に考えていかなければならない。

 世界には推定で約2万3千発の核弾頭がある。原発の原子炉の数は約440基だ。

 道のりは長く、平坦(へいたん)ではないだろう。核被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにしていく道を模索する。それは広島、長崎の犠牲者や福島の被災者、そして次の世代に対する私たちの責任である。

 核との共存ではなく、決別への一歩を先頭を切って踏み出すことが、ヒバクの体験を重ねた日本の針路だと考える。
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毎日新聞話題から全引用

広島原爆の日:非核へ決意新た 宮城で活動の被爆者「原発も放射能は一緒」

広島原爆の日:非核へ決意新た 宮城で活動の被爆者「原発も放射能は一緒」

 広島は祈りの日を迎えた。1945年8月6日午前8時15分。米軍が投下した原爆は、街を焼き尽くし、多くの命を奪った。それから66年。大津波が多くの命をのみ込み、福島第1原発事故は人々を苦しめ続けている。6日の平和記念式典には、被災地からも被爆者の遺族が参列した。広島に集った人々は、核の悲劇を繰り返さないことを誓った。

 大震災の甚大な被害を目の当たりにしたからこそ、なお罪深い原爆を思う。広島原爆の爆心地から約1・6キロで被爆した宮城県の遺族、木村緋紗子(ひさこ)さん(74)=仙台市=は、夫由紀夫さん(66)とともに静かに目を閉じた。

 開業医だった父は往診中に被爆し、3日後に亡くなった。木村さんとともに被爆し、6日後に亡くなるまで、傷が化膿(かのう)してひどい異臭がした祖父を「早く死んでくれれば」と思ったことを今も悔やむ。約20年前に宮城県原爆被害者の会で証言活動を始め、今は事務局長を務める。

 3月11日の東日本大震災を受け、安否確認のため沿岸の被爆者の元へ急いだ。テレビに映る被災地に被爆した広島を重ねていたが、足を踏み入れると、大きく異なる66年前の光景がよみがえった。焦土に累々と焼死体が重なっていた。ひどいやけどの人に「助けて」と足をつかまれた。原爆被害の悲惨さはやはり際立っていると思う。

 原発事故後は証言活動の中で「原爆も原発も放射能は一緒です。核はいけない」と子どもたちに伝えるようになった。平和宣言に「脱原発」を盛り込むかどうかなどが議論された夏。ただ「今日は原発を議論する日でなく、原爆の日。亡くなった人々のために祈りたい」という。結婚前に「被爆した」と明かした自分を受け入れ、今パーキンソン病を患う夫とともに献花した。

 原発事故に遭って「核について考えねば」と、初めて広島を訪れた福島県の酒井浩三さん(54)=福島市。改めて、昨年85歳で逝った父佑三さんを思う。20歳の時に被爆した父だが、酒井さんが10代のころ被爆体験を尋ねると、「原爆のことは話したくない」と固く口を閉ざした。福島第1原発から約60キロの自宅で、見えぬ放射線に不安を抱えて暮らす今、「父の気持ちが分かる気がする」。原爆ドームを目に焼き付けて帰るつもりだ。

 岩手県の高橋洋子さん(59)=釜石市=の父藤井虎雄さんは、旧陸軍兵士で19歳の時に被爆した。60代で肺がんを患い、被爆者健康手帳を持っていたが、やはり体験を語らぬまま75歳で死去した。3月11日、市中心部にある自宅の100メートル手前まで津波が迫った。市内の死者・行方不明者は1100人以上。友人も亡くした。66年前にも艦砲射撃で焼け野原になった釜石は「また何もなくなった」。父はなぜ語らなかったのか。広島の人々は焼け野原でどう生きたのか。まちの再出発へ糸口をつかみたいと思う。【加藤小夜、寺岡俊、村本聡】
 ◇「2度も脅かされるとは」−−福島県原爆被害者協議会会長・山田舜さん(85)

