「北の山・じろう」時事問題などの日記

 ☆今は、無きブログのタイトル☆ 『取り残された福島県民が伝えたいこと』 管理者名 「取り残された福島県民」 当時のURL>http://ameblo.jp/j-wave024/

「チェルノブイリの犠牲者」原発作業員の証言と現実 2003年スイス(動画・内容書き出し)byみんな楽しくHappy♡がいい♪

★全文転載。文中に写真多数あり。そちらを、ご覧になる場合は、元ブログのURL からご覧下さい。チェルノブイリ原発事故では、兵士を中心に60万人とも80万人とも言われる、事故処理員と言われる人々が、事故収束活動を行いました。ものすごい被曝を伴う過酷な作業です。当然ながら、多くの人々が放射線被曝による健康被害に苦しみ、死んでいきました。そのドキュメンタリーです。時間のある時に、YouTubeの動画をご覧下さい。文章よりよく分かると思います。

みんな楽しくHappy♡がいい♪
チェルノブイリの犠牲者」原発作業員の証言と現実 2003年スイス(動画・内容書き出し)
2012-10-11(08:28)
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2319.html

※追記
なお、元記事の動画がリンク切れとなっているため、北の山がYouTubeから同名の動画を探し掲載しました。元記事の写真と同じなので、この動画が書き起こしの、動画と思います。
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実01
http://www.youtube.com/watch?v=FjuH-tmPO4Y
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実02
http://www.youtube.com/watch?v=8M4MmPOWylM
「サクリファイス」 - 犠牲者- 事故処理作業者の知られざる現実03
http://www.youtube.com/watch?v=6Z_LkOfJApQ
YellowTulip2001 さんが 2011/03/31 にアップロード
(追記、終わり。以下本文)

2003年にスイスで制作されたドキュメント。
長い期間をかけて取材されています。
事故収束作業に当たった作業員の証言が主ですが、
最後に出てくる奥さんの証言にも凄まじいものがあります。

スイス経由で表に出てきた真実です。



サクリファイス The Sacrifice
- 犠牲者ー事故処理作業者(リクビダートル)の知られざる現実
※ここが、リンク切れになっています。

2003年 スイス



1986年

真正面に見えるのが排気筒
左側が4号炉の制御室


スイッチオンにしてこの進路を保つんだ


私は発電所の屋上で4日間作業した

1日目は覆いの端をハンマーでたたいて水抜きをした。
2日目はコンクリートパネルを屋根の上から落とした。時間は5分。
3日目は換気筒の解体。
4日目は黒鉛の破片の除去。
黒鉛を手でつかんで放り投げた。


チェルノブイリ原発の屋上には、黒鉛やウランが散乱していた。
2万まで照射されたものだ
黒鉛の破片を出で持つと通常の環境では一生で浴びるほどの線量を1から1.5秒で浴びる。
リクヴィダートルと呼ばれる労働者100万人が原子炉に送りこまれた。
そしてこの破局事故の影響が他のどの地域にも及ばないよう
戦慄すべき放射線環境の中、即席の石棺で原子炉を封印した。
素手とショベルとウォータージェットで放射能と格闘したのだ。

数万人が亡くなり、今も死に続けている。

ソ連の科学者たちが計算すると、原子炉火災を5月8日までに何とかしないと、
燃え続ける核燃料がコンクリート土台を突き破って、
冷却水の中に落下し
ヒロシマの20〜50倍も大規模な爆発を引き起こす可能性があった。
するとヨーロッパも居住不可能になり得た。

5月6日
原子炉火災は手なづけられた。

リクウィダートルたちの信じがたい献身のおかげだが、
彼らへの補償は無きに等しかった。

ロシア・ウクライナベラルーシは彼らを見捨てて彼らは孤独に捨て置かれた。
そして西側世界も彼らの事を黙殺した。


続きを読むにつづく

1991年


栄誉賞状をもらったもの今は昔で、
その時は張合いも出たが、それも今はガラクタにしか見えない。
お偉方は沢山の約束をしてくれたものだ。
この表彰状は屋根の上で良い仕事をしたから渡してくれた。

それで屋根の上で働いて、終わって屋根から降りてきたら
指揮官がくれた報酬というのがこれだった訳だ。

こう言われたものだ。
「犬みたいに駆けて行け、ウサギみたいに逃げて戻れ」

今は第二級の障害者だ。
あまりにもいろんな病気を抱えているのでいちいち数え切れない。
35歳でも70歳の老人みたいだ。

私たちは屋上を片付けた。
石棺をつくらねばならぬという事だったから、
爆発のため、ウランやBARの黒鉛があった。
ロボットは持ちこたえられない。
内部の部品が融けて動けなくなってしまうからだ。
それで人間が送り込まれたのだ。