 66回目の広島原爆の日を、東京電力福島第1原発事故に直面する福島県の被爆者は特別な思いで迎えた。19歳の時に広島で被爆した福島県原爆被害者協議会会長の山田舜(あきら)さん(85)は語る。「人生で2度も放射線に脅かされるとは。これまで8月6日に原発のことを頭に浮かべたことはなかったが、今年は違う。なぜ原爆が落とされたのか、なぜ原発ができたのかを改めて考えざるをえない」

 山田さんはこの日、福島市の自宅のテレビで平和記念式典の様子を見ながら、核兵器廃絶の思いを込めて鎮魂の祈りをささげた。

 1945年夏の朝。旧制高校2年生だった山田さんは熱を出して広島市の自宅で寝ていた。突然、閃光(せんこう)と爆風が襲った。しばらく縁の下に隠れた後、屋根に上って言葉を失った。見渡す限りの炎、炎、炎……。道路に放置された遺体の山が脳裏に焼き付いている。

 経済学者になり福島大学長などを歴任、81年からは県原爆被害者協議会の会長を務めるが、今回の原発事故は想像をはるかに超えるものだった。「原発は平和利用のためのもので原爆とは別だと思っていた。まさか放射性物質が飛び散る事態が起きるはずはないと」

 事故は5カ月近くたった今も収束していない。「核分裂のエネルギーを利用する点で原爆も原発も同じ。人類は核を制御できていないということが今回の事故ではっきりした。安全な技術を獲得できるまで原発の運転はやめなくては」と語る。

 原爆で焼け野原と化した広島と、避難のために一部地域から住民が消えた福島の光景が重なる。「放射線は影響が後からじわじわと出てくる。心配なのは若い人たち。住民の健康をきちんと行政がフォローするよう監視していくしかない」。深い思いを静かな口調で語った。【佐藤敬一】
 ◇ヒロシマ教訓に被害食い止めて−−福島からの避難者

 平和記念式典には、福島第1原発事故の起きた福島県から広島市に避難している人たちも姿を見せた。

 福島県南相馬市から避難した衣山弘人さん(53)は「広島に来たからには、理解を深めようと思った。原発の被害は、原爆と同じ『核』によるものだから、私たちにとって別物ではない。世界から原発をなくしてほしい」と語った。南相馬市の後藤孝明さん(48)は「広島が66年間抱えてきたことは、今後福島にも起こり得る。広島を教訓に、原発事故の被害を最小限に食い止めてもらいたい」と訴えた。

 福島県浪江町から避難した高田秀光さん(59)は「原爆ドームのむき出しの鉄骨に、福島第1原発事故の光景を思い出した。66年経ても放射能の問題は続いていると感じた」と話した。【中里顕】

毎日新聞 2011年8月6日 東京夕刊


毎日新聞
毎日新聞 2011年8月7日 東京朝刊
クローズアップ2011:広島原爆の日 「脱原発」被爆地も苦悩

 ◇平和宣言、踏み込まず 市民、賛否入り交じり

 広島は6日、東京電力福島第1原発事故後初めての「原爆の日」を迎えた。原子力への国民の不安が広がるなか、ヒロシマのメッセージが注目されたが、平和宣言は「脱原発」に触れたものの踏み込まなかった。被爆者の間でも原発に対する考え方に微妙な差があることや、政治に翻弄(ほんろう)されるのを回避したいなど、被爆地のさまざまな思いが絡み合った。

 松井一実・広島市長は平和宣言で、国民の原発不信を指摘し、エネルギー政策転換を政府に要求したが、脱原発については「主張する人々がいる」と述べるにとどめた。

 今回の宣言には初めて公募の被爆体験談を盛り込むことにし、体験談を選ぶため、被爆者を含む委員会(10人)が設置された。議論は非公開だが、原発についても意見が交わされ「核と人類は共存できない」という文言を盛り込むよう提案があった一方、いっそうの安全管理をした上での原発容認を示唆する意見も出たという。松井市長は宣言骨子を発表した2日の記者会見で「原発は国の政策だ。(市民の)意見も割れている」と説明した。