普通の兵士服だけを着て、屋上で作業した。
ガーゼのマスクを顔に、そしてオートバイ乗りのようなメガネを付けて、
斧でもって鉛の板を切り出した。
そして放射線の防護服らしきものを作った。
鉛は放射線の通過を遮断するというからだ。
防護服は自前でというわけだ。

アスベストはもう剥がし終わった」
「アスベルトをストレッチャーに載せろ」
「急いで破片を放り投げろ」
「わかったか」
「1個2個と運ぶ」
「場所についたら90数えろ。1,2,3,4、・・・90だ」
「90になったら道具を置いて逃げ帰れ」
「何か質問は?」
「ありません、了解」
「では作業開始!」

最初の作業時間は40秒。
40秒の間に駆けて行き、ショベルがあればそれを握る。
ショベルが無ければ黒鉛の破片を手で拾う。
手で黒鉛を原子炉の中に放り込んだ。


1日目、線量計は34レントゲン、しかし「9」と書かれた。
2日目は約30なのに「5」
指揮官に要求した。
「なにしている?測定通り書いてくれ!」
すると、
「さっさと出てけ!2度と来るな!」
それで終了。


私もハッキリさせようとした。
影響はてきめんに出た。
吐き気
ぶらぶら歩いたり、気が静まらない状態。
方向感覚が無くなり、急に力が抜ける。
原子炉で2カ月働いた。
電気技師として。
セメントを打つ時の証明を確保していた。
設置のため、原子炉によじ登ったものだ。
どこにでも入って行った。
私の場合わずか「11.92レム」と書かれた。
「いかさまを書かれたとボスに言いに行ってやる」と言って、
ボスのところに行くと、椅子に腰かけて笑みを浮かべながら
「高くて良かったと感謝しろ。感謝しないならもっと低い数字にしてやってもいいぜ」


前の厚生大臣サフチェンコによると、
閣僚たちはリッコフ首相から招集された。
リッコフは言った
「シークレットどころではない、トップシークレットだ」
チェルノブイリ事故に関する全ての線量データと情報はトップシークレットだ」
そういうわけで線量計算は実施されなかった。
たまに実施されたとしてもそれは無理に線量を切り捨てるためのものだった。


私は放射線を測定するよう命じられた。
村落で土壌を平たく削り取った。
放射能汚染を下げるために、放射線測定器を与えられた。
測定するといつでも、針が降り切れていかれた。
線量が高すぎたのだ。
見たくない現実ばかりだったので測定器を返却した。
「お返ししますんで何か別なものをくださいな」
すると大きなショベルをあてがわれたので、作業しに行った。
しかしショベルの仕事はすぐに終わった。
散水機の仕事に配置されたのだ。
放射能汚染されたダンプや道路に水を浴びせた。
あちこちの村落で作業したが、
住民は私たちの仕事が無意味だと見抜いていた。
上に尋ねた。
「なぜこんな無駄働きばかりしなくちゃいけないのか?」
すると
「質問するな。おまえは連れてこられたのだからさっさと働け」


私たちは部落を除染した。
ショベルで土壌をはぎ取り、手でトラックに積み込む。
塵埃が充満した。
そして当然ながらそれを吸い込んだ。
健康状態だが、私は自律神経失調症で、心臓神経症でもある。
チェルノブイリが原因で私たちを苛んでいる病気だ。
胃腸の具合も悪化してひどい苦しさだ。
昔は腎臓の病気など無かったのに、今は腎臓もダメになった。
脱力感を別としても精神状態も良くなく、
何時もイライラ感がある。

事故現場から10月に帰宅したが直ちに異変が現れた。
11月。まず左の手の感覚が無くなり、次に左腕。
次に左の尻。
そして両足が麻痺した。
医者もお手上げだった。
放射線被ばくが原因だということすら認めようとしなかった。
トロリーバスの運転手だったが、仕事をを辞めずに続けた
病気については一切口をつぐんでいた。
家族を養わねばならなかったから。
片手と片足だけで運転を続けた。
そのうち勤務中に意識を失って、自宅にかつぎ込まれた。
今はもう歩くこともできない。
めまいもする。
しかしそれより厳しいのは足だ。
足が歩こうとしてくれないのだ。
自宅では壁伝いに這っている。


私は指揮官だったので誰もがこの仕事は不可欠だと認識していることがひしひしと分かった。
「そうだ。俺たちは人の命や生活を守っているのだ」と
私たちの事は永久に記憶されるのだと思っていた。
でも今は御用済みでお荷物なのだ。
求めているのはただ人間的な扱いなのに、
それだけでやかましい厄介者なのだ。


「6か月ごとに様子を伺いに参ります」と言ってくれた。
6か月が過ぎた。
何の音沙汰も無かった。
医者も来ない、誰も来ない。
私たちは社会のゴミなんだ。

「お前はよく働いてくれた。賞状を授与する」
「健康と繁栄を堅忍不抜を祈る!」


1999年

俺はしきりに倒れるようになってしまった。
「車いすを使って下さい」と妻が言った。
それで車いすにした。それだけのことだ。
今は車いす生活者だ。

知ったことじゃない。
思い出したら辛いだけ。
忘れてしまう方がましさ。
太陽は輝く
美しく輝く
思い出したら地獄をみる
忘れてしまった方がましさ。
「今は昔 夢かうつつか」というだろう。

もしかして、
外国の誰かさんが、自動車をくれたりしないかな。
中古でもいい。どんな型でもいい。
外に出かけて野山を走りたいだけだ。
こんなありさまで自然に接しないままなのは厳しい。
まったく悪夢だ。
車がたまらなく欲しい。
そんなのは夢、かなわない夢だと分かってはいても、

しかしそれにしても…
ベッドの上に板きれみたく平たく横たわっていると、
飼い犬がやってきてじっと見てるんだ。
そこで「何で俺の事見てるんだ?」
俺はやって見せる「ワン!」
犬は思っているんだ。「このおやじ終わってるな」と。
構いやしない。
犬は離れていって台所に行く。
そして戻ってくる。
「どうしたんだ?」
「ワン!」
また離れていく、そしてまた戻ってくる。
もう3度目だ。
俺が「ワン!」
犬も「ワン!」
「これで話が通じたね」

なんたる悪夢。

人間が一人、全く徒らに終わった。
俺たちはなにもかも断念あるのみ。

本当はまだ若い…
38歳だが、60歳だと言ってもかまわない。
何が違うんだい?
チェルノブイリがあってからというもの、希望もなにも無くなったんだ。
ヴォドラズスキーが死んだ。
ミゴラク・クリモヴィッチも死んだ。
リオンカ・ザトゥラーノフも死んだ。
まだ生き残っているのは、
コルカ・ヴェルビツキーと俺だけ。
俺たち5人の中で何故かまだ生きているんだ。
白いカラスのように取り残されてね。

どうでもいい

チェルノブイリは確かに起きた。
でも言うじゃないか、
「今は昔 夢かうつつか 嘘かまことか」と。
あの頃の事は忘れるに越したことはない。
昔は大人の男だった。
昔は歩けた。
昔は車も運転した。
今となってはもぬけの殻だ。

これには何かわけがあるに違いない。

神様の前でそんなに多くの罪を犯したとも思えないが…
とにかく全部大丈夫。
悪夢だよ。


2001年
※ここからは、奥様の回想です。

私たちは83年に結婚。
早くも86年には夫はチェルノブイリに行き、全ての災厄はそこから

夫はいつも入退院を繰り返し、
夫の左腕は麻痺し、次は左足も麻痺。
なのに言われました。
「仮病だろう?ふざけてるんだろう?」
大の大人が歩けないのです。
明らかではありませんか。
夫はしきりにつまづいて倒れました。
医者は「風邪でも引いたんでしょう」
「運転手をしていると激しい風に当たりますしね」と。
でも実際には全然違う病気だったのです。

チェルノブイリは悲劇。
まだ理解されていない悲劇。
放射線被ばくによるこの病気は、実質上治療不可能で、
患者たちはサンプルにされているのです。

夫は6カ月間寝たきりで、その後…

いわば生きながらにして体が崩壊したのです。
肉体組織が全て崩壊し始め
腸骨が見えるほどになりました。
私は医者に指導された通りのやり方で、夫の看病をしました。
女の医師のところに出かけて、方法の説明を受けました。
夫の心臓が止まるまで、そんな調子で続けました。