 過去の平和宣言も、核実験や核兵器など軍事利用は厳しく批判してきたが、原発に反対する姿勢を示したことはない。

 被爆者でもあり、戦後初の公選市長を務めた故浜井信三氏は53年、「(原子力が)殺戮(さつりく)と破壊のために使われるか、全人類共同の福祉のために使われるか」が人類の岐路だと言及、平和利用への期待を語った。同年12月にはアイゼンハワー米大統領が国連で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と題して演説、日本での原発導入の契機にもなった。

 「核廃絶運動」を支えてきた平和団体も一枚岩ではない。6日閉幕した原水爆禁止日本国民会議原水禁)系の広島大会の初日、「3団体としては『核兵器廃絶』『被爆者援護』の課題で共闘します」「それ以外の課題は会場内ではご遠慮ください」と書かれた冊子が配られた。脱原発原水禁原発推進を掲げる核禁会議▽電力総連なども加盟し、スタンスは「凍結」中の連合−−の3団体の共催という形をとったからだ。

 原水禁副議長の西尾漠・原子力資料情報室共同代表は「核兵器廃絶の一点で協力してきたが、限界が見えた。福島では労働者が危険な作業を強いられており、労組も声を上げてほしい」と言うが、大会で連合幹部は踏み込んだ発言をせず、核禁会議は別に集会を開いて「資源を外国に依存する中で原子力は重要」とのアピール文を採択した。

 一方、9日に原爆の日を迎える長崎市でも、福島原発事故を受け、平和宣言で原発にどう言及するか、田上富久市長を委員長とする起草委員会(18人)で激しい議論があった。

 被爆者ら多くの委員は「脱原発」を盛り込むよう主張したが、市長は慎重姿勢を示し、最終的に「脱原発」には触れずに「原子力に代わる再生可能なエネルギー開発の必要性」を訴える内容に落ち着いた。

 長崎市最大の企業は三菱重工長崎造船所。年間生産額約4600億円(08年)のうち53%を発電プラントが占め、高木義明文部科学相(長崎1区)をはじめ、同労組出身の市議、県議は計10人を数える。

 平和宣言の骨子を発表した7月28日の会見で、田上市長は「(宣言は)市民代表として言える最大公約数」と説明。「直線的にいく(すぐに原発をなくす)と産業や市民生活に混乱を起こす。原発をなくすロードマップも示されないなかで『脱原発』の思いだけが先行するのは本意でない」とも語り、産業界への配慮をにじませた。

 広島市長を91〜99年に務めた平岡敬さん(83)は、福島原発事故後、「原発を『必要悪』として容認してきたのは、誤りだった」と悔いを語っている。広島平和宣言の体験談公募に応じた被爆者の岡田黎子(れいこ)さん(81)=広島県三原市=は「来年は、原発も核兵器も人類の滅亡につながることを、自分の主張として世界に発信してほしい」と注文した。【樋口岳大、下原知広】
 ◇首相、政治利用控え 「慰霊の場」目新しい表現少なく

 菅直人首相は平和記念式典のあいさつで「原発に依存しない社会を目指す」と改めて「脱原発」に言及したが、目新しい表現は「(原発の)安全神話を深く反省する」という程度だった。文案策定を主導した政府高官は「式典は犠牲になった方々の慰霊の場で、原発の話とはしゅん別すべきだ」と政治利用を意識的に控えたと明かす。

 首相周辺にはあいさつを政治的アピールに利用すべきだとの意見もあり、与野党議員の間では一時「広島の式典を利用して首相が『脱原発解散』に踏み切るのではないか」との臆測も流れていた。 踏み込みを避けた首相だが、「脱原発」を次期政権にも引き継がせようとする思いは強い。首相は式典後、昨年のあいさつで創設を表明した「非核特使」の被爆者8人と懇談した。「兵器としての原爆と、発電としての原発は異質なものだが、放射能を出す危険性ということでは共通の部分がある」と指摘。海外の政府首脳や市民に幅広く被爆体験を伝えたこの1年間の活動報告を聞き、「私が責任を持つ間はもちろん、今後の政府も引き継ぐよう全力を挙げる」と退陣後を意識した言葉が漏れた。