肉が全てそげ落ちて…
背中はペタンコで…骨がむき出しでした。
太ももの関節も手で触れるほどでした。
私は手袋を使って、手で骨の消毒をしました。

分解し腐乱した骨の残骸を取り除きました。

何故か分からないのですが、急に容態が悪化しました。
医師に助けを求めたり、大学教授に頼ったりしました。
可能な限り誰にでもすがったのです。
しかし言われました。
「こんな病気は初めてでよく分かりません」
「症状を緩和する事しかできません」といった調子なのです。

骨髄が駄目になっていくのに直面して、彼らはお手上げでした。
なすすべがなかったのです。

夫は「もう死なせてくれ」と頼みました。
苦しまなくて済むようにと。
痛くてたまらなかったのでしょうね。
寝返りを打たせると、歯ぎしりをしたりうめいたりしていました。

でも彼は絶対に叫び声をあげたりせず、耐え抜いたのです。
意思の強い人でした。


娘には腎臓の異常があります。
息子は少し吃音があり目も病気です。


片方の腎臓が下垂しています。
痛いです。


これは私たちだけの悲劇ではありません。
ベラルーシ全体の悲劇です。
そしてあの人たちの悲劇。
とりわけ人を救い、全てをこなし、そしてたちまち全く忘却されていった人々の悲劇です。

いま住んでいるアパートの部屋を得るためにも、ハンストせねばなりませんでした。
夫が入院した時、そこでは人々が権利を獲得するために断食していました。
助けを獲得するためにです。

労働者集めの時、お偉方は大層な約束をしました。
住む家とか、子どもたちの託児所とか、
でも結局は空手形でした。

胸がつかえます。
全ての出来事を目の当たりにして辛いばかりです。
(何の罪もないのに)なぜなのか分かりません。
そうですとも。

夫は誰にでも何についてでも語ることはできたでしょう。
どんなことについて誰かに話をさせることもできたでしょう。
夫のような人を伴侶にして良かった。
彼は全てを理解し、全てを人の命のためにささげたのですから。

中には足るを知って静かに生きることができる人もいます。
「私にはあれとこれがある。それで充分だ」と。
しかし夫は人生に何かそれ以上のものを求めたのです。
何かそれ以上のもの、遥かなものを見つめていたのです。
夫は生き急ぎすぎました。

埋葬が終わってから1年も経ったころ、
チェルノブイリ・アソシエーション”が電話をしてきて、
「ご主人の様子はいかが?」と尋ねました。
「もう亡くなりました」と伝えました。
そのことすら知らなかったのです。

夫は言っていました。
チェルノブイリから13年間は生きたいものだな」
それが生きがいだったのでしょう。
そうでもなければ、どうしてあんなに長いあいだ闘病生活ができたでしょう。


ここには事故直後に亡くなった人たちも眠っています。
私たちの親友ヴォドラズスキーは指揮官で、ヘリのパイロットでしたが、
事故が起きて間もなく世を去りました。
彼も同じような肉体組織の崩壊に見舞われたのです。


ヴォドラズスキーは原子炉の真上を飛行しました。
兵士たちが原子炉を封印している時はその場から離れませんでした。
彼は一緒に勤務に当たっていた兵士たちを非番にしようとしました。
兵士たちを飛行に関与させずに自分で操縦しようとしたのです。
そんな事をしていたらどうなるかも彼は分かっていました。



2003年

2000年12月15日。
最後まで運転していたチェルノブイリ原発の原子炉「3号機」がついに閉鎖された。
しかし石棺の中には200トンの核燃料が溶岩のようにあちこちに堆積し、
将来いつかは除去されねばならない。

事故炉の一連の処理計画は1世紀もかかるだろう。
専門家チームが石棺の健全性を24時間モニターし記録している。
亀裂を検査し、原子核連鎖反応を防ぐために湿度を監視している。


ウラン235がある近傍では、放射線量計が2から3倍の中性子の存在を示す(?)
ウランが臨界量以上存在し湿度も加わると、
中性子によって連鎖反応が始まり、爆発を引き起こす可能性がある。

チェルノブイリの妖怪」はまだ生きているのだ。


「今は昔 夢かうつつか」
「思い出せば悪夢さ」



●監督
 エマヌエラ・アンドレオリ (Emanuela Andreoli)
 ウラディミル・チェルトコフ (Wladimir Tchertkoff)
●カメラ・音声
 ロマーノ・カヴァゾーニ (Romano Cavazzoni)
●編集
 エマヌエラ・アンドレオリ (Emanuela Andreoli)
●制作
 フェルダート・フィルム - スイス (Feldat Film - Switzerland)