 その後の会見では「原子力に大きく依存してきたエネルギーの将来目標を白紙から見直し、(原発)依存度の低減を段階的に進める。内閣として中間的な方向をまとめ、私のあいさつと一致している」と述べ、自身の「脱原発」発言と、政府のエネルギー・環境会議による原発依存の低減方針に矛盾はないと強調した。【高橋恵子
 ◇各国代表「核兵器とは別問題」

 式典には昨年より8カ国少ない66カ国と欧州連合の代表が参加したが、各国代表は「核兵器と原発は別問題」との認識で共通していた。福島原発事故後という事情を特別視せず、脱原発派も原発推進派も「『核』の是非」に踏み込まなかった。

 国民投票原発再開を拒否したイタリアのバッターニ駐大阪総領事は「(福島の事故で)原発の安全性に疑念が高まった」と投票結果を分析したが、「日本が戦後復興に原子力を利用したのは仕方ないこと。原爆と混同すべきでない」との考えを示した。

 「脱原発法」が成立したドイツのオルブリッヒ駐大阪総領事も「核兵器は廃絶すべきだが、原発はエネルギー問題。他国が口を出すことではない」との立場だ。

 一方、原発推進派のロシアのベールイ駐日大使は「フクシマは自然が原因だが、ヒロシマは人為的な惨事だ」と違いを強調。原発大国フランスのジャンビエ・カミヤマ駐京都総領事は「新たな核保有国を生まないためにも、必要とする国に原発技術を輸出して監視下に置くことが大切だ。それが最終的に核兵器廃絶につながる」と説いてみせた。

 主要な核保有国である米英仏は初出席した昨年に続き、そろって代表を送った。米国からは昨年、ルース駐日大使が出席したが、今年は「スケジュールの都合」で日本におらず、ズムワルト首席公使が臨時代理大使として参加した。昨年は欠席した長崎市の式典へも同氏が出席する方向で調整中という。【村瀬優子、五十嵐朋子】

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 ◇「原子力の平和利用」に触れた平和宣言◇

 ※網掛け部分は広島市。それ以外は長崎市

1947年 「平和祭」で初の平和宣言

  48年 「文化祭」で初の平和宣言

  49年 「原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願する」(大橋博市長)

  53年 「原子力を開放し得たことは、明らかに科学の偉大なる進歩」(浜井信三市長)

  54年 米国のビキニ環礁水爆実験で「第五福竜丸」乗組員が被ばく。「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」(同)

  56年 「原子力の解放が一方で人類に無限に豊かな生活を約束する反面、恐るべき破壊力は人類の存続をおびやかす」(渡辺忠雄市長)

  67年 「原子力の開発は20世紀科学の勝利を意味したが、(用途によっては)人類の運命は大きく決しようとしている」(山田節男市長)

  86年 旧ソ連チェルノブイリ原発事故。「事故は人々を放射能の恐怖に陥れ、安全管理の国際協力に課題を残し、一国の事故が他国にも禍(わざわ)いを及ぼすことを知らしめた」(荒木武市長)

   同年 「チェルノブイリ原発からの死の灰は、十日あまりで地球を取り巻いた。農作物だけでも東ヨーロッパを中心に大きな被害を与えた」(本島等市長)

  88年 「長崎・広島の被爆者、また核兵器の実験や原子力発電所等で被ばくした世界の多くの人たちのために、国際医療センターの設置をお願いする」(同)

  91年 「無謀な核実験の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界の各地に拡(ひろ)がりつつある。これ以上、ヒバクシャを増やしてはならない」(平岡敬市長)

  94年 「原子力技術の『民主・自主・公開』の原則順守を強く求める」(同)

社説:原爆の日 経験を原発にも生かせ
福島第1原発:いわきの中学生ら長崎の復興学びに訪問へ
オノ・ヨーコさん:長崎の原爆落下中心碑に献花
原爆の日:菅首相が広島、長崎の式典参加へ
長崎平和宣言:「脱原発」は盛らず 田上市長発表

社説:原爆の日 経験を原発にも生かせ
毎日新聞 2011年8月6日 2時32分


原爆が投下されて6日で66年。今年の夏は、いつもと様相が異なっている。3月11日に発生した東日本大震災東京電力福島第1原発事故を引き起こした。地震と津波で壊滅した東北の町並みと、放射性物質による汚染によって住民が避難を余儀なくされた福島を、爆風と熱線によって廃虚と化した故郷と重ね合わせた広島と長崎の被爆者は少なくない。私たちは原子力の利用がはらむ危うさと今、向き合っている。

 今年の平和記念式典で読み上げられる「平和宣言」は原発事故を反映したものになる。

 広島市は初めてエネルギー政策の早急な見直しと具体策を政府に求める。引用するのは、核の軍事、平和利用双方に反対を唱えた被爆者で、原水爆禁止日本国民会議原水禁)議長などを務めた故森滝市郎氏の「核と人類は共存できない」との言葉だ。長崎市は、「脱原発」の言葉こそ使わないが、原発からの将来的な脱却を明確に打ち出す。

 被爆者・反核団体にも変化が見える。被爆者の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」は1956年の結成以来初めて全原発の順次停止・廃炉を求める「脱原発」を運動方針に掲げることを決めた。

 放射線被害に苦しんできた経験を踏まえ、原発の周辺住民や作業員に「健康管理手帳」を交付し、定期的な健康診断を実施するよう求める要望書を政府などに提出した。

 原水禁も、原発事故を受けて初めて福島で世界大会を開催し、「脱原発」を訴えた。

 運動は一枚岩ではない。「平和運動と日本のエネルギー政策にからむ原発の是非は分けて考えるべきだ」という主張があるのも事実だ。

 すさまじい破壊力で一瞬にして大量の放射線を放出した原爆と、低線量の放射性物質の影響が広範囲で続く原発事故の違いは大きい。だが、人々が放射線被ばくによる不安に長年苦しめられる点は共通する。

 原発事故の場合、低線量被ばくの影響に未解明の部分があることが不安を大きくしている。原爆との違いも考慮したうえで、広島と長崎の被爆者を対象に放射線の影響を調査している放射線影響研究所など、専門研究機関が蓄積してきた専門知識やチェルノブイリ事故の経験を住民の健康管理に積極的に活用したい。

 核兵器と原発はこれまで切り離して考えられてきた。近年は原子力に対する「安全神話」も浸透していた。しかし、福島の事故は原発の危険性に改めて目を向けさせた。唯一の被爆国としての経験を原発対策にも生かしながら、従来にも増して核廃絶のメッセージを発信し続けるのが私たちの責務である。

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読売新聞から引用

被爆体験 語らねば
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okayama/news/20110805-OYT8T01065.htm

志願兵・・・背中焼け、頭や手にガラス片

広島に原爆が投下されて、6日で丸66年を迎える。県内で暮らす被爆者は3月末現在、2188人。平均年齢は79・1歳と高齢化が進んでいる。「つらい記憶を思い出したくない」と、被爆体験に口を閉ざしてきた笠岡市生江浜の無職藤井芳夫さん(84)が、読売新聞の取材に応じた。東日本大震災福島第一原発事故で核廃絶への思いを強くしたといい、「戦争、そして核の恐ろしさを風化させてはならない」と力を込める。(有留貴博)

 金浦町(現・笠岡市)生まれの藤井さんは、14歳で東洋工業(現マツダ)に就職。16歳で志願兵として広島市白島中町工兵隊に入隊した。被爆したのは、兵舎前の広場で中隊長の訓示を聞いている最中だった。

 その瞬間のことは全く覚えていない。11時間後に意識を取り戻すと、広場西側の防空壕(ごう)の中にいた。広場では兵隊たちが穴を掘って何かを焼いていた。誰かが「死体を火葬している」と教えてくれた。爆心地から約2キロ。朝礼に出ていた数百人の大半は熱線などで犠牲になったという。藤井さんも背中にひどいやけどを負い、頭や腕に無数のガラス片が刺さっていたが、体がしびれて痛みは感じなかった。

 2週間、小学校で寝かされた後、上官に210円を渡され、自宅に帰るように言われた。故郷では表だった差別はなかったが、井戸で洗濯をしていた数人が「あれだけの傷。もう長くない」と藤井さんのうわさ話をしているのが聞こえたこともあったという。

 その後、地元の町工場で働き、1958年には見合いで結婚した。被爆の事実を話せば結婚できないと思い、妻の悦子さん(80)には黙っていた。

 打ち明けたのは十数年後。悦子さんは、やけどの痕などから薄々気付いていたといい、「悲惨なことをよく話してくれた」と感激。病気がちな藤井さんに「少しでも長生きして」と食事などに気をつけるようになった。

 藤井さんは被爆後、激しいせきや震えが10日ほど続く風邪を頻繁にひくようになった。91年には肺気腫で入院し、その後も3年おきに発症。2006年頃には胃がんを患った。「被爆の影響かは分からないが、不安は消えない」という。

 被爆体験については「つらい思い出」と、悦子さん以外には話さなかったが、昨年、広島大学平和科学研究センターと読売新聞の共同意識調査を受けたことや、大震災と原発事故の発生をきっかけに考えが変わった。

 テレビに映し出される被災地の惨状は、原爆投下後の広島の市街地と重なって見えた。多くの人が亡くなり、生き残った人も放射能の不安にさらされていた。「被災者と被爆者は似ている」と感じる一方で、「戦争を知らない世代が増えている。忘れようとしても、忘れられない記憶を話さなければ」と決意した。

 「原爆はアメリカに落とされたものだが、原発事故は日本が豊かになろうとして作った核による惨事。被爆者としてこんなに悔しいことはない。核がなくて済むのなら」と願っている。
(2011年8月6日 読売新聞)

原子力安全規制 組織一元化で信頼を取り戻せ(8月6日付・読売社説)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20110805-OYT1T01127.htm

 福島第一原子力発電所の事故を受け、原子力安全規制に関する行政組織を再編する試案を政府がまとめ、公表した。

 原発推進を担う経済産業省から原子力安全・保安院を分離し、内閣府の原子力安全委員会と統合して、「原子力安全庁」(仮称)を新設する。

 安全庁には、文部科学省など関係各省に分散している安全規制の関連部門も一元化して、規制体制を一新する方針だ。

 現体制では、福島第一原発の事故を防げず、事故後の対応も後手に回った。安全庁は安全対策を徹底し、国民の信頼を得られる組織とならなければならない。

 経産省からの保安院分離は、当然の措置である。

 国際的にも、規制組織の独立は鉄則とされている。国際原子力機関IAEA)からも、かねて日本の課題と指摘されてきた。

 規制部門でありながら、保安院が、住民説明会で原発推進の発言を増やすよう、電力会社に働きかけたことも発覚した。

 経産次官や保安院長など幹部を更迭したところで、不信を払拭できるわけではない。

 問題は、安全庁を政府のどこに位置づけるかだ。再編案は、内閣府と環境省の両論を併記した。

 より中立性が高く、規制に力を発揮できる組織とするために、どちらがふさわしいか、閣内で見解が分かれたからだ。

 内閣府に置くなら、少子化対策や防災など他の分野との兼務ではなく、安全庁担当の専任閣僚を設ける必要がある。

 環境省は、産業活動の規制で実績を持つ。一方で、地球温暖化対策の観点から、温室効果ガスをほとんど出さない原発を後押ししてきた、とも指摘されている。

 再編案は近く閣議決定される予定だ。ただ、退陣する菅首相のもとで決める問題なのか、との指摘も出ている。禍根を残さぬよう議論を尽くしてもらいたい。

 再編案は、知識や専門性を備えた人材の育成も課題として掲げている。重要な問題だが、脱原発や減原発が議論される中で、優れた人材が集まるだろうか。

 原子力規制の関連法も、欧米のように、重大事故の発生を前提とした内容になっていない。抜本的な見直しが求められる。

 政府は来年4月には安全庁を発足させる方針だ。関連法案をまとめ、国会で審議するには、時間的余裕はあまりない。

 原子力政策をどう進めるかを含め、議論を急ぎたい。
(2011年8月6日01時14分 読売新聞